第一・五話

中臣鎌足 1


 ──お前はどうしたい?


 すっかり夜がふけた午前零時。ノートを閉じた姿勢のまま、はじめは学習机に向かって小さな息をついた。

 今日の昼間、思い悩む翔太しょうたに向けた言葉。その羅列を再び舌にのせると、小さくころりと転がした。

 それはかつて翔太に言われた言葉だった。いや、翔太と言えば嘘になる。自分がまだ鎌足かまたりと呼ばれていた時代に、当時の親友・蘇我入鹿そがのいるかにかけられた言葉だった。


 当時の自分は若かった。現代でいえば中学生くらいだったろうか。入鹿はそれより二つばかり若かったが、自分と同じくみんという僧侶の学堂に学び、共に机を並べていた。

 その学堂の首位はいつでも鎌足と入鹿だった。今でもそうだが、自分はいわゆるガリ勉である。当時の鎌足も、誰よりも早く学堂に赴き誰もいない部屋で墨を刷った。

 最後に来るのが決まって入鹿だった。お付の舎人とねりと入り口で別れると、質の良い木簡もっかんを持って鎌足の横に腰を下ろす。無愛想な自分の隣に座りたがる者はいない。だから鎌足の隣席は必ず最後まで空いていた。

 余ったそこに入鹿が座ると、互いに喋ることも無く黙々とひたすらに文字を綴った。それが友達でも他人でもない当時の二人の関係だった。


 初めて声をかけられたのは出会ってから三回目の夏だったと思う。当時の中臣なかとみ氏はかつての勢いを失っていた。元々中臣は朝廷の神事を司る、神に近い家柄だ。しかしながら、物部もののべ蘇我そがが対立した時期に敗者となる物部に親しかったがゆえ、その後の地位は好ましくなかった。

 加えて自分は嫌な人間なのだ。いつも墨と書物だけを相手にし、誰とも喋ろうとはしない。そのくせ首位を取るなど良い八つ当たりの対象だったのだろう。由緒正しい家柄のものが集まるその学堂では、度々嫌な陰口を叩かれた。


 ある日、いつも通り一番乗りをして机に向かった後、少し気分転換をしようと外に出た。そして、次に戻った時には筆が一本無くなっていた。一本と言っても、鎌足にとってはたった一本の筆だった。既に人が集まっており、遠くの方に先生の姿が見える。もうすぐ講義が始まるのにどれだけ探しても見つからなかった。

「これ使う?」

 ふと、横から声がした。そちらを見ると、いかにも高そうな筆が差し出されている。白い腕をたどった先に、見慣れているようで知らない、初めて正面から見る顔があった。

 美しく流れる髪の横に、一本だけ赤い簪がさしてある。彼が何も言わぬ鎌足に首を捻ると、垂れ飾りがチリッと小さく鳴った。

「筆、忘れたんでしょ?」

 隣の彼はキョトンとした顔で言う。マジマジと見つめながら、形の良い切れ長の瞳を覗いた。お前はこんな瞳をしていたのかと不思議なところに感心した。

「······ありがと、ございます」

 声になったような、ならぬような、そんな掠れた言葉だった。初めて手にした彼の筆は、まるで使い古したものであるかのように手に馴染んだ。柔らかで滑らかな手触り。直ぐに自分が触ることなどない高級なものだと分かった。

 結局、使うのが恐れ多くてまともな字を書けなかった気がする。あの日なくした筆は学堂脇の木の根元に転がされていた。


 その日から、学堂にいると「おはよう」と声をかけられるようになった。それはたった一つの声だったが、ザワザワと賑わう教室の中で自然と耳に入ってきた。それに鎌足も「おはよう」と応えた。そうすると彼は少し微笑んで席につく。それがいつしか日常となり、数年後には肩を並べて帰るようになった。

 そんな夏の日からであろうか。鎌足は彼······入鹿を友達と呼ぶようになった。










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