「納得出来ねえ」

 智はいつまでも言っていた。六月が終わりを迎えようとしてもなお、だ。

 担任の酒井さかいが辞職を宣言してから、智はずっと落ち着きがなかった。喉に何かがつっかえているような、痒いところに手が届かないような、そんなあと一歩の居心地の悪さ。言いたいことはたくさんあるし、相手にハッキリと伝えているつもりだ。葛野智は発言を迷ってくよくよするほど優柔不断な人間ではない。その自負が言葉を直球にさせるが、肝心の酒井に届いている保証はなかった。


 はじめにとって、そんな智の想いは手に取るように分かった。この男は分かりやすい。思考回路さえ掴んでしまえば、心を読み取ることなど容易くできる。しかしだからこそ、一は智の感情変化に影響を受けやすかった。

「なんで酒ちゃんが辞めなきゃなんねぇの? 悪くないだろ酒ちゃんは」

「世の中善悪だけじゃどうにもならんぞ」

「うるせぇ、俺が納得できねえ」

 智だって幼子ではない。世の中の理不尽さや複雑さなどは分かっているのだ。しかしそれをそのまま納得できないのが智であった。それは昔から変わらぬこと。そこが彼の欠点であり美点でもある。

 一はそんな智を見つめて言葉を返すのをやめた。こういう時の智は一人で真剣に悩み抜いている。そこに横槍を入れても意味が無いことは自明だった。


「おはよ」

 そこへ翔太しょうたがやって来た。難しい顔をする智を見て、彼も言葉をかけるのをやめる。自分の席につくと、静かに荷物をまとめながら一に目を向けた。

「一、今いい?」

「······おう」

 智を一瞥してから立ち上がった。廊下に出ると、翔太は難しそうな顔で教室の中の智を見る。

「結局生徒会入るんでしょ?」

 保留になっていた委員会の話だ。本来なら六月の始めには始動しているはずなのだが、例の事件のせいで学校全体として委員会の発足が遅れていた。

「ダメだったか?」

「う、ん······ダメというか、嫌な顔はされた」

 翔太の親は厳しい。一言にそう言っても、子供に辛く当たるような厳しさではない。過保護とでも言うのだろうか。暴力などしない、理不尽な育児放棄などもってのほか。誰よりも翔太のために手を尽くし、誰よりも翔太のことを守ろうとする。愛もお金も有り余るほどにある。ただ、彼には自由がなかった。翔太のことを思うがゆえ、翔太を大切にするがゆえに、彼の親は翔太への干渉が大きかった。

「そう······」

 一は眉を寄せて呟いた。智は三人で生徒会に入りたいと言うが、こんな現状で翔太の親がそれを許すとは思えない。しかし、一が聞きたいのはそこではなかった。

「お前はどうしたい?」

 翔太がこちらを見る。窓から差し込む柔らかな光が、彼の端正な顔に陰影を落とした。その光が消えぬうちに、彼はほんの少しだけ瞳を揺らす。そして一から視線を外すと、「俺は······」とだけ言って目を伏せた。

「とりあえず、考えてみろ。お前の言葉が聞きたい」

 そう言って翔太の肩を叩くと一は教室に戻った。まだ席にいた智は頬杖をついてクルクルとペンを回している。彼が考え事をしている時の癖だった。

 一は話しかけるのをやめた。しばらくして翔太も戻ってくるが、彼にも話しかけはしなかった。それが、昔から変わらぬ一らしい姿だった。









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