正義


「おはよう」

 容疑者が殺人犯となった翌朝、響いた声に皆が一斉に顔を上げた。寄れたワイシャツ、寝癖付きの前髪、耳馴染みのある萎びれた声。それは一週間ほど姿を見せなかった担任の酒井さかいであった。

「えっ、酒ちゃん」

 一番早く声を上げたのは友人と双六をしていた智だ。酒井は智の顔を見て、再び「おはよう」と繰り返す。

 そこからはいつも通りの流れだった。欠席者だけを確認する手の抜かれた健康観察に、疲れた声が並べ立てる白く無機質な事務連絡。

 しかし教壇に立つ酒井はどこか寂しげで、いつもより丸まった猫背が彼の影を小さくさせた。


「皆にな、一つお知らせがあるんだ」

 全ての連絡が終わった後、いつもなら直ぐに消えるはずの酒井が顔を上げた。生徒一人一人の顔を噛み締めるように見つめながら、「俺な、辞職することにした」とヘラヘラとした笑みを浮かべる。

「皆も知っていると思うが、俺が顧問をしている生徒会の一人が人を殺した。これは許されないことだ。でもな、その原因が生徒会の中の内輪もめなら、監督が不十分だった俺にも責任がある。警察も学校側もそんなことは無いと言うが俺が納得できないんだ。だから先生は今月でやめる。皆の担任になったばっかなのにみっともないよな、ごめんな」

 それはあまりにも唐突で非日常的な言葉だった。皆がぽかんと口を開け、酒井の顔を見つめている。誰もが言葉を飲み込めずにいた。咀嚼しようにも柔らかすぎる言葉だった。それを真っ直ぐに受け止めた、たった一人を除いては。

「は? 俺らを捨てるんですか?」

 酒井の声をおしのけたのは智だった。固まった教室の中で、その言葉だけが生きた光のように酒井を貫いた。

「生徒会の監督の話なんて聞いてないっすよ。それ以前に俺らの担任でしょ? 俺らより委員会を優先するんだ、先生は」

 それはまさしく炎のような言葉だった。いや、炎という概念になど収まりきらない。燃えてはうねる太陽のような、そんな灼熱を纏った龍がそこに見えた。それが酒井の身体をめがけ、熱く鋭い牙を向く。

「見捨てるんだ、まだ六月になったばっかなのに。先生は一年間、俺らのことを任されてるわけでしょ? 九ヶ月分の俺らを捨てるんだ」

 酒井は瞳を揺らした。彼の覚悟は決まっていたのだろう。無論、智が放つ言葉など考慮の上である。担任であるこのクラスの全員を裏切ること。それを承知の上で出した決断のはずだった。

 しかし生身の子供は恐ろしい。生徒の心から湧き出す言葉は、教師の心を容赦なく抉りとる。それが真っ直ぐであればあるほど、それが本音であればあるほど、それは力を増して教師の背中に食らいつく。良い意味でも、悪い意味でもそうだ。

 だから酒井は声を失った。こちらを見つめる雄々しい瞳に、酒井の顔が崩れていく。しかし、一層自分の情けなさが身にしみたのだろう。「ごめんな、ごめんな」とだけ繰り返して前髪を掻き乱した。

「別に先生の決断に反対してるわけじゃないっすよ。それだけの決意があるのかどうかって聞いてるんです。俺は酒ちゃんともっと遊びたかった。だから嫌なだけです。なんで犯罪者でもない酒ちゃんがそんなに苦しまなきゃならないんすか。当事者が全部背負えばいいのに」

 智はどこまでも真っ直ぐな男であった。正義感が強いとでも言うのだろうか。自分の中の正義にそぐわないものは許さない。それを排除してまでも、己の道を己の足で歩かんとする男だった。

 だから彼にとって、酒井は守るべき正義の仲間だった。そんな酒井を苦しめる事件の犯人はどこまでも悪人であった。なぜ、正義の酒井が悪の犯人のために辞職せねばならぬのか。それが智には理解できなかった。それゆえの怒りの言葉であった。

 智の声が酒井の背中を押す。始業の鐘がなった所で、酒井はやっと顔を上げて教室を去っていった。











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