御曹司


 教室に戻ると、時計の針は既に始業時間を指していた。滑り込むように席に着けば、「珍しい」と横から声が飛ぶ。

「中々来ないから休みなのかと思った。さとしにでも駆り出されてた?」

「うるさいぞ、付き添ってただけだ」

 ため息を落とせば忍び笑いが聞こえてくる。小学校以来の幼馴染は、「相変わらずだな」とはじめの机を指さした。

「さっき配られたプリント中に入れといた。勝手に二つ折りにしちゃったけど大丈夫だった?」

「ああ、ありがと。別に読めればいい」

「そう、なら良かった」

 一分もしないありふれた会話。夏風にでも攫われてしまいそうな日常の断片だが、これも平和の証である。言葉のボールが途絶えると、青空を閉じ込めた窓を背景に隣席の友人は前を向いた。

「おい翔太しょうた! 今日お前ん家の車で送って貰えね? 歯医者あるけど普通に部活行きてえ」

 斜め前方を見れば、智が半身をひねって白い歯を見せている。しかし、「な? 頼んだわ」と前へ向き直ってしまった。

「まだ返事してないし」

 声をかけられた友人 ── 鞍本翔太くらもとしょうたは呆れたように智を見つめた。しかし言い返す気はないらしく、「分かりましたよ」と言わんばかりに頬杖をつく。

 彼は大企業・鞍本グループの御曹司で、一とは小学校一年生からの長い付き合いである。活発な智と出会ってからは三人でつるんでいるものの、翔太の父が過保護すぎるのもあって派手なことは出来なかった。本人はこちらのバカ騒ぎに混ざりたいらしいが、目立つのが嫌いな一からすれば混ざらなくて正解だと思う。しかしそれでも三人でいるのが楽しいらしく、有名エリート校から志望を落としてまで一や智と同じ高校へ進学してきた。


 そんな翔太の端正な横顔を数秒眺めたあと、机の中のプリントを引っ張り出す。綺麗に折られた角の白さが、彼の丁寧な性格をよく表していた。

「はじめー、ボールサンキュ」

 智がまたこちらを向いた。やっと思い出したかのような言葉に「はいはい」と片手を振る。彼の気ままさにため息をついたところで、教室のドアがガラリと開いた。

「おはよう。今日休んだやついるか?」

 くたびれた頭をかきながら担任の酒井さかいが入ってくる。いつ見てもよれたワイシャツだ。几帳面な人間としては今すぐアイロンをかけてやりたくなる。しかしそんなことを口にできるわけもなく、曲がったネクタイを目で追いかける。彼はやる気のない声で事務連絡をすると、最後に「そうだ」と付け足した。

「明日委員会決めるからな。今日のうちに希望決めとけ」

 そうとだけ言い残してシワの寄った背中が去った。その瞬間、智がこちらを向いて「なぁお前ら同じとこ入れ」と眩しい光を瞳にたたえる。

「俺生徒会やるから」

 率直な言葉に顔をしかめる。正直人気のない美化委員でいいかと思っていた。

「一はいいの?」

 ふと翔太がこちらを見た。一瞬本音を漏らしそうになったが、咄嗟に口を閉ざすと「別に」と息を吐く。

「そう······なら俺も生徒会でいいや」

 翔太が柔く笑って視線を逸らす。二人の言葉を耳にするや否や、智は「よっしゃあ」と頬を染めた。全く単純なやつである。

「俺三年なったら生徒会長やりたいんだよね。ぜってぇモテるだろ」

「そこかよ」

 相変わらずな彼に小言を飛ばせば、「ロマンだろロマン。下駄箱から溢れ出るバレンタインチョコ」と季節外れな言葉が返ってくる。しかし何故か笑いが漏れて「うるせぇ」と叱られた。


 生徒会か。真面目で地味な先輩ばかりだった気がする。正直顔など思い出せない、太陽のような智が馴染めるのかは不安だが、大人しい人が多いなら悪くは無いかと天井を仰いだ。

「皆さんおはようございます。今日は暖かくていい天気ですねえ」

 英語の阿部が入ってきた。「やべっ教科書」とロッカーに飛びつく智を横目に、一も机からノートを引っ張り出した。










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