一年生

第一話「青空高く靴とばせ」

サッカー少年


さとし! そっち行ったぞ!」

「分かってら!」

 高く晴れた空に歓声が響いた。夏を間近にした太陽は飽きれるほどに目に刺さる。しとしとと近づいていた梅雨の気配など何処へやら。色づき始めた紫陽花の葉にはカタツムリの一匹もいやしない。

 ありふれた朝のグラウンド。砂埃を手で払いながら藤田一ふじたはじめは眉を寄せた。

 目を閉じたくなるような朝日の中をクラスメイトたちが駆け抜けていく。よくもまあ朝っぱらからサッカーなど出来たものだ。自分は運動が苦手なのでそんな体力など何処にもない。ボールを追いかけているのはサッカー部やバスケ部などの運動に長けたメンバーがほとんどで、混じっている文化部のやつらには尊敬の念さえ湧き出てくる。


 一は暑い日差しから逃げようとグラウンドの隅に足を進めた。昇降口の傍にあるけやきの木陰は幾分か涼しさが感じられる。ミネラルウォーターのキャップを外すと、一口ごくりと飲み込んだ。空いっぱいに伸びた枝葉にはチラチラと光が踊っている。

 ああ、また暑い夏が来た。

 何度も反復した言葉の羅列を再び頭に並べ立てる。夏が来たことなど重々承知しているのだ。しかしこの厄介な季節を認めたくない自分がいる。

 一は夏が嫌いだった。暑いと勉強に集中出来ない上に、立ち込める湿気が鼻につく。中でもプリントやノートが湿気に歪み、手に張り付いてくる感覚が一番嫌いだ。しかしかと言って冷房を付けると身体が冷える。もうどうしろと言うのだ。自分はただただ静かに勉強をしたいだけなのに。

 大きなため息で押し出すようにペットボトルを口から離す。側面を滑り落ちた雫が小さく地面に斑を生んだ。


 もう授業が始まるので帰りたい。そう思った矢先、「智ー! シュート!」と雷鳴のような声が湧き上がった。

「見とけ! 俺の必殺シュートッ!!」

 眩しい光の中で、美しく伸びた足がボールを押し出す。それは綺麗な弧を描き、吸い込まれるようにネットに張り付いた。

 ······同じく空へ舞った靴を宙へ残したまま。

「あ、やべ」

 決まったシュートに拳を突き上げるのもつかの間、智と呼ばれた少年は間抜けな声を上げた。右足からすっぽ抜けた靴は、これまた綺麗な弧を描いて一の前に落ちる。

「わりぃはじめー! 靴取ってー!」

「あっは、またかよ智」

 チームメイトに野次を飛ばされつつ、智はこちらへ手を振った。ニカニカと光る笑顔が眩しい。まるで太陽そのものかのようだ。

「······言われなくても拾いますよ、っと」

 誰にも聞こえぬように呟き、智の靴を拾い上げる。砂を纏ったスポーツシューズは笑顔によく似た明るい赤だ。その鮮やかさに気圧されるように、一は智の元へ足を進める。

「毎度毎度悪いな。なんっか知らねぇけどお前の方に吹っ飛ぶんだよな」

 頭をかいた智は「ん」と右足を差し出した。日に焼けた足を一秒だけ見つめ、一は地面に膝をつく。


 差し出された足に靴をはめ込む。その時、地面がくらりと歪んだ。ああ、またこれか。靴を履かせるといつもこうだ。瞼に焼き付く幻影を追い払うかのように目を細める。

 ──お前、名前は?

 空から降った真っ直ぐな声に、一はいつも通り顔を上げた。耳に下げられた装飾品と袖の長い高級な布。こちらを見つめる鋭い瞳はまるで獅子のようだった。陽炎のように揺らぐシルエットの中で、瞳だけは太陽のように燃え盛っている。

 紅い瞳は地面に降り立ち、ふとこちらの顔を覗き込んだ。


「なんだよ、サイズ合わないか?」

 途端に空の青がよみがえる。怪訝な顔をした智がいた。その瞳に燃え盛る炎は見えない。ただ見慣れたグラウンドの砂埃だけが夏風を纏って顔を叩いた。

「全く、ちゃんと靴紐結んどけよ」

 智の足をぺしゃりと打てば、「いって」と片足で飛び跳ねた。

「転んで怪我したらどうすんだ」

「お前は俺のオカンか」

 智が歯を見せると、笑い声とチャイムの音色が重なった。

「あ、やべっ。山田ぁボール片付けといてー、日直なの忘れてた!」

 智が振り返って声を飛ばす。こちらへ向かってきていた山田が「はぁ!?」と口を曲げた。

「ばーか、お前のボールだろ! お前片付けろよ!」

「あン? 俺が片付けろっつってんだぞ片付けろよ」

「はいはい、俺やっとくから」

 言い合いを始めた二人にため息を着くと、ゴールに取り残された球を取りに行く。「さっすがはじめ!」と笑う智が、どこか幼く無邪気に見えた。

「あとでジュース奢れよ」

「えー! ケチ」

 走りさろうとする智をジトッと見つめれば尖った口が返ってくる。肩を竦めてボールを拾うと「日直なんだろ? さっさと行けよ」と手で追い払った。

「ママは大変だな」

 クラスメイトの山田がニヤつく。全く適当なことばかり言う。智のママになった覚えなどないのだが。山田の背中を手の平で叩きながら、「さっさと教室行くぞ」と砂埃の中を駆け出した。












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