第28話

 夜が更け、サウストの白い街は月光に照らされて青白く染まっていた。温暖なこの街も、日が沈んでしまえば夏でも一気に気温が下がっていく。ひやりとした空気に包まれて、街全体がしんと静まり返っていた。


 商人の組合所は、街の東門から入ってすぐ、サウストを囲う外壁のすぐ内側に建てられている。その裏には堀が作られ、低くなった土地に、外壁を貫くように川から引いた水路が通っている。


 街の中からは外がほとんど見えないほど背が高く、強固な白い外壁の真下。水路脇の細い通行用の道に、プリマはいた。


 組合所の者たちが、ここを勝手に荷物置き場にしているらしい。その木箱や樽に隠れるように体を横たえて、ボロ布を全身に被り、一人、寒さと痛みに震えていた。そうやって何日が過ぎたのか、プリマには分からなかった。


 シオンに追い出されてしまったあと、とにかく人間の体を保たなければと、路地裏にいた老婆の元へ向かった。ただ地面に布を敷いて、その上にいくつか薬の小瓶が並んでいただけの、露店と呼べるのかも分からないような薄暗いあの場所へ。そのあとでシオンの元へ戻るつもりだった。だがあの路地裏に行っても、老婆の姿も、広げられていた薬の小瓶たちも、どんなに探しても見つからなかった。


 シオンの元へ戻れないまま、途方に暮れて朝を迎えると、全身を倦怠感が襲う。もう時間がないことを悟ったプリマは、身を隠す場所を探し、この水路へ辿り着いたのだ。両脇を建物に挟まれたこの場所は、日も当たらず、人が通る用もない。置いてある荷物は普段使わない物なのか、組合の者がここへ来ることもなかった。


 それから、ひどい頭痛と吐き気で動けなくなり、体の変化が少しずつ始まった。


 最初の変化は、体毛だ。太い獣の体毛が、顔も含め全身に生えてきた。

 次の日には、手足の爪が全て剥がれ落ちた。獣の爪に生え変わるのだ。爪の中の肌が剥き出しになり、何かに触れるだけで激痛が走る。


 薬を初めて飲んで人間になった時と同じ順番で、今度は獣人に戻っていくのだろう。だからプリマは、間も無く始まろうとしている骨格の変化の段階が、とても苦しいことを知っている。


 耳の位置が頭の上に上がる。それから鼻先が伸びて、歯が伸びて、牙ができる。同時進行で、尻尾も生える。これが約1週間ほどの時間をかけて、徐々に徐々に変化していくのだ。


 1週間。プリマにとっては気が遠くなるほど長く苦痛な時間に感じられるが、それは身体の形が変わるには、短すぎる時間だ。急激に骨格が変化する痛みは、当然ながら尋常ではない。もっと本格的に変化が始まれば、人間になった時と同じように、恐らくプリマは気を失うだろう。


 人間になった時は、喜びはもちろんあったが、同時に魔物の力は本当に恐ろしいと思った。小指ほどの小瓶に入った薬を飲んだだけで、身体の構造があり得ないスピードで変わってしまう。


 やっと、誰からも嫌な顔をされない、美しい人間の姿を手に入れたのに。変化の最中の自分は、まさに魔物そのものだ。鏡がなくても分かる。この世のものとは思えないほど醜い姿をしているはずだ。毛はまだらに生え、人間の肌が露出している部分もある。人間になった時は少し体が縮んだが、今度はまた獣人のサイズに戻ろうとしているのか、皮膚がたるみ始めている。

 舌はすでに伸びきっており、今の口に収まらない。完全に元の形に戻るまでは、言葉もうまく話せないだろう。


 本当に生きて獣人に戻れるのか。薬が切れたら元に戻る。そう老婆は言っていた。でも、本当に? そんな単純な話だろうか。だがそれを、誰かに聞くことももう出来ない。あの時は老婆が面倒を見ていてくれたが、今回は一人でこの生きるか死ぬかの変化に耐えねばならない。


 だが――獣人に戻ったところで、自分に残された道はあるのだろうか。


 故郷では、自分は死んだことになっているはずだ。人間の体を手に入れてから、商売に使っていた荷車を自らドラゴンの山に捨てに行った。あたかも、魔物に襲われたように見せかけて。


 家族は、どう思っているだろうか。自分のせいで、トトにも両親にも迷惑をかけてきた。自分が死んだことで、集落の者たちの風当たりが、少しは弱くなっていたらいいなと思った。


 シオンは、どう思うだろう。

 獣人と一緒にいても、人間は幸せになれない。仕事がほとんど無くなってしまった今の彼ならば、なおさら獣人と一緒にいたいとは思わないはずだ。

 それに……今のシオンは、プリマのことなど、もうどうでも良いのかもしれない。例え人間の姿で会えたとしても、あの頃のシオンが戻るわけじゃない。


(もう一度、会いたい)


 自信と正義感に満ち溢れて、屈託のない笑顔を見せるシオンに、もう一度会いたい。

 ぎゅっと閉じていた目をそっと開ければ、澄み切った黒い空に星が散らばっていた。人間の姿に変わる時もこうして星を見たことを、プリマは思い出した。そう言えば、あの時は流れ星が見えたはずだ。

 願いは叶ったはずなのに。何でうまくいかないんだろう。ただ、シオンの笑う顔を見ていたかっただけなのに。


(バチが、当たったのかなぁ)


 お金を盗もうとしたから。いや、獣人の姿を捨てたから? いつからだろう、一体いつからやり直したら、神様は許してくれるんだろう。

 記憶を辿ろうとして、プリマは目を閉じた。

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