第6話
『たまごが先か、にわとりが先か』 木下流里
鍋島先生に志藤先生を好きになったきっかけを聞いた。
鍋島先生は「見た目」と言った。
それに対して「軽い」とか「最低」とか言っちゃったけれど、実際にはそんなものなのかもしれない。
好きになったきっかけを説明することはできるけど、それは後付けなんじゃないかとも思う。
別の人が同じ言動をしたとしても、同じように好きになるとは思わない。
好きになっていたからその言動に心が動いたのかもしれない。
心が動いたから好きになったのか、好きだから心が動いたのか、それは「たまごが先か、にわとりが先か」という問題と似ている。
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夏休みが終わった。
鍋島先生に呼び出されたことでムカつくこともいっぱいだったけど、少しだけ感謝もしている。
帰り道は志藤先生に送ってもらえたし、その後で志藤先生に「ありがとうございました」とはじめてのメッセージを送ることもできた。
そして、それをきっかけに志藤先生から「宿題は終わってる?」とメッセージが来たし、ワタシは「また学校で会えますね!」とお返事をしたりというやりとりができるようになった。
たくさんやりとりをしたわけではないし、内容だって差し障りのないことだけど、少しだけ先生との距離が縮まったと思う。
ちなみに元カノに会いに行った後の鍋島先生には「泣いてない?」と意地悪なメッセージを送っておいた。そうしたら「心配してくれるの? うれしいわ」という言葉からはじまる長い長い返事が届いた。
とりあえず元カノにあった後も元気そうだというのはわかった。
鍋島先生にはムカつくことが多いけれど、だからといって不幸になってほしいわけじゃない。それに自分ではどうしようもないことを理由に好きな人にフラれるなんてかわいそうだとも思う。
それから、すみちゃんと樹梨ちゃんの家に謝りにも行った。
鍋島先生の言った通り、樹梨ちゃんはなんだかんだ言いながらもワタシにオレンジジュースを出してもてなしてくれた。
新学期を迎えたワタシは、少しだけ大人になれたような気がしていた。
ワタシの通う北山中中学校では、十月最初の日曜日に体育祭が開催される。
だから、夏休み明けのテストが終わるとすぐに体育祭の準備がはじまる。
団体競技の練習や応援団主導の応援練習がはじまるので普段以上に忙しくなる。
ちなみに応援団は夏休み前に決めていて、団員は夏休みの間に応援プログラムや練習のスケジュールを組んでいた。応援団に立候補する人たちはなんだかやる気に溢れているから、その練習にはかなり熱がはいる。
体育祭のプログラムには、一年から三年まで全員が参加する綱引きなどの団体種目、学年すべてが参加する学年種目、暮らすから代表者が出場する個人種目がある。
個人種目は、一人一種目以上出場することが決められている。運動が得意ではない生徒は借り物競走とか三人一組で行う大玉運びなどの種目に参加する。ワタシはジャンケンに勝ってキャタピラ競争に選ばれた。段ボールの中に入って進む競技なので、顔があまり見られないという特典付きだ。
気が重いのは学年種目だった。
毎年恒例でこの学年種目の内容は決まっている。
一年生は創作ダンス。
二年生は百メートル走。
三年生はスウェーデンリレー。
一年だけ競争ではなくダンスなのは謎だけど、この三種目で最も気が楽なのは百メートル走だと思う。
六名で競争するので足の速さが一目瞭然になってしまうが、他の人の足を引っ張ることを考えなくていい。とはいえ、自分の足の遅さが晒されるのは本当に勘弁してほしいところだ。
そして体育の授業も体育祭を意識した内容に変わってくる。団体競技の練習と学年種目の練習が加わる訳だが、去年の今頃はひたすらダンスを踊っていたことを思い出す。
そして今年はひたすら百メートル走をすることになるのだ。
せっかくなら志藤先生にいいところを見せたいけれど、ワタシの運動神経は中の中だ。徒競走に関してだけ言えば、中の下から下の上くらいだろうか。
どんなにがんばっても良いところなんて見せられない。
それにくじ引きで決められた一緒に走るメンバーには運動部の子が二人いる。だから三位になれれば上出来で、おそらく四位か五位だと思う。
それでもとりあえず三位を目指してがんばってみようと思っている。
だってがんばって練習するワタシを見て、志藤先生が微笑みを浮かべて小さく頷いてくれるからだ。先生の瞳からは「よくがんばってるね」というメッセージを感じられる。これはもう、目と目で会話できる仲だと言っていいのかもしれない。
ある日、体育の授業を終えて教室にも泥津としたとき、一人のクラスメートが志藤先生に話し掛けた。
なんだか妙に真剣な顔をしている。
どんな話をしているのか気になって割り込みたい気持ちになったけれど、生徒が先生に話し掛けるなんて当たり前だし、そんなことに嫉妬するなんて大人げない。
だからワタシはグッと衝動を堪えて、靴紐を直す振りをして近くにしゃがみ込み、微かに聞こえてくる二人の会話に耳を澄ませた。
ところどころしか聞き取れなかったけれど、どうすれば速く走れるようになるか聞いているようだ。
ワタシはホッとした。
ホッとしたからか、ワタシが志藤先生をはっきりと意識するようになったきっかけを思い出した。
志藤先生に話し掛けているクラスメートこそが、その出来事の当事者だったからだ。
志藤先生をはじめて見たのは四月のことだ。始業式で新任の先生として登壇してあいさつをする姿を見て、きれいな先生だなと思った。
ワタシたちのクラスの体育の教科担任になると知って、若くてやさしそうな先生で良かったと思った。
だけどあのときのワタシは、志藤先生を好きだと意識することはなかった。
何回目かの体育の授業で五十メートル走の計測をすることになった。二人ずつ順番に計測をしていき、ワタシは可もなく不可もないという程度の記録を残した。
そんな計測のときクラスメートから笑われて、からかわれてしまった女の子がいた。
それが宇津木いず奈(うづきいずな)さんだ。
宇津木さんはワタシよりも背が高いのに、ワタシよりも細くてちょっと触ると折れてしまうんじゃないかと思うようなスタイルだった。
そんな宇津木さんの走り方はどことなく不格好だったのだ。どこがどうおかしいのか上手く説明はできない。
手足の動かし方を忘れてしまったかのようなぎこちない走り方をクラスメートは笑い、男子の一部は大げさに揶揄したり真似たりした。
もしも社交的な性格の人やお笑い芸人のような人だったら、そんなクラスメートの笑いもネタにしたかもしれない。だけど宇津木さんはそんなタイプではなく、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
正直に言えば、ワタシもつられて少し笑ってしまったけれど、宇津木さんの顔を見てすぐに笑うのを止めた。
ワタシだって走るのが得意なわけじゃないし、自分の走り方が人からどう見えるのかもわからない。
俯く宇津木さんを見て「もう一回見せてよ!」「あの走り方マジ最高! どうやったらああなるの?」なんてはやし立てる声が聞こえていた。
もしかしたら宇津木さんは今までもこんな風に言われ続けてきたのかもしれない。
顔を赤らめながらも宇津木さんは反論しようとせず、どこか諦めたような顔をしていた。なんだかどんどん腹立たしくなってきた。
そのとき志藤先生が怒ったのだ。
それまでの志藤先生は、少しくらい生徒が騒いでも大きな声を上げることはなかった。
新任の先生だから、どこまで厳しくしてどこまでやさしくすれば良いのかわからず、戸惑っているような雰囲気もあった。
だけどそのときの志藤先生はとても毅然としていた。
「一生懸命にやっている人を笑う権利は誰にもありません!」
そんな志藤先生の言葉も、騒いでいるクラスメートには響かない。
「そいつの走り方がおかしいからじゃん」
「面白いものを笑って何が悪いんだよ」
そんな子どもっぽい反論をする生徒もいた。
だけど先生はそれらの声に一歩も引かない。
「個人のタイム測定なのに、一緒に走った相手がゴールしたらチカラを抜いている人がいましたよね?」
そうして先生は何名かの生徒の顔を順番に見る。
「最初から全力を出さずに走っている人もいましたよね?」
そうして別の生徒の顔を見る。そうしてさらに続けた。
「全力で走らなかった人はなぜ全力を出さなかったんですか? 全力を出して思うような結果が出なかったら笑われるからですか? それともうまくいかなかったときの言い訳のためですか? 全力で頑張って失敗して笑われる……そんなことを繰り返していたら、怖くて全力なんて出せなくなります。それは走ることだけじゃなくて、どんなことに対しても同じです。自分が誰かを笑うから、自分も誰かに笑われるんじゃないかと思ってしまうんです」
志藤先生の熱弁がどれくらいの人に届いたのかわからない。「ウザい」と小声で言っている生徒もいた。だけどワタシはそんな志藤先生に好感を持ったのだ。
志藤先生の体育の授業では、他の子と競って良い成績を残すことよりも、昨日の自分より一歩でも成長できたときや、苦手でもがんばっているときに褒めてくれる。
そんな姿を見てきたから、ワタシは志藤先生を好きになったのだ。
体育の時間の後、志藤先生を捕まえた宇津木さんは走り方のコツを尋ねていた。
ちょっとアドバイスをされたくらいで上手く走れるようになるわけじゃないと思う。それに志藤先生は速く走れなくても、前向きにがんばっていれば褒めてくれるだろう。それは宇津木さんもわかっているはずだ。それでもこうして志藤先生にアドバイスを求めるのは、体育祭では全校生徒と保護者が見守る中で百メートルを走らなければいけないからだ。
宇津木さんは五十メートル走の計測でみんなに笑われたことを忘れていないはずだ。そんな宇津木さんにとって体育祭で百メートルを走ることは苦痛だと思う。
それでも先生にアドバイスをもらって少しでも上達できるようがんばろうとしている宇津木さんはかっこいいと思った。
ワタシだったら、なんだかんだ理由をつけて体育祭をサボる方法を考えたかもしれない。
ワタシは靴紐を直すフリを止めて二人に歩み寄った。
「先生、ワタシにも走り方を教えてください。先生が忙しいならちょっとだけでもいいです。宇津木さん、一緒に練習しない?」
宇津木さんは最初は驚いていたようだったけれど、すぐに小さく頷いてくれた。
志藤先生は腕組みをして少し考えていたけれど「わかったわ」と言ってくれた。
話し合いの結果、朝、いつもよりも三十分早く登校して志藤先生に走り方のコツや練習の方法を教えてもらうことになった。
志藤先生は体育祭の準備をしなくちゃいけないから、放課後や昼休みは忙しいらしい。
ワタシと宇津木さんは、朝は志藤先生に走り方を教えてもらい、昼休みには制服のままでもできる練習をそっとおこない、放課後は体操服に着替えて体育館裏の小さなスペースで人目を避けて練習することにした。そして体育館裏のスペースを運動部が使っているときには、学校の近くにある公園で練習した。
あるとき宇津木さんに聞かれた。
「どうして一緒に練習してくれるの?」
「ワタシも足遅いから……。でもさ、運動神経良くないし、がんばっても無駄だと思ってたんだよね。でも、宇津木さんががんばろうとしてるの見てたら負けてられないな~って思って。それに、がんばったこともないのに、がんばっても無駄なんてワタシに失礼じゃないかっって思ったんだよね」
もちろん志藤先生と話す機会が増えるからとか、がんばっているところを見てもらいたいという気持ちもある。けれど、宇津木さんに伝えた言葉に嘘はない。
「私は……がんばるとかじゃなくて、笑われたくないだけで……」
宇津木さんは小さな声で言って俯いた。
「何言ってるの? がんばってるじゃん。ワタシだったら体育祭を休む方法を考えちゃうよ」
「あ……そうか……。休むっていう手もあるね……」
「ちょっと? 休んじゃだめだからねっ」
すると宇津木さんはクスクスと笑った。
「大丈夫だよ、休まないから。木下さんが一緒にがんばってくれるから、私もがんばれるよ」
そうして笑う宇津木さんはちょっとかわいいなと思った。
「うん。ワタシも好きな人に良いところを見せられるようにもっとがんばるよ!」
照れ隠しにワタシが言うと、宇津木さんはキョトンとして首を傾げた。
「好きな人いるの?」
「あぁ、うん。まぁね」
名前を聞かれるとちょっと困るなと思ったけれど、宇津木さんはそれ以上聞いてこなかった。
「そっか。じゃぁもっとがんばらないとね」
そうして笑みを浮かべる宇津木さんに、ワタシは力強く頷いた。
志藤先生が言うには、ワタシも宇津木さんも走るために必要な基本的な筋力が足りないらしい。そのため、筋トレメニューや体幹を鍛えるメニューを叩き込まれた。
昼休みはもっぱらそうした体幹メニューをこなす。
放課後にはそれに加えてスタートの練習やもも上げなどの走る練習をした。
こうして練習をしても簡単に速く走れるようになるわけじゃないと思う。それでも宇津木さんは春に見たときよりも、走るフォームが整って、スムーズに手足が出るようになったと思う。それに実際にタイムも良くなっていた。
ワタシのタイムもほんの少しだけど良くなっている。だからって一位になれる程ではない。それでもこのままがんばって練習を続けて、当日全力以上の力を出せたら、もしかしたら……という希望くらいは抱けるようになっていた。
体育祭は日曜日の開催だったため、前日の土曜日はその準備に午前中だけ登校することになっていた。
だからワタシと宇津木さんは、学校にお弁当を持っていって、午後は公園で最後の練習をすることにした。
しばらく練習をしていたら、志藤先生が小走りで現れた。実は昨夜、メッセージで練習する場所を聞かれていたから、ワタシは先生が来ることを知っていたけれど、宇津木さんと一緒に驚いているフリをしておいた。
「最後の練習だから少しだけ見てあげようと思って」
志藤先生が笑う。
その笑顔を間近で見られただけで、がんばって練習してきた甲斐があったと思った。
志藤先生は早速ワタシたちの走りを見てくれた。
改めて宇津木さんの走りを見ると、見違えるほど走り方が上手くなっていた。元々手足が長いから、大きなスライドを生かせるようになったらもっと速く走れるようになるかもしれない。
もちろん、足の速い子たちに比べればまだまだかっこいい走りとは言えないだろうし、並んで競争をすれば、多分ワタシの方がまだ速いと思う。
それでも先生も手を叩いて喜んだ。宇津木さんの顔にも自信が浮かんでいるように見える。
ワタシの走りは、宇津木さんのような目覚ましい進歩はなかったけれど、志藤先生は宇津木さんと同じように喜んでくれた。
なんだか胸の奥がホクホクするような、くすぐったいような気持ちになる。
最後に少しだけアドバイスをした後、志藤先生は「今日は早く帰ってゆっくりとお風呂に浸かって、しっかりと眠ってね。身体を休めるのも大切な練習だよ」と言った。
そうして練習を終えて、途中までは三人一緒に帰り、途中で方向の違う宇津木さんと別れた。
ワタシと二人で並んで歩いていると、志藤先生が目を細めて言う。
「本当によくがんばったね」
「まだ体育祭は終わってないですよ」
「そうなんだけど、二人ともすごく成長したもの。本当にがんばってたしすごいことだよ」
志藤先生は本当に嬉しそうだ。そんな志藤先生の顔を見るとワタシも嬉しくなる。
「ありがとうございます」
「ありがとうは私の台詞だよ。宇津木さんと一緒に練習をしてくれてありがとうね。木下さんが一緒だったから、宇津木さんも諦めずに頑張れたんじゃないかな」
なんだか嬉しすぎて顔がニヤけてしまったから、ワタシは慌ててそっぽをむいた。
「そんなことないです」
「そうかなぁ……。二人ともがんばったし、何かご褒美をあげたくなっちゃうな」
先生が軽い口調で言った。
ワタシはバッと振り向いてその言葉に食いつく。
「ご褒美だったら、ワタシ、先生と二人で遊びに行きたい!」
すると先生は小首を傾げて困ったように眉尻を下げた。
「そのご褒美だと宇津木さんは?」
そう言われてワタシはハッと気付く。ワタシと宇津木さんが二人でがんばったことへのご褒美なのに、宇津木さんのことを忘れるなんてひどすぎるかもしれない。
だけど、せっかく口に出したのだし、デートの約束を取り付ける口実を見つけたのだからもうちょっとだけ押してみることにした。
「じゃぁ明日、ワタシが一位をとったらご褒美にデートしてください」
チャンスだと思って思い切って言ってみたけれど、さすがに恥ずかしくて顔が赤くなるのがわかった。
夏休みに志藤先生と会ったけれど、あれが本当のデートだったら良かったのにと何度も思っていた。だから今度こそ本当のデートがしたいのだ。
鍋島先生が軽く使った『デート』という言葉とは全然違う、大切な初デートだ。
いくら練習したといっても、運動部の二人に勝てる可能性なんてほとんどない。だからこそ、一位を取れたならそれに見合う大きなご褒美をもらってもいいはずだ。
ワタシは恥ずかしさを堪えて志藤先生の返事を待った。
「んー、そうねぇ……。うん。いいよ。木下さんが一位になったらね。体育祭の翌日でいいかな?」
体育祭は日曜日の開催だから、翌日の月曜日は振り替えで休みになっている。
「はい! 約束ですよ! ワタシ、がんばりますから」
ワタシはガッツポーズをしながら宣言した。絶対に一位になってやるという闘志が沸々と湧いてくる。
「ところで、どこに行くつもり?」
少し間を置いて志藤先生が聞いた。ちょっと警戒心を抱いているような気がする。
夏休みにだまし討ちですみちゃんの家に連れて行ったから致し方ないのかもしれない。
「どこでも良いですけど……遊園地がいいな」
「遊園地? そう。うん、わかった」
先生はホッとしたように息をつきながら言った。そして、思い出したというように「あっ」と呟く。
「そういえば、明日はご家族も見に来るの?」
「お母さんは来るって言ってました。お父さんは仕事があるから来ないと思います。すみちゃんはどうするのか聞いてないですけど、去年も来てたから来ると思います」
ワタシが言うと、志藤先生は無表情で「そっか」と答えた。その無表情さが妙に気にかかる。
やっぱりすみちゃんのことが気になるのだろうか、そう思ったけれど、志藤先生にそれを聞く勇気はなかった。
しっかりと眠って疲れも取れた体育祭当日は、まさに体育祭日和と評したいほどの快晴だった。
自分のクラスの席から観覧スペースを見ると、お母さんとすみちゃんの姿を見るけることができた。そしてなぜか少し離れた場所に樹梨ちゃんと鍋島先生がいる。どうして離れて見ているンだろうと思ったけれど、その理由にすぐにたどり着いた。
鍋島先生と二人でいれば、教え子の応援に来たように見えるからだろう。
これまでもきっと、ワタシが気付かなかっただけで、ワタシのために色々な配慮をしてくれていたのだと思う。それがありがたいと思う気持ちと、気付かなかったことへの悔しさと、それでもそうしたことを気にせず、二人には仲良くしていてほしいと思う気持ちとが頭の中でごちゃごちゃになった。
仕方がないから、とりあえず鍋島先生に向かってベーっと舌をだしておいた。それに気付いた鍋島先生は、なんだかとても嬉しそうな顔でニコニコと笑う。やっぱり鍋島先生は少し変だ。
体育祭のプログラムは順調に進んでいく。
すみちゃんがやけに張り切って応援する姿がチラチラと視界に入って若干ウザかったけれど、それ以外は特に大きなトラブルもなかった。
多分、すみちゃんがエキサイトし過ぎたら、お母さんか樹梨ちゃんが止めてくれるだろうから、ワタシはできるだけ視界に入れないようにしておけば良い。
そうしていよいよワタシたち二年生が全員参加する百メートル走がはじまった。走る順番を待ちながら志藤先生をチラリと見ると、ワタシの視線に気付いた志藤先生が小さくガッツポーズを作って応援してくれた。
もう世界記録だって出せそうな気分だ。
宇津木さんを見ると、少し緊張しているように感じた。
「宇津木さん、緊張してる?」
「木下さん……。うん。ドキドキして……」
宇津木さんは笑顔を浮かべていたけれど、その笑顔はかなり引きつっている。
グラウンドに惹かれたトラックは一周二百メートルだから、ワタシたちはトラックを半周することになる。こうして眺めると百メートルはとても長い。そう考えたら、ワタシまで緊張してしまいそうだった。だからワタシは宇津木さんの手を引っ張って立ち上がらせた。
「ちょっと準備体操でもしようよ」
そう言ってワタシはアキレス腱を伸ばす運動をはじめた。宇津木さんも少し遅れてアキレス腱をのばしはじめる。
不思議なものでアキレス腱だけではなく緊張もほぐれてきたみたいで、宇津木さんの表情が次第に柔らかくなっていった。
少しずつワタシたちの走る順番が近付いてくる。声援を送る声が渦のようにグラウンドに押し寄せてくる。だけどもう緊張はしていない。
「宇津木さん、がんばろうね」
ワタシが笑顔で言うと、宇津木さんもニッコリわらって頷いた。
そうしていよいよワタシの順番が来た。緊張というよりは気合いが高まっているという感覚だ。良いパフォーマンスができそうな予感がする。
前の組がスタートすると、ワタシたちの組がスタート位置にはスタート位置に並んだ。
ちなみに宇津木さんはワタシより少し後の組に入っているから、期待を込めた瞳でワタシを見送ってくれた。
ワタシが頷くと、宇津木さんも力強く頷いた。
ワタシは第二レーンだ。第三レーンと第四レーンに運動部の二人がいる。足の速い人について行けば自然とワタシのペースも速くなる。ギリギリまでついて行ければ、万が一が起こる可能性が高くなるはずだ。だから近いレーンに足の速い人がいることはワタシにとって有利な条件だ。そう自分に言い聞かせた。
一位になるなんて奇跡が起きないと無理かもしれない。だけど、志藤先生とデートをするためにワタシは奇跡を起こしてみせる。
気合いの高まりとともに、スタートのときが刻一刻と迫ってきた。
半周先で歓声が起こったとき、スタートの準備の声が掛けられた。
運動部の二人は身体をかがめてクラウチングスタートの体勢をとる。
ワタシはそれを横目にスタンディングスタートの体勢をとった。
練習をしていたとき、クラウチングスタートの方が速く走れるのではないかと志藤先生に尋ねたことがある。速い上にかっこいいのならクラウチングスタートを覚えたいと思ったからだ。
「そうねぇ。クラウチングスタートは、確かにスタートダッシュがしやすいわね。だけど慣れていないやり方は勧められないかな。クラウチングスタートをするには筋力や体幹が必要なの。だから、慣れていないクラウチングスタートをするとバランスが崩れて、その後の走りにも影響しちゃうのよ。だから、スタンディングスタートで走ることに集中した方が絶対に良いと思う」
ワタシは志藤先生のその言葉を信じることにした。走ることが得意ではないのだから、変な小細工はせず、純粋に走ることだけに集中する。例えかっこ悪かったとしても、これまでの練習を信じて手と足を必死で動かす。それだけだ。
そうして「用意」の号令がかかり、すぐにバーンという号砲が響いた。
ワタシは前傾の姿勢から踏み切る足にグッと力を入れて身体を前に押し出した。タイミングは良かったと思う。それでも運動部の二人はワタシの視野の低い所でロケットのように飛び出していた。
話されずについて行くんだ。そう思った瞬間、第四レーンを走っていた子がバランスを崩して第三レーンの子とぶつかった。
さらにぶつかった二人はワタシのすぐ目の前になだれ込み、ほんの一瞬後ろにいたワタシはそれを避けることができなかった。
もつれるように三人が転倒し、その脇を両端にいた三人が追い抜いていく。
頭に血が上って何が起こったのかよくわからなかった。
気がつくとワタシは立ち上がってトラックを掛けていた。前に走る子たちの背中を必死で追いかけたけれど、その差を縮めることはできなかった。
そうして終えた結果は五位だった。
六人で走り、店頭した一人棄権をしたらら、ワタシは再開だったのだ。
悔しかった。
転んだ二人を責めるつもりはない。
それに体育祭の競争なんて遊びみたいなものだ。
本当に一位になれるなんて思ってはいなかった。
だけどすごく悔しかった。
志藤先生や他の先生が駆け寄ってきてワタシに声を掛けて救護テントへと連れて行ってくれたけれど、何を言っているのかほとんどわからなかった。
転んだ他の二人も救護テントまで運ばれてきたようだ。
ワタシがそうして救護されている間にも百メートル走は続いていた。
ふと顔を上げると、スタート位置に宇津木さんがいた。心配そうな顔でワタシを見ている。
ワタシは笑顔を浮かべて右手を挙げた。
「木下さん、痛いところはある?」
その声は志藤先生だった。痛いところなんてどこにもないような気がするし、体中全部のような気もする。
志藤先生に伝えたいのはワタシの身体の痛みではなかった。
「宇津木さんがスタートします。見てあげて」
スタートの構えをする宇津木さんを見つめながら言うと、志藤先生はトラックに視線を移した。
その瞬間号砲が鳴る。
宇津木さんは、長い足で地面を蹴って前に進む。
その走りは、少しだけ不格好だ。だけどワタシはこれまで感じたことがないくらい感動していた。
ほんの十数秒でレースは終わってしまった。宇津木さんは四位だった。宇津木さんの走りを笑う人はいない。
ゴールした宇津木さんが笑顔で手を振ってくれた。ワタシもそれに答えて手を振る。
先ほどまでの悔しさが一気になくなって、なんだか嬉しさがこみ上げてきた。
そうしてホッとしたからか、少しずつ体の痛みを自覚する。肘と膝をすりむいているようだ。
「流里、大丈夫?」
その声に振り向くと、涙目になったすみちゃんがいた。
「大丈夫だから席に戻って!」
ワタシは乱暴に手でシッシとすみちゃんを追い払う。すみちゃんはなぜかホッとした顔をして笑みを浮かべた。
「すみませんでした」
そうしてすみちゃんに頭を下げたのは志藤先生だった。
「え? なんで先生が謝ってるんですか?」
ワタシも驚いたけれど、すみちゃんはもっと驚いたように声を上げた。
「いえ、流里さんが怪我をされたので……」
「いやいや、流里が華麗に避けられなかっただけで、志藤先生が謝ることは何もありませんよ」
すみちゃんはやさしい声で言う。確かに志藤先生が謝る必要はないと思うけど、アレを華麗に避けられる運動神経なんてワタシは持ち合わせていない。
「あ……いえ、でも……」
志藤先生はやっぱり身体を小さくして頭を下げている。
「流里ぃ~、さっきのは華麗にジャンプをして避けるところだぞぉ」
何を思ったのか、すみちゃんがワタシに向かってい言った。
「できるかっ!」
ワタシは反射的に答える。小学生の頃のワタシは、すみちゃんのそんな言葉を真に受けていたけれど、今のワタシは反論することもできるのだ。
すみちゃんは「流里が反抗期だ」と泣き真似をした。
そんな小芝居のおかげか、少し緊迫した空気が漂っていた救護室の空気が和らいだ。
そこからは大きな怪我やトラブルもなく体育祭は進み、無事に閉会を迎えた。
ワタシは帰り支度をして宇津木さんと一緒に帰路についた。
「宇津木さんの走り、すごくカッコよかったよ」
そうワタシが言うと
「ううん。全然そんなことないよ。だけど木下さんのおかげで精一杯がんばれたと思う。本当にありがとう」
そうしてお互いに健闘を称え合った後は、ひたすら宇津木さんから身体の心配をされた。
別れ道で手を振って別れるまで、宇津木さんは痛いところはないかとずっと聞いてきた。
宇津木さんは心配性だなぁと思ったけれど、これから先もずっと友だちとして仲良くできそうだと思った。
宇津木さんと別れ一人になると、とたんに悔しさがこみ上げてきた。
一位になれなかったことは仕方ない。
転んだ二人に悪意があったわけではない。
誰も責めることはできないけれど、練習してきた成果を志藤先生に見せられなかったことが悔しかった。
例え最下位だったとしても、精一杯走る姿を志藤先生に見てほしかった。
目頭がジンと熱くなる。
泣くのをずっと我慢してきた。泣いたら転んだ二人を責めているみたいになってしまう。
今なら泣いても誰もみていない。
だけどそれでも絶対に泣いてはいけないような気がして、ワタシは下唇を噛んで涙を堪えた。
「木下さん」
肩を叩かれて振り返ると、志藤先生がそこにいた。走ってきたのか髪が少し見荒れていた。だけど呼吸はほとんど乱れていない。
先生の顔を見たら、驚いたせいか我慢していた涙がポロポロとこぼれ落ちてしまった。泣き顔なんて志藤先生には絶対に見られたくなかったのに、抑えようとすればするほど涙がこぼれる。
「大丈夫? 痛いところある?」
志藤先生は慌ててワタシの顔を覗き込んだ。ワタシは首を横に振る。痛みなんてどこにも感じない。
「痛くない……です。は……、はし、れなくて……くやしい……」
途切れ途切れにしか言葉がでない。
「うん、そっか。そうだよね、悔しいよね」
そう言って志藤先生はやさしくワタシを抱きしめて、肩をポンポンと叩いてくれた。
小さな子どもをあやすようなやさしさに、なんだか余計に涙が溢れて、しばらく志藤先生の胸を借りて泣いてしまった。
ワタシが泣き止むと、志藤先生は体を離して「あっ」と漏らした。
服を汚してしまったかと思って焦ると、なんだか台詞がかった口調で志藤先生が言う。
「よかったら明日、一緒に遊園地に行かない?」
「遊園地? でもワタシ、一位を取れなかったから……」
デートは、一位をとったときのご褒美だ。ワタシは五位だった。誘いは嬉しいけれど、なんだかすぐに「行く」とは言えなかった。
「一位をとるよりもずっとすごかったと思うよ」
ワタシはそんな志藤先生の言葉にも頷くことができなかった。
「でも……」
「あ、もしも怪我が痛いなら無理しない方が良いよね……」
志藤先生がワタシの肘や膝に目を向けながら言った。
「全然痛くないですっ! 行きますっ!」
ワタシは慌てて叫んだ。
なんだかモヤモヤは残っているけれど、志藤先生とデートができる方が優先だ。
「うん、じゃぁ明日。あとでメッセージを送るわね」
志藤先生はクスッと笑って言うと、まだ仕事が残っていると学校の方に向かって走って行った。
怪我の功名と言うのかわからないけれど、とりあえず志藤先生とのデートを取り付けたのだ。
ワタシは飛び上がって喜びたい気持ちを堪えて、だけど少しだけスキップをするような足取りで家に帰った。
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