第5話

『強敵』     木下流里


 どうやらライバルはワタシが思っていた以上に強敵みたいだ。

 嫌いな相手なら思う存分、コテンパンにする方法を考えるところなんだけど、ムカつくことにそんなに嫌いではない。

 本当に、本当に、ムカつくんだけど……。


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 スマホに入ったメッセージの内容に目を疑った。

『よかったらデートしない?』

 もしもこれがワタシの先生から送られたメッセージだったのなら、三日三晩踊り狂うくらい喜んでいたと思う。

 だけど送り主はワタシの先生ではない。

 なんと、山中小の鍋島先生から送られたものなのだ。

 志藤先生とはすみちゃんの家への訪問を決めたときにアドレスを交換していた。だけど、あの日以降、一度もメッセージは送られてこない。

 まぁ、ワタシからも送っていないけれど……。

 鍋島先生とはすみちゃんの家で話をしたときに、あれよあれよという間にアドレス交換をされてしまっていた。

 交換したものの、連絡をすることも来ることもないと思っていたのに、突然デートのお誘いが来たのだ。

 まぁ、本当にデートがしたいわけではないだろう。単にワタシをからかって遊びたいだけだ。

『イヤです』

そう返事を打とうと思ったけれど、ワタシをからかう以外にもワタシを誘った理由があるような気がしてOKの返事を送った。

 それにライバルに勝利をするためには、ライバルのことを観察して良く知ることも必要だ。

 そうして迎えた鍋島先生との待ち合わせの日。

 平日の午後だというのに、待ち合わせたファミレスはかなり賑わっていた。

 涼しいしフリードリンクだし、夏休み終盤のお出掛けには手頃なのかもしれない。

 四人掛けのテーブルにワタシと鍋島先生は向かい合って座った。

 鍋島先生がおごってくれると言ったから、フリードリンクの他に、フルーツがたっぷりのったパンケーキもオーダーした。

 鍋島先生は自分のアイスコーヒーとワタシのオレンジジュースを持ってきてテーブルに置く。

 一口のんだオレンジジュースは、志藤先生に淹れてもらったものと味は変わらなかった。

 なんだかそれがすごく悔しく感じてしまう。

「それで、今日は何の用事ですか?」

「用事なんてないよ。デートだもん」

 鍋島先生は頬杖をついてニコニコしながらワタシを見た。

「ワタシ、好きな人がいるので、ごめんなさい」

 ワタシはパンケーキをほおばりながらぶっきらぼうに言う。

「あら、残念」

 そう言ったけれど、鍋島先生はまったく残念そうな顔をしていない。なんだかそういう余裕っぽい態度が腹立たしい。

 パンケーキを食べながら軽く睨むと、鍋島先生は笑みを浮かべて言った。

「それで、志藤先生とはあれから進展があったの?」

「……それが知りたくて呼び出したんですか?」

「まさか! でも、私と流里さんの共通の話題ってそれくらいでしょう? 他には三鷹先生とすみ枝さんのことがあるけど……あの二人のことを語り合った方が良い?」

「むぅ……あの二人について語り合うことは……特にないですね」

「そうよね。志藤先生の話題の方がお互いに楽しいでしょう?」

 志藤先生の話は楽しいかもしれないが、鍋島先生とそれを語らうのが楽しいとは思えない。だけど他にする話がないのは事実だ。

「そもそも! 話すことがないなら呼び出さなければいいんじゃないですか?」

 精一杯の嫌味のつもりだったけれど、鍋島先生は全く動じない。

「そんなことを言いながら、こうしてちゃんと来てくれるなんて、流里さんってもしかしてツンデレなの?」

「違います!」

 なんだろうか。イラッとさせられるのに鍋島先生との会話はなんだかちょっと楽しいと感じてしまう。もしも、志藤先生を巡るライバル関係でなかったら友だちみたいになれたのかもしれない。

「それで、志藤先生にはもう告白したの?」

 ちょっと油断したのを見透かされたのか、唐突に鍋島先生が切り込んできた。

「鍋島先生には関係ありません」

 ワタシは慌てて壁を作ったが遅かったようだ。

「そっか、まだなんだ……」

「そんなこと言ってないですよね!」

「じゃぁ、したの?」

「してませんけどっ……」

 鍋島先生は勝ち誇ったように笑った。本当にすごくむかつく。

「私ね、抜け駆けをするのって好きじゃないのよ。だからできるだけフェアにしたいと思ってるの。流里さんがのんびりしているなら、私が仕掛けてもいい?」

「ダメですっ!」

 ワタシはパンケーキを食べていた手を止めて鍋島先生を睨み付けた。

「今日呼び出したのは宣戦布告ですか?」

「まあ、そうなるのかな? この間三鷹先生のお宅でお会いしたときに、やっぱり志藤先生のこと、気に入っちゃったのよね」

 多分、ワタシは今すごく険しい顔をしていてかわいく無いと思うけれど、そんなことを気にしている余裕はない。

「ライバルにわざわざ宣言をしに来るなんて……。もしかして、自分の方が有利だとか思ってるんですか?」

「実際、有利なんじゃないの? 私と志藤先生なら仕事の話とかで共通の話題があるし、年齢も近いし……。なんならちょっとお姉さんなくらいがグッとくるんじゃない?」

「ワタシと志藤先生だって同じ学校なんだから共通の話題は鍋島先生よりいっぱいありますよ! それに年齢なんて関係ないです。むしろ若い方が有利です!」

「恋愛に年齢は関係あるでしょう?」

「ありませんよ!」

「じゃぁ流里さんは、五歳の子どもから真剣にお付き合いをして欲しいと申し込まれたらOKできるの?」

「五歳なんてまだ子どもじゃ……」

 言いかけてワタシは慌てて口をつぐんだけれど遅かった。

「そうよねぇ、子どもよねぇ」

 もうテーブルをバーーンッとひっくり返してしまいたい気分だ。

 鍋島先生はずっと意味ありげな笑みを浮かべ続けているし、ワタシはずっと眉間にしわを寄せている。

 宣戦布告ではなく、ワタシに志藤先生を諦めさせるために呼び出したに違いない。

「で、でも! すみちゃんと樹梨ちゃんだって年齢差があるじゃない!」

「あそこはすみ枝さんが子どもだから……」

 鍋島先生のそのひと言には全く反論できない。

 いかにも楽しそうにクスクス笑っている鍋島先生くらい、すみちゃんが大人っぽかったらワタシはこんな思いをすることはなかったのに!

「そ、それは……、すみちゃんが……」

 なんとか反論しようと思ったけれど言葉が見つからない。そして鍋島先生はここぞとばかりにグイグイと攻めてくる。

「志藤先生の連絡先を知っているのに連絡ができないのは、もしかしてすみ枝さんと会わせたことを後悔しているから?」

「うぐっ」

 鍋島先生の核心をグサリと突いた言葉に、ワタシはパンケーキを喉に詰まらせるところだった。

 柔和な感じでニコニコしながら、こうして人を見透かすところは嫌いだ。

 だけど後悔とは少し違う。

 それでも思っていたより志藤先生を驚かせてしまったことは申し訳なかったなと思う。

 すみちゃんに寄せているであろう気持ちを断ち切るための最善の策だと思った。それに志藤先生が見たいと言っていた絵もせられた。

 それは両方うまく行ったのだから、ワタシの作戦は見事に成功したのだ。だから後悔はしていない。

 でも、もしかしたら志藤先生はすごく傷ついたかもしれないと思った。すみちゃんの家を出てから、志藤先生がちょっと元気がないように見えたからだ。

 すみちゃんに対しても申し訳ないという気持ちがある。あの絵を人に見せたくないことは知っていた。それでも半泣きになるほど恥ずかしがるとは思っていなかったのだ。

 自分の欲のために、すみちゃんと樹梨ちゃんの大切な思い出に土足で踏み込んでしまったような後味の悪さがあった。

 後悔はしていない。だけどもっと他のやり方もあったんじゃないかと考えていた。

「私はね、ちょっと乱暴なやり方だったかもしれないけれど、流里さんのことを見直したし、好きになったわよ」

 鍋島先生は真面目な顔でジッとワタシを見つめて行った。予想外の言葉だったせいで、なんだか心臓がドキッと鳴った。

 それを見透かされるのが嫌で、ワタシは慌ててそっぽを向く。

「ワタシは今日、鍋島先生を嫌いになりました」

 そう言うと、鍋島先生は今日一番の良い笑顔を浮かべた。嫌いと言われて喜ぶなんて変態に違いない。

「早いうちに現実を知れたのは志藤先生にとって良かったと思うわよ。でも、事前に三鷹先生に連絡を入れておいた方がよかったかもね」

「だって、樹梨ちゃんに言ったら来るなって言われるもん」

 すると鍋島先生はクスクスと笑いながら「そんなことはないでしょう」と言った。

「樹梨ちゃんの塩対応は鍋島先生も知ってるでしょう!」

「んー、あれは照れてるだけじゃないの?」

「違うよ。絶対嫌がられてるもん。だってさ、引っ越しだってわざわざワタシが行けないような遠いところにしたし。遊びに来られたくないからだよ」

 ワタシの言葉に鍋島先生は笑みを消して少し首を傾けた。

「何か誤解してるんじゃないかな? 流里さんが三鷹先生のお宅に来たとき、私、オレンジジュースを出したでしょう?」

 突然何の話をはじめたかよくわからなかったけれど、ワタシはあの日のことを思い出して頷いた。駅ビルで飲んだフレッシュジュースほどではないけれど、ちょっと高級な味のするオレンジジュースだった。

「三鷹先生かすみ枝さんはオレンジジュースを普段から飲む?」

 ワタシは首を横に振る。樹梨ちゃんは紅茶を飲むことが多くて、すみちゃんはコーヒー派だ。少なくとも、ワタシはあの二人がオレンジジュースを飲んでいるのを見たことがない。

「そうでしょう? でもちゃんとオレンジジュースのストックがあったわよ。飲まないオレンジジュースを置いてある理由は? 一体誰が飲むためのオレンジジュースなの?」

 そうして鍋島先生はテーブルの上にあるワタシのコップをチラリと見た。

「ワ……ワタシ?」

 お姉ちゃんもあの家によく遊びに行くけれど、お姉ちゃんは最近コーヒーばっかり飲んでいる。他に尋ねて来る人にオレンジジュースを飲む人がいるのかもしれない。だけど、ワタシの知る限りだと、オレンジジュースを好んで飲むのはワタシだけだ。

「流里さんがいつ遊びに来てもいいように三鷹先生が準備しているんじゃない?」

「も、もしもワタシのために用意してくれてるとしても、すみちゃんかもしれないでしょ。すみちゃんはワタシに甘いし」

「んー、たしかにすみ枝さんは流里さんに甘いんでしょうけど……、遊びに来たときに慌てて買い出しに行くタイプじゃない?」

 そう言われれば確かにその通りだ。

「だけど、遠くに引っ越したのは来てほしくないからでしょう? それなのにワタシのオレンジジュースを用意するはずないよ。他の誰かなんじゃないの?」

「来てほしくないからじゃないと思うけどな。まぁ、邪魔をされたくないというのもあったかもしれないけどね」

 鍋島先生はやわらかな笑みを浮かべた。その顔だけを見ていたらとてもやさしいいい人みたいに見える。

「私は、万一のときに流里さんができるだけ傷つかないようにするためだと思うな」

 鍋島先生が何を言っているのかよくわからなかった。ワタシが傷つくとはどうしてなのだろう。

「当時、流里さんはまだ小学生だったのよね? それに三鷹先生は元担任だったんでしょう」

 ワタシは頷く。今でこそ塩対応だけど、樹梨ちゃんはやさしくてとても大好きな先生だった。

「世の中には同性の二人のことをよく言わない人もいるかもしれないでしょう? そのとき近くにいたら、流里さんも学校で嫌な目にあうかもしれないって思ったんじゃないかな?」

 考えたこともなかったから、ワタシは少し驚いていた。

 ワタシの家族はすみちゃんと樹梨ちゃんが仲良くしているのをとても喜んでいる。すみちゃんや樹梨ちゃんのお友だちに会ったことがあるけれど、みんな笑顔だった。

 だからワタシは誰もがすみちゃんと樹梨ちゃんのことを祝福してくれていると思っていた。良く思わない人がいる可能性なんて全く考えていなかった。

「それは樹梨ちゃんから聞いたの?」

「いいえ。私の想像でしかないから、もしかしたら間違っているかもしれないわ。でも、多分当たってるんじゃないかな」

 ワタシが知らなかっただけで、すみちゃんと樹梨ちゃんはワタシが小学二年の頃から付き合っていたらしい。

 一緒に暮らすようになったのは、樹梨ちゃんの転任してからだから、付き合いはじめてから二年以上経ってからだ。

 もしかして一緒に暮らすのが遅くなったのもワタシのためだったのだろうか。

「それにね、本当に来てほしくないのなら、もっと遠くに引っ越した方がいいでしょう? 今の場所は前より遠いと言っても行けない距離じゃないじゃない」

 小学生や中学生が一人でちょくちょく行ける距離ではない。けれど、どうしても行きたければ行くことができる。現に、この間は志藤先生が一緒だったけれど、ワタシがナビゲートしたのだ。一人だって行くことはできる。

 ワタシが黙っていると、鍋島先生はクスリと笑って続けた。

「申し訳なかったと思っているなら、今度はちゃんと連絡をしてから遊びに行ったら? きっとオレンジジュースで歓迎してくれるわよ。もしも一人で行きづらいなら、私がついて行ってあげようか?」

「いい、一人で行ける」

 そういえば、いつの間にか鍋島先生に敬語を使うのを忘れていた。だけど鍋島先生も気にしていないみたいだから、まぁいいか。

 すみちゃんたちが遠くに引っ越したから、ワタシは邪魔者扱いをされていると思っていた。そうではなかったとわかってうれしい。

 そして、ワタシのことを考えてくれていたことに気付かなかったのが恥ずかしいと思った。

 この間、すみちゃんからもらったお小遣いがまだ余っている。それで近所のケーキ屋さんで売っている、すみちゃんの好きなシュークリームを買って遊びに行こう。

 なんだかとても嫌なのだけど、鍋島先生はとてもいい人なんだなと思ってしまう。

 色んなことを知っている大人なのに、ワタシを子ども扱いすることなく話してくれる。

 ライバルだし、嫌いだし、なんか変な人ではあるけど、もう少し話をしてあげてもいいかなと思った。

 だから今度はワタシから話題を振った。

「ねぇ、鍋島先生はなんで志藤先生を好きになったの?」

「んんーー、そうねぇ……。見た目かな」

 鍋島先生はとても真面目な顔で言った。もっといろいろな理由があるのかと思っていたから肩透かしを食らってしまった。

「え、軽い、最低」

「そう? インスピレーションって大事よ」

「そういうのもあるけど、もっとちゃんとした好きになるきっかけとかないの?」

 鍋島先生は腕を組んで「うーん」と唸った。そして腕組みをほどいてワタシを真っ直ぐに見る。

「心って、どこにあると思う?」

 ワタシの質問とは全く違う答え……というより、質問を返されてちょっとイラッとした。

 答えをはぐらかそうとしているのかもしれない。だから答える必要なんてない気がしたけれど、質問の先にどんな話をするのか気になった。

「ここ?」

 ワタシは右手を自分の胸に当てる。

「うん。心がどこにあるのかを訊くと、胸って答える人が多いよね? でも不思議じゃない? 人間はすべてを頭……つまり脳で考えているんだよ。だったら人の心は脳にあるんじゃないの?」

 頭で考えるのだから心は頭にある。そう言われればそうなのかもしれないけれど、なんとなくしっくりこないといか、認めたくないというか、そんな感じがする。

「鍋島先生は、人の心は頭にあると思っているの?」

「私は胸にあると思ってるわよ」

「えぇ……」

 じゃぁ、なんで頭とか脳とか言い出したんだろう。

「心臓はね、脳の命令なしで独立して動く唯一の臓器なのよ」

「へぇ、そうなんだ」

 ワタシはなんとなく自分の胸に視線を下ろす。

「だからね、脳のように明確でなくても、心臓は単独で脳とは別の意思を持っているんじゃないかなって思うの。だって、好きな人を見て胸がキュッとしたり、嫌なことがあって胸がモヤモヤしたりするでしょう? いくら頭で考えても、心が伝えてくるものは止められないのよ」

 なんだか妙に納得してしまう。

 好きな人を見てドキドキするのをいくら止めようとしても止められない。好きな人を見て、胸がキュンと締め付けられるのも止めることはできない。

「私はね、志藤先生をはじめて見たとき心が動いたの。だから、私は私の心の声を信じるわよ」

「むぅ……」

 思わず唸ってしまう。志藤先生の見た目に惹かれたという話を正当化するためだけに、こんなに長い話をしたのか。

 鍋島先生はどうにも回りくどいみたいだ。一目惚れだったと言えばいいのに。

 だけど心の話は面白かったから許してあげることにしよう。

 話も区切りがついたし、パンケーキもとっくに食べ終わっていたからそろそろ帰ろうかなと考えていると、鍋島先生が突然手を振った。

 もちろん、目の前のワタシに向かって手を振っているわけではない。ワタシのもっと後ろ、つまり入口の方を見ていた。ワタシはつられるように振り返り、鍋島先生の視線の先を確認した。

「んなっ!」

 変な声が漏れてしまった。だって入口には志藤先生の姿があったのだ。

「デートの相手は流里さんだけだとは言ってないわよ」

 鍋島先生は小さな声で言うと、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。もう、本当にこの先生は嫌だ!

 志藤先生が来るとわかっていたらもっとかわいい服を選んだのに。さっきの話じゃないけれど、急に心臓がドキドキしはじめてそれを止めることができない。

 ワタシは残っていたオレンジジュースを一気に飲み干した。

 オレンジジュースの効力なのか、ほんの少し冷静になることができた。

 今、ワタシと鍋島先生は四人掛けのテーブルに向かい合って座っている。そこに志藤先生が合流するということは、ワタシの隣か、鍋島先生の隣か、どちらかに座ることになる。

 ワタシは窓際に座っているから通路側の席が空いている。鍋島先生はドリンクを取りにいったこともあって通路側に座っている。

 つまり、志藤先生はワタシの隣に座るということだ。

 なんだろう嬉しいんだけど緊張してなんだか何を考えればいいのかわからなくなってきた。

 志藤先生はワタシたちの姿を見つけてゆっくりと歩み寄ってくる。あと少しでワタシたちのテーブルに着くという瞬間、鍋島先生が動いた。

「急にお呼びだてしてすみません。どうぞ」

 とても自然に、笑みを浮かべてそう言うと、スッと窓際の席に身体をずらしたのだ。

「あ、はい」

 志藤先生は少し戸惑うように返事をしながも、会釈をして鍋島先生の隣に座ってしまった。

 何それ!

 そんな手があったなんて!

 ものすごく自然だったじゃない!

 悔しい! 悔しすぎる!

 頭の中に一気に言葉が溢れだした。けど志藤先生の前で叫ぶこともできなくて、ワタシはキッと鍋島先生を睨む。

 すると鍋島先生は手で口元をちょっと隠してワタシを横目で見ると勝ち誇ったようにニヤリと笑った。

 もう、本当にムカつく!

 鍋島先生のことを前から嫌いだったけれど、今、この瞬間大嫌いになった!

「木下さんも来ていたのね」

 志藤先生はそう言ってテーブルの上を見た。

 ワタシの目の前にあるパンケーキのお皿も飲み物のグラスも空っぽだ。

「あの……、もしかして私、時間を間違えましたか?」

 志藤先生が戸惑ったように言う。

「いえいえ。時間ピッタリですよ。流里さんは、少しお話したいことがあったので少し早めに来てもらったんです」

 ワタシには別に話したいことなんてなかった。ワタシの抗議の視線を鍋島先生は軽く受け流す。

「そうですか……」

 志藤先生はそう返事をしたけれど、この組み合わせの不自然さに釈然としない様子だった。そしてすぐに鍋島先生を見て「ところで今日は何のご用ですか?」と言った。

 どうやら鍋島先生は用件も告げずに志藤先生を呼び出したようだ。

 まさか私と同じように「デートしましょう」と呼び出したわけではないだろう。

 だって志藤先生の服装は、これまでに見た二回よりもずっとラフな感じだから。デニムパンツにサマーニットというシンプルなファッションは、スタイルの良い志藤先生によく似合っているけれど、デート用だとは思えない。

 そこまで考えて、すみちゃんに会うかもしれないときの気合いの入り方に、志藤先生の想いが垣間見えて少し凹んでしまった。

 鍋島先生は怪訝な顔をする志藤先生とは裏腹に飄々としている。

「特に用事はないですよ。この間お話をしたのが楽しかったのでもう少しお話したいと思っただけですよ」

 鍋島先生の言葉に、志藤先生は「はぁ」と曖昧な返事をした。

 もしもここでワタシが「この集まりは、志藤先生を頂点とした三角関係の修羅場です」と教えたら一体どんな顔をするだろう。

 もちろんワタシは鍋島先生のように性格が悪いわけではないからそんなことは言わない。ただ、先生同士の儀礼的なあいさつが終わるのを黙って待った。

 自分が呼ばれた理由に納得した様子ではないけれど、志藤先生はフリードリンクをオーダーして自分のアイスティーを取りにいった。そして、鍋島先生のアイスコーヒーとワタシのオレンジジュースも持ってきてくれた。

 それぞれの前に新しいドリンクが置かれると、鍋島先生が早速話を切り出した。

「志藤先生はすみ枝さんの絵のファンだったんですね。結構ファンがいるとは聞いていますけど、こんなに身近にファンがいるとはおもいませんでした」

 その言葉に志藤先生は笑みを浮かべたけれど、どことなく少し引きつっているように見えるのは、ワタシの心の奥に小さな罪悪感があるせいだろうか。

「あの日は突然お邪魔してしまって……。鍋島先生は何か用事で三鷹先生のお宅にいらしてたんですよね? 大丈夫でしたか?」

 志藤先生が申し訳なさそうに言った。

 あのときエントランスで呼び出したとき、樹梨ちゃんは「来客中だけど、まぁいいか」と言っていた。それに部屋に入ったときには、鍋島先生だけダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいたから、きっと用事は終わった後なのだと思う。だから志藤先生がそんなに申し訳なさそうな顔をする必要なんてない。

「あぁ、それなら全然問題ありませんから大丈夫ですよ。気にしないでください」

 鍋島先生はもったい付けることなくあっさりといった。嫌味とか意地悪とかを言わなかったからちょっと拍子抜けした気分になる。

 一方の志藤先生は、社交辞令的なやつだと思ったのか「本当にすみませんでした」とさらに頭を下げていた。

「用事があって三鷹先生のお宅を訪ねたわけじゃないんです。ときどき、三鷹先生とすみ枝さんがイラッとするくらいイチャイチャするのを眺めに行くんですよ。ですから、この間はいつも以上に堪能できて大満足です」

 鍋島先生はそう言うと澄ました顔でコーヒーを一口飲んだ。

 イラッとするのにわざわざ見に行くなんて変な趣味だ。志藤先生も若干引いているようで、小さな声で「へぇ……」と呟いている。

「あー、えっと……。鍋島先生は三鷹先生と仲がいいんですね」

 気を取り直して志藤先生が尋ねた。

「ええ。以前、彼女とデートをしているとき、三鷹先生とすみ枝さんにばったり出くわしたんですよ。それがきっかけで色々とお話するようになりました」

 さらっと言った鍋島先生の言葉に反応したのはワタシだ。

「鍋島先生、彼女いるの?」

 重大部分に食いついたのだけど、鍋島先生はニヤリと笑った。

「以前はね。今はフリーだから安心して」

 ワタシは下を向いて「チッ」と舌を鳴らす。だが、すぐに気を取り直して攻撃を開始した。

「彼女とどうして別れちゃったの? 鍋島先生の性格が悪かったから?」

 ワタシの質問になぜか志藤先生が慌てて「ちょ、木下さんっ」と小声で注意をした。だけど当の鍋島先生は涼しい顔をしている。

「それもあるのかもしれないけれど、別れた理由は彼女が私とは別の男性と結婚したからね」

 とても軽い口調とは裏腹に重い理由が出てきて、ワタシは何も言えなくなってしまった。鍋島先生は軽い口調のまま話を続ける。

「子どもが欲しいっていうのよねぇ。仕方ないでしょう? 私では無理だし」

「えっと、でも、色々方法はあるんじゃないの?」

「そうね。だけど彼女は私と一緒にいる方法は考えなかったのよね。子どもを産むために別の人を選ぶ決断をしたの。ただそれだけのことよ」

 その話を聞いてなんだかすごく悔しくなった。

 どうして鍋島先生は平気な顔で話せるのだろう。もしかして、その彼女のことをそんなに好きじゃなかったのだろうか。ワタシなら絶対に嫌だ。

「あ、あの……鍋島先生、子どもにその話は……」

 志藤先生は少し遠慮がちに鍋島先生に言った。

「子ども? 私は今、私の友人に同じ女として話しをしています。子ども扱いをするのは失礼だと思いますよ」

 そう言って、鍋島先生は私に向かって軽くウインクをした。鍋島先生はムカつくけれど「大嫌い」から「嫌い」くらに昇格させてあげることにした。

 でも、志藤先生は眉尻を下げて俯いてしまった。

 鍋島先生は空気を変えるように明るい声で話を続ける。

「あ、そうそう。この間はね、その彼女に子どもができたってきいたのよ」

 明るい声で言う話題じゃなかった。ついついワタシの顔も暗くなる。

「やだ、二人ともなんで暗い顔になってるの? 私、それを聞いて半分は良かったなって思ったのよ。でも、もう半分は複雑でね。だからあの二人を眺めに行ったの。こんな二人もいるんだなー、と思うと、なんだか元気がもらえるのよね」

 鍋島先生の顔はスッキリしている。それに、鍋島先生の言うこともなんとなくわかった。すみちゃんたちのイチャイチャを見ると、イラッとするんだけど、それ以上にホクホクするみたいな嬉しい気持ちになる。

「すみちゃんたちを見ると、悩むのが馬鹿らしくなるっていうのはわかる」

 ワタシは賛同の言葉を述べたのだけど、鍋島先生はちょっと苦笑いを浮かべた。

「二人を眺められただけじゃなくて、流里さんや志藤先生ともお話できてとても楽しかったから私は大満足だったわよ」

 そう言ってニコニコと笑う鍋島先生の言葉に嘘はないと思う。だけどワタシはどうしても聞きたいことがあった。

「鍋島先生は今でも元カノのことが好きなの? それとももう好きじゃないの?」

「んーー、そうねぇ。好きではあるけど未練はないかな。だって今好きなのは志藤先生だもの」

 そう言って鍋島先生は志藤先生の顔をジッと見た。

 すると志藤先生は飲んでいた紅茶を吹き出しそうになり、グッと堪えた拍子にむせてしまった。

「な、鍋島先生、な、何を言ってるんですかっ」

 ゴホゴホしながら志藤先生が目を丸くして言った。

「私は本気ですよ」

 まるでワタシの存在がないかのように、真剣な顔の鍋島先生と戸惑った顔の志藤先生が見つめ合う。

「ちょっと待った! 鍋島先生ずるいよ! まだ元カノを好きなんでしょ! そんなの絶対にダメだよ!」

 ワタシが腰を浮かせて大抗議する、鍋島先生は「ふふっ」と笑った。そういう余裕のある態度が嫌いだ。

 志藤先生はなんだかワタワタしている。

「彼女のことはね、心で納得できないままに頭で考えて別れることを決めたの。だから心がちゃんと納得するまでもう少し時間がかかるかもしれないわね。だけど、私の心は志藤先生に動いたから、彼女のことを納得できるようになるのも時間の問題だと思うわ」

 そう言って鍋島先生は改めて志藤先生を見た。

 志藤先生は若干挙動不審になりながらも表情を引き締める。

「あの、すみません。私、そんなことを考えたことがなくて……。だからその……申し訳なんですけど……」

 さらっと告白してさらっとフラれるなんて大声で笑いたいところだけどワタシはグッと堪えた。だけど我慢できずにニヤリとしながら鍋島先生を見たのだけれど、フラれたはずの鍋島先生は全く気にしていない様子だった。

「いいですよ。一度や二度断られたくらいじゃ諦めませんから。それに、今まで考えたことがなかっただけですよね。それなら今から考えてくれるんでしょう?」

 そうして笑みを浮かべる鍋島先生はやけに色っぽい。

「志藤先生! もっとはっきりスッパリ鍋島先生をフっちゃってください!」

「き、木下さん?」

 志藤先生は困った顔で鍋島先生とワタシの顔をキョロキョロと見ていた。

 ワタシは鍋島先生がさらにグイグイおして、決定的にフラれることを期待していたけれど、それ以上押すことなく差し障りない話題に変えてしまった。

 それから少し雑談をかわしたあと、鍋島先生は「この後少し用事があるので」と言って三人分の会計を済ませてファミレスを出て行ってしまった。

 なんだかすっかり鍋島先生のペースで振り回されてしまた。だけど、鍋島先生の言った「用事」が元カノにお祝いを届けに行くことだったから、少しだけ元気とか勇気とかそういうのが欲しかったンだろうなと思った。

 残されたワタシと志藤先生はなんとなく気まずい感じでファミレスを出たのだけれど、志藤先生がワタシを家まで送ってくれると言った。

 一人でも帰れるのだけど、嬉しいラッキーチャンスだったからその言葉に素直に甘えることにした。

 しばらく無言で歩いていたのだけれど、思い出したというように志藤先生が口を開いた。

「そういえばこの間のこと、きちんとお礼を言ってなかったね。脇山先生の絵を見られて本当にうれしかった。ありがとうね」

「あ、いえ……」

 ワタシは少し口ごもる。

 絵を見られたことがうれしかったのは本当だと思う。だけどそれ以上に傷ついているんじゃないかと思った。

 ワタシは横を歩く志藤先生の顔を見上げたけれど、本当の気持ちを読み取ることはできなかった。これが鍋島先生だったら、なんだかんだで上手く言いくるめて聞き出すことができるかもしれないけれど、ワタシにはちょっと無理だ。

「鍋島先生と仲がいいんだね」

 志藤先生はすぐに話しを切り替えた。

「そんなことないです」

 なんだか不本意な評価だったので、ワタシは素直に答えた。

「もしかして何か鍋島先生に相談事でもあったの?」

「え?」

 予想外の言葉にワタシは本気でびっくりしてしまった。

「ほら、わざわざ外で会ってお話とか……」

「いやいやいや、鍋島先生に無理矢理呼び出されただけです」

 ワタシは本当のことを言っているのに、どうにも志藤先生は納得していないみたいだ。

「私じゃ頼りないかもしれないけど、何かあれば相談にのるからね」

 志藤先生はやさしい声で言う。その言葉はうれしいけれど、ワタシと鍋島先生が仲良しみたいに誤解されるのはちょっと嫌だなと思った。

 もしかして鍋島先生の告白も、ワタシの個人的な相談を誤魔化すための冗談だとでも思っているのだろうか。

 ここでワタシと鍋島先生がしていた話を教えたら、志藤先生はどんな顔をするだろう。ワタシが志藤先生を好きだと伝えたら、ちゃんと答えてくれるだろうか。

「あの……志藤先生」

 ワタシは立ち止まって志藤先生を見上げた。

 志藤先生も足を止めてワタシを見る。

「どうしたの? なにかあった?」

「あ……いえ。鍋島先生とはすみちゃんたちの話をしていただけで、相談とかじゃないです」

「そうなの?」

 ワタシは「はい」と笑顔で答えて再び歩き出した。

 多分、今のワタシが告白をしても志藤先生は受け入れてくれないと思う。だからまだ焦らない方がいい。

 夏休みはもうすぐ終わる。そうしたら学校で毎日志藤先生に会える。

 少なくとも、夏休み前よりも志藤先生と仲良くなれたと思う。だからチャンスはこれからいくらでもあるはずだ。

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