第4話

『後悔』     木下流里


 別に最初から後悔をしたいと思って考えたり行動したりするわけじゃない。そのときには一番良い方法だと思っている。

 ワタシはいつだってベストを尽くしている、つもりだ。

 だけど、それでもどうしても「失敗だったな」とか「やめておけばよかった」なんて思ってしまうことがある。

 ワタシ自身のミスの場合もあるけれど、想定外の外的要因が影響することだってある。

 つまりそれは、ワタシのせいじゃない、ということだ。

 ワタシのせいじゃない。

 そう思ってもスッキリしないのは、やっぱりワタシのせいだからなのかな?


------------------------------------------


 待ち合わせの駅に着いた。

 約束の時間まではまだ十分以上あるけれど、待ち人はすでにその場所にいた。

「志藤先生」

 声をかけると待ち人は振り返り、ワタシの姿を見て笑顔で手を振ってくれた。もうこれは本当にデートみたいだ。

 すぐ近くまで来ると、志藤先生の額に少し汗が浮かんでいるのがわかった。

「結構待ちましたか?」

「ううん、ついさっき着いたところだよ」

 なんだか嘘っぽいそのセリフもなんだか本物のデートみたいだ。

 志藤先生の今日のファッションも結構気合いが入っているように見える。

 この間と同じくスカートスタイルだから、普段はスカートが多いのかもしれない。この間とちょっと違うのは、フェミニンというよりは清潔感のある雰囲気なところだ。

 これがワタシとのデートのために選んでくれたファッションならば心から喜べるのだろうけれど、きっとこれから訪問する先を意識したものだと思う。

 ワタシは先生に「すみちゃんの赤い絵を持っている人の家に行く」とだけ伝えている。展示会に来た先生とランチを食べたときに、ワタシが提案した。

 先生は随分迷っていたけれど、最終的にはワタシの提案にのってくれたのだ。赤い絵を見たいという気持ちが勝ったのだろう。

 ワタシの提案には三つのメリットがあった。

 ひとつ目は、こうして先生とデート気分でお出掛けができるということ。

 ふたつ目は、待ち合わせに必要だからという理由で先生のアドレスをゲットできること。

 そして三つ目は……。

 ワタシは先生を見上げてふと思い出したことを確認した。

「すみちゃんの画集を持ってきましたか?」

「うん。持ってきたよ」

 そう言って先生は肩にかけていた大きなトートバッグに触れた。その中に入っているということだろう。

「でも、どうして画集が必要なの?」

 当然持つであろう疑問を先生は口にした。

「必要になるかどうかはわからないんですけど……。念のためというところです」

 ワタシは曖昧に返事をする。

「んー、まぁ、脇山先生の絵が好きな方なら、画集とかがあった方が話はしやすいかもしれないしね」

 志藤先生は完全に納得したという様子ではなかったけれど、それ以上深く聞かずにいてくれた。

 ワタシたちが向かうのはすみちゃんの家だ。志藤先生が見たいといっていた赤い絵はすみちゃんの家にある。

 だから、すみちゃんが家にいれば画集にサインを入れてもらえると思う。ただ、すみちゃんにも行くことを伝えていないから、不在かもしれない。

 あまり期待をしてしまうと、外れたときにがっかりするから内緒にしておう。

 志藤先生だって、これから向かう先がすみちゃんの家だという可能性を考えていると思う。だって、すみちゃんがワタシの叔母だと知っているし、すみちゃんの絵がある場所でワタシが簡単に連れて行ける場所といったら簡単に想像がつくと思う。

 それでも志藤先生がそのことを口にしないのは、先生も期待し過ぎないようにしているからじゃないだろうか。

 今日、志藤先生をすみちゃんの家に連れて行く三つ目のメリットは、すみちゃんの家で先生とすみちゃんを会わせることだ。

 あの赤い絵は、すみちゃんの家の寝室に飾ってある。

 リビングではなく人目に触れない寝室に飾っている理由を聞いたら「恥ずかしいから」と言っていた。

 だから多分、見せてと頼んでも見せてくれないと思う。はっきり聞いたわけではないけれど、きっとすみちゃんが樹梨ちゃんにプレゼントした絵なのだろう。だから他人に見せるのが恥ずかしくて、画集にも載せなかったのだと思う。

 志藤先生はすみちゃんの絵だけでなくて、すみちゃん自身にも惹かれているんじゃなかと思った。だからその絵を見せるのと同時に樹梨ちゃんとの関係を知れば、すみちゃんのことをキッパリ諦められるだろうと思ったのだ。

 ワタシから「すみちゃんには恋人がいるよ」と志藤先生に伝えるよりもずっと効果的だと思う。

 もっと言えば、樹梨ちゃんが志藤先生を諦めさせてくれるんじゃないかとも思っている。

 あの赤い絵のことをワタシが「なんか意味がわからない絵だね」と言ったとき、樹梨ちゃんは「私だけがわかっていればいいのよ」と嬉しそうな、そして宝物を自慢するような顔で笑っていた。

 あの絵には二人にしかわからない大切な意味があるのだと思う。

 それを直接見て、それでもすみちゃんを好きになるなんてないだろう。

 それに展示会は昨日までだったから、今日は二人でのんびりイチャイチャしているはずだ。それを目の当たりにすれば諦める意外の選択肢はないと思う。

 見慣れているワタシだって、ちょっと勘弁して欲しいと思うくらいなのだから、志藤先生の憧れみたいな恋心は一気に吹き飛ぶはずだ。

 志藤先生には申し訳ない気がするけれど、ワタシの恋を前に進めるため必要なことなのだ。

「それじゃ、行きましょう」

 ワタシは先生を促して駅の改札をくぐった。

 すみちゃんは樹梨ちゃんと一緒に暮らすことにしたのを機に、ワタシたちの家の近くから少し離れた場所に引っ越しをした。

 小学生だったワタシには一人で行けない場所だから、引っ越しを聞いたとき、ワタシはかなり悲しかったけれど、絶対に行けないほど遠い場所というわけではない。

 現に、高校生になったお姉ちゃんはちょくちょく遊びに行っているようだ。

 ワタシはまだ一人で行ったことはないけれど、場所はちゃんと覚えている。先生という保護者もいるから補導される心配もない。

 突然の訪問は樹梨ちゃんに嫌がられそうだけど、展示会に遊びに行った日、すみちゃんから「家に遊びにおいで」と言われている。だから堂々と訪問して良いはずだ。

「木下さん、どうかした?」

 ニヒヒ、と悪役みたいに笑ってしまったワタシに、志藤先生が訊ねた。ワタシは、なんでもありません、と顔を引き締める。

「いえ、何でもありません」

「ところで……。これからお伺いするお宅、私が行って本当に大丈夫なの?」

「大丈夫ですよ、多分」

「多分って……」

 志藤先生は途端に不安そうな顔をした。

 それでもこうしてワタシと一緒に目的地に向かっているのは、それほどまでにあの絵を見たいということかもしれない。

 デート気分で電車に揺られるのは嬉しいけれど、やっぱりちょっと引っかかりを感じてしまう。

「先生はどうしてあの絵がそんなに好きなんですか? ワタシには、あの絵はよくわからなかったんですけど」

「パワーがもらえたっていう話はしたよね? あの絵が何を表しているのか、私にもはっきりとは分からないけど、本当に元気を分けてもらえたの」

 志藤先生の目の前にはきっとあの絵が浮かんでいるのだろう。すごくやさしい表情で微笑んでいる。

「あの絵を見て、選手は無理でも選手を助けられるようなろうって前向きに考えられるようになったの。体育教師を目指して先生になれたのも、あの絵があったからかもしれないね」

 そうすると、ワタシが志藤先生とで会えたのもすみちゃんの絵のおかげだということになる。なんだかもっと複雑な気持ちになってきた。

 あの赤い絵はすみちゃんの絵にしては珍しいタイプだと思う。

 色使いもそうだし、普段の絵よりもかなり抽象的だし、なにより人魚が描かれていない。ただ、先生をそれほど惹き付けるほどすごい絵だと感じたことはない。

 そういえば、あの赤い絵の他にも一度しか公開されていない絵があった。

「あの、雨の街角を描いた作品を知ってますか?」

「うん。見たことあるよ。さすがは姪御さんだね。暗い街に降る雨の景色なのに冷たい感じがしないやさしい絵だった。そういえばあの絵も画集に入っていなかったね」

 先生はかなりヘビーなすみちゃんオタクみたいだ。

 実は、雨の絵もすみちゃんの家に飾ってある。こちらはリビングに飾ってあるから、家の中に入れてもらえれば見られるはずだ。

 雨の絵について樹梨ちゃんに尋ねたときには

「雨の日の夜に、偶然すみちゃんと会ったのね、そのときの絵だよ」

 とうれしそうに言っていた。

 二人の特別な思い出のある作品は、売りに出したり画集に載せたりせず、大事に家に飾っているようだった。

 それでも二人のなれそめを描いた絵は堂々と飾っているし、その意味だって説明してくれる。頑なに内緒にしようとしているのはあの赤い絵だけだ。

 赤い絵にどんな秘密があるのか、俄然興味が沸いてきた。

 目的の駅から十分ほど歩いた場所にすみちゃんたちが暮らす慢心がある。

 前に住んでいた所は玄関まで行くことができたけれど、このマンションはエントランスで部屋番号を押して開けてもらわなくては入れないからちょっと面倒くさい。

 とりあえず、志藤先生には少し離れて待っていてもらって、ワタシは入口の脇にあるボタンに部屋番号を入力した。

 少し待つと「はい?」という声が返ってくる。その直後「げっ」というカエルを押しつぶしたような音が続いた。

 声の主は樹梨ちゃんだ。

 どうにも樹梨ちゃんのワタシへの対応が塩過ぎると思う。

― どうしたの?

 平静を取り戻した樹梨ちゃんの声が届いた。すぐに開けてくれるつもりはないようだ。

「すみちゃんが遊びに来て良いって言ったもん」

 ワタシの言葉を確認しているような声が小さく聞こえた。

― 一人で来たの?

「連れてきてもらったよ」

― んーー、今、来客中なんだけど……。まぁいいか。

 その声が聞こえると同時にエントランスの自動ドアが開いた。

 どうやら門前払いは免れたみたいだ。ワタシは志藤先生に声を掛けて一緒に自動ドアをくぐると、エレベーターに乗り込んですみちゃんたちの部屋へと向かった。

 鈴を押そうと思ったけれど、ドアノブに手をかけたら抵抗なく開いたのでそのまま玄関に入った。多分、樹梨ちゃんが開けておいてくれたのだろう。

「おじゃましまーす」

 ワタシが声を掛けると志藤先生は「お、おじゃま、します」と少しオドオドした様子で続いた。

 玄関には誰も出迎えに来ない。まぁ、来たのがワタシだと思っているから当然だろう。

 志藤先生に来客用のスリッパを出し、ワタシはスリッパを履かずに奥へと進んだ。

 短い廊下を抜けてドアを開けるとリビングがある。

 そのリビングには、ソファーでくつろぐすみちゃんと樹梨ちゃんの姿があった。そしてもう一人、『来客中』と樹梨ちゃんが言っていたその人は、ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた。

 客人をほったらかしてイチャイチャしているすみちゃんと樹梨ちゃんは意味がわからないけれど、ワタシを驚かせたのはそれではなく、来ていた客人その人だった。

「げっ」

 ワタシもさっき樹梨ちゃんが出したようなカエルを押しつぶしたような声を出してしまった。

「あら、こんにちは。お久しぶりね」

 笑顔であいさつをした客人は、中山小学校で保健室の先生をしている鍋島先生だ。

「こ……、こんにちは……」

 志藤先生を巡るライバルがもう一人この部屋にいるなんて想定外過ぎる。

 当の志藤先生はワタシの後ろで固まっていた。

「お、流里! よく来たね!」

 満面の笑みを浮かべて脳天気に言ったのはすみちゃんだ。

 一方の樹梨ちゃんはリラックスモードから一気に仕事モードの表情になった。

「そちらは中学の志藤先生ですよね?」

 そして鍋島先生は「やるわねぇ」と呟いてニヤニヤ笑っている。

 なんだろうこの状態。

「ちょっと流里ちゃん! 一体どういうことなの? 志藤先生もいらっしゃるならちゃんと事前に言ってくれないと困るじゃない」

 樹梨ちゃんの顔が本気で怖い。怒っているというより真顔で怖い。

「だってさ! 先に言ったらダメって言うでしょ!」

 突然押しかけたら迷惑がられることくらいわかっていた。だけど言ったら絶対に断られる。だから強硬手段に出たのだ。ワタシは悪くない!

 ワタシが言うと、真顔の樹梨ちゃんの顔が険しくなっていった。

 そんな樹梨ちゃんの肩をすみちゃんがポンポンとたたいてなだめている。

「あ、あ、す、すみません。突然お邪魔してしまって。すぐにおいとましますので……」

 これまで見たことがないくらい志藤先生が小さくなっていた。その姿を見ると、さすがに申し訳ないことをしたという気持ちになる。

 それに意気込んで志藤先生をサプライズでここまで連れてきたけれど、ここから先、どうすればいいのかまでは考えていなかった。

 そんなワタシたちの様子を見かねたのか、お客様のはずの鍋島先生が立ち上がって仕切りはじめた。

「志藤先生いらっしゃい。中山小で養護教諭をしている鍋島です。前にちょっとお会いしたことがあるんですけど、覚えていらっしゃいますか?」

 鍋島先生の柔和な笑顔と声に少し緊張がほぐれたのか、志藤先生は小さく息をついて「は、はい」と答えた。ワタシが前に聞いたときには知らないと言っていた。どっちが嘘なんだろう。

「そう緊張なさらないで。とりあえずこちらに座ってください」

 そうして鍋島先生はダイニングテーブルの椅子を引いた。

 志藤先生はオドオドしながらワタシをチラリと見た。ワタシがそれに答えて頷くと、「失礼します」と言いながら椅子に座る。

「はい、流里ちゃんも」

 鍋島先生は続けてワタシに椅子を勧め、自分が飲んでいたコーヒーカップをソファーのあるローテーブルに移した。そして、すみちゃんと樹梨ちゃんをダイニングテーブルに移動するように言うと、自分はキッチンに向かう。

 まるで鍋島先生の家に来ているような錯覚に陥った。

「志藤先生は何を飲まれますか?」

 キッチンに立つ鍋島先生が言う。

「あ、私がやります」

 そう言った樹梨ちゃんを鍋島先生は手を上げて止めた。

「お茶は私に任せてお話をしててください」

「あ、はい。ありがとうございます」

 なんだかすごい敗北感だった。

 すごく悔しいから、敗北感を遠くに放り投げて「鍋島先生! ワタシ、ジュース!」と乱暴にオーダーしてみる。

「ジュース……。これでいい?」

 鍋島先生はまったく気にする様子もなく、冷蔵庫の中から瓶に入ったオレンジジュースを取りだしてワタシに見せた。ワタシが頷くと、「志藤先生も同じでいいですか?」と、まだ固まっている志藤先生に声を掛ける。

 再び襲ってくる敗北感。

「あ、はい。ありがとうございます」

 敗北感に打ちのめされている横で、志藤先生は緊張感に包まれていた。

 こうして見ると、志藤先生が学校の先生に呼び出されて怒られている生徒のように見る。

 よく考えたら樹梨ちゃんは小学校の先生で、先生歴は志藤先生の大先輩になる。鍋島先生は保健室の先生だけどやっぱり先輩だし、すみちゃんは志藤先生の憧れの画家先生だし、緊張せずにいられるわけがない。

 さて、どうしようか……と、思っていると、志藤先生がワタシの袖口をツンツンと引っ張って

「これ、どういうこと?」

 と小さな声で聞いた。小声で答えようとしたとき

「流里ちゃん、きちんと説明してくれるかな?」

 と樹梨ちゃんが低い声で言った。なんだか背筋に寒気みたいなものが走る。

 でもその声に一番ビビったのは志藤先生だったみたいで、ビシッと背筋を伸ばした。

「ご、ごあいさつが遅くなってすみません。北山中中学で体育を教えている志藤です。突然お邪魔して本当に申し訳ありません」

「あ、いえ。山中小の三鷹です」

 唐突に二人のあいさつがはじまる。

 そこに緊張感とは無縁のすみちゃんの声が混ざった。

「私は流里の叔母の脇山すみ枝です。いつも流里がお世話になってます」

「あ、いえ、こちらこそお世話になって……。えっと、これ、つまらないものですが……」

 そうして志藤先生は大きなバッグの中から箱を取り出してテーブルに置いた。手土産を持ってきているなんて知らなかった。

「ご丁寧に。わざわざすみません」

 樹梨ちゃんが頭を下げる。

 なんだかこういうやりとりはむずがゆくて居心地が悪い。

 大人の世界ってなんだか面倒くさいなと思っていると、鍋島先生がワタシと志藤先生の前にジュースのグラスを置いた。

 そして志藤先生が持ってきた菓子箱を見て「あら、これって人気のお店のお菓子じゃないですか! 早速頂きましょう」と言うと、箱を持ってキッチンに戻っていった。

 そして志藤先生が持ってきたお菓子を木製のボウルに盛ってテーブルの真ん中に置くと、その中から一つお菓子をつまみ上げて自分はソファーに座ってしまった。

 そして「私は何も聞いていませんよ」というすました顔をしてコーヒーを飲みはじめる。

 なんだかとても悔しい。鍋島先生がいなかったらきっと樹梨ちゃんは烈火の如く怒っていたと思うし、すごく助けてもらったんだと思うけど、だから余計に悔しい。

 鍋島先生がソファーでくつろぎはじめたのを合図にして、樹梨ちゃんが口火を切った。

「それで、今日はどうして志藤先生を連れてここに来たの?」

 その声に怒りは含まれていなかった。

「この間、すみちゃんの展示会に行ったでしょう?」

「うん。来てくれてありがとう」

 すみちゃんは笑顔で言う。

「そのときに志藤先生と会ったの。すみちゃんの絵のファンなんだって」

 ワタシはちょっとだけ『絵』の所に力を込めて言う。

「おぉ! そうなんだ! それはうれしいなぁ」

 すみちゃんはゆるっとした笑顔を浮かべてポリポリ頭をかいた。完全にオフモードの顔だ。

 そして次の瞬間、ギャッと言って小さく飛び上がる。多分、テーブルの下で樹梨ちゃんがつねったのだと思う。

「うん、それで?」

 樹梨ちゃんに促されてワタシは話を続けた。

「志藤先生と少し絵の話をして、すみちゃんが描いた赤い絵が見たかったけど、画集にも載ってなかったって言ってたから見せてあげたいと思って」

「赤い絵? それって『未来』のこと?」

 樹梨ちゃんは呟くように言うと、チラリとすみちゃんを見た。

「あー、あ、あんな古い絵を知ってるんですか? 一度しか公開してないのに……」

 どことなく落ち着きのない様子ですみちゃんが言う。

 ようやく少し平静を取り戻したのか、志藤先生がその問いに答えた。

「はい。高校生のときに偶然入った作品展で拝見したんです。『未来』というタイトルなんですね。怪我をして陸上の選手を諦めたときにあの絵……『未来』を見て、がんばろうという気持ちになれたんです。あの絵を見ていなかったらきっと今の私はなかったと思います」

 そう語っていく間に、志藤先生のすみちゃんを見る瞳に熱がこもっていくのがわかった。

 だからワタシは咄嗟に口を挟む。

「あ! あと雨の街の絵も見たいんだって」

「ああ、それならそこに」

 そう言ってすみちゃんがリビングの奥の壁を指さす。

 志藤先生はすみちゃんの指の先に目を移した。そして「うわぁ」と声を漏らす。本当に感動しているみたいだ。

「あ、あの……。近くで見せていただいてもいいですか?」

 ちょっと興奮した様子の志藤先生は子どもみたいだ。樹梨ちゃんは笑みを浮かべて「どうぞ」と言った。

 志藤先生は興奮する気持ちを抑えているのか、わざとゆっくり立ち上がって、一歩ずつ慎重に壁に近づいて行く。だけど、右手と右足が一緒に出ているみたいなギクシャクとした動きだった。

 雨の街の絵の前に立つとしばらく動かなくなって、それから近付いたり離れたり、横から見たりして時間をかけて鑑賞していた。

「自然を題材にした作品が多いですけど、この作品以降は街を描かれることが増えましたよね?」

 志藤先生は絵を見つめたままで、いかにもマニアっぽい質問をした。

「ええ。良く知ってますね」

 すみちゃんは笑顔で、でも樹梨ちゃんを横目で確認しながら答える。

 志藤先生はすっかりファンモードに切り替わったようだ。

 ダイニングテーブルに戻ってくると、さらに次の質問をする。

「この作品も画集にはいっていませでしたよね? 脇山先生の作品のターニングポイントだと思うんですけど……。どうして画集に収録されなかったですか?」

「んー、それは、簡単に言えば恥ずかしいからなんだけど……」

 すみちゃんはそう言うと、チラリと樹梨ちゃんを見た。

 樹梨ちゃんは小さく息をついてから頷く。

「その絵は、樹梨と出会ったときの思い出を描いたものなんです。だから他の人にはあまり見せたくなかったんですよね」

「え?」

 志藤先生は少し目を大きくして、すみちゃんと樹梨ちゃんの顔を交互に見た。

 その表情にはどんな意味があるのだろう。驚きなのか、困惑なのか、もっと他の何かなのか、複雑過ぎてワタシにはわからなかった。

 だからワタシは思い切って二人の関係を説明した。

「すみちゃんと樹梨ちゃんは付き合ってる……というか一緒に住んでて、結婚してるみたいな感じです」

「脇山先生と三鷹先生が? そ、そうなんですか……」

 なんとなく志藤先生の声のトーンが下がったように感じた。

 だけどすぐに慌てて「あ、おめでとうございます……じゃ、ないですよね。えっと……その……」としどろもどろの言葉を紡いだ。

 志藤先生がとても動揺していることはわかった。きっと今日の志藤先生の気持ちはジェットコースターみたいに上がったり下がったりしているのだと思う。

 これもワタシの目的のひとつだったけれど、動揺する姿を見るとちょっと胸が痛かった。

 だからお詫びではないけれど、一番見たいと言っていた赤い絵をどうして見せてあげたい。

「ねぇ、志藤先生はこんなにすみちゃんの絵が好きなんだから、赤い絵も見せてあげてよ」

 ワタシが言うと、すみちゃんはブンブンと首を横に振った。

「あれはダメ。絶対にダメ」

 ワタシのお願いは大体聞いてくれるすみちゃんがこう言い切るのは珍しい。

「ケチ! 見せてあげてよ」

「イヤ! ダメ!」

「どうして?」

「恥ずかしい!」

 すみちゃんは一歩も譲る気がないようだ。でも、ワタシも引き下がるわけには行かない。

「この恥ずかしい絵も見せたんだからいいじゃない!」

 ワタシは雨の街の絵を指さして言う。言い終えてから「恥ずかしい絵」と言ってしまったことをちょっと後悔したけれど、もう戻せないから気にしないことにした。

「それより恥ずかしいからダメ!」

「先生がせっかく来てくれたのに! どうしてそんなイジワルなこと言うの!」

「イジワルじゃないよ!」

 口喧嘩みたいになっていってしまう。

 志藤先生は、ワタシとすみちゃんの口喧嘩を見かねて「木下さん、私はいいから」とワタシの肩をおさえた。

 だけど志藤先生に赤い絵を見せてあげたい。これは絶対に譲れない。

「どうせ樹梨ちゃんとのラブラブエピソードがあるだけでしょ! それくらい全然普通じゃん! だから見せてよ!」

「ダメったらダメー!」

 ここまですみちゃんが折れないことは珍しい。どう言えば見せてくれるだろう。

 しばらくすみちゃんとにらみ合っていると「見せてあげたら?」と樹梨ちゃんがため息交じりに言った。

 すみちゃんは「裏切られた」とつぶやきながら、愕然とした顔で樹梨ちゃんを見る。

「恥ずかしがるすみちゃんの気持ちもわかるけど、志藤先生にとっても思い出深い絵なんでしょう? それにこんなにもすみちゃんの絵を好きだって言ってくれてるのよ?」

 まるで子どもを諭すようなやさしい声で樹梨ちゃんは言った。それでもすみちゃんは「うーん」と唸りながら悩んでいる。

「あ、いえ、無理なら本当に私は……」

 志藤先生が申し訳なさそうな顔をして言う。

 志藤先生にそんな顔をさせたかったわけじゃないからとても悔しい。

 それもこれもすみちゃんがすぐに見せてくれないからだ。

 だけどかなり考えた末、すみちゃんは「わかった」と呟いて立ち上がった。そして寝室から赤い絵の額を持ってくる。樹梨ちゃんがテーブルの上のコップを端に避けると、すみちゃんはそこに額縁を置いた。

「どうぞ、見てください」

 すみちゃんは観念したような神妙な顔をしている。

 志藤先生は少し迷っているようだったけれど、目の前にある念願の絵を見たいという気持ちに勝てなかったのか、椅子から立ち上がって絵を見下ろすように眺めた。

「うわぁ……」

 という感嘆の声が漏れた。

 ワタシも志藤先生の横で絵を見つめる。

 寝室に飾ってあるのは知っていたけれど、ワタシもじっくりとこの絵を見たことがない。

 この絵をいつも『赤い絵』と言っていたけれど、画面全体に濃淡の違う赤色が敷き詰められていて、まさに『赤い絵』と言う意外にないくらいだ。

 四角い枠のようなものがあり、真ん中にはぼんやりと輝く楕円形のものがある。その楕円を色とりどりの小さな光や大きな光が囲んでいた。

「この絵が見たかったんです。『未来』というタイトル、本当にその通りだと思います」

 志藤先生はしばらく絵を見つめた後、ぽつりとつぶやくように言った。

 私には『未来』を特に感じられないけれど、志藤先生にはそう見えるらしい。

「ねぇ、この絵は樹梨ちゃんへのプレゼントだったよね?」

 ワタシは以前チラリと聞いたことを尋ねた。

「ええ、そうよ」

 樹梨ちゃんが答える。

「恥ずかしいってどういう意味があるの?」

 すると樹梨ちゃんはチラリとすみちゃんを見た。やっぱり教えてくれないのだろうか、と思っていると、樹梨でゃンは絵の中の小さな光の粒の一つを指さした。

「多分、この光が流里ちゃんだと思うわ」

「え? ワタシ?」

 小さな光の粒の中で、ちょっとだけ強い光を放っている。

「叔母バカだから、ちょっとひいきしてるのね」

 そう言って樹梨ちゃんはクスクスと笑った。

「え? なんか意味がわからないよ」

 ワタシは言ったけれど、樹梨ちゃんは志藤先生の方を見る。

「志藤先生がこの絵を見て元気をもらえたのなら私もうれしいです。これは私がはじめて担任を持ったクラスで授業参観をしたときの絵なんです」

 そう言われて、ワタシが小学二年のときだと気がついた。お母さんが「新人さんは初々しくていいわねぇ」と言っていたのを思い出す。

「じゃぁ、もしかしてこの丸いのが樹梨ちゃんなの?」

「うん、そうよ。失敗ばっかりで未熟だった私ね。繭の中で必死にもがいている私」

 志藤先生はそう語る樹梨ちゃんの顔を見てから改めて絵を見つめた。

「そうだたんですね……。だからこんなにやさしくて力強いんだ……」

 志藤先生の横顔を見ると、少し目に涙が浮かんでいた。

「貴重な絵を見せて頂いてありがとうございました」

 志藤先生はさりげなく浮かんだ涙を指で拭き取って深々と頭を下げた。

「いえいえ。喜んでいただけたなら良かったです」

 樹梨ちゃんは笑顔で答える。

 話が終わってしまいそうだったから、ワタシは慌ててずっと抱いていた疑問を投げかけた。

「ねぇ、どうしてこの絵には人魚がいないの?」

 すみちゃんの絵の大ファンの志藤先生ならば、真っ先にそのことを質問すると思っていたのに、なぜか質問をしなかったからワタシが聞くことにしたのだ。

 するとずっと難しい顔で黙っていたすみちゃんの肩がビクッと揺れた。

「え? 人魚ならいるじゃない」

 答えたのは志藤先生だった。

「どこに?」

 肩を震わせているすみちゃんを無視してワタシはえを覗き込んだ。

「ほら、ここに」

 そう言って志藤先生は繭の端の一点を指さす。ワタシがじっくり見ようと身体をかがめると、「わぁーーー」とすみちゃんが叫びだした。

「すみちゃん、うるさい!」

 ワタシはすみちゃんに言い放つと、じっくりと志藤先生が指した場所を見つめた。

 そして羽化しようとして裂けた繭の裂け目の影に、幼い人魚の姿を見つけることができた。幼い人魚は裂け目の中を覗き込むような姿勢で座っている。

「こんなの見つけられないよ!」

 ワタシが叫ぶと

「見つけてもらおうなんて思ってないよ!」

 とすみちゃんが叫び返した。すみちゃんの顔が真っ赤になっている。

「どうしてこんなに見つけにくいところに描いたの?」

「流里ちゃん、もうこれ以上は勘弁してあげて。すみちゃんが泣いちゃうから」

 樹梨ちゃんはクスクスと笑いながら言った。

 そして、両手で顔を隠して悶えているすみちゃんに近寄って、なだめるように頭を抱きかかえた。

 相変わらずイラっとするくらい仲良しだ。

 そして何やら耳元でささやくと、やっとすみちゃんは顔を上げて、そそくさと絵を寝室に戻しに行った。

 寝室から戻ったすみちゃんに志藤先生は改めて頭を下げる。

「本当にありがとうございました。画集にも載せていないのは、お二人だけの大切な思い出だったからなんですね」

 志藤先生はおだやかな笑顔を浮かべている。

 すみちゃんのことを好きかもしれないというのはワタシの勘違いだったのかもしれない。だって、失恋をしたならこんなに穏やかな顔はできないと思うから。

「さて、お話はひと段落したの? だったらあとは仲良くおしゃべりしましょうよ」

 今まですっかり存在感を消していた鍋島先生が手を叩いて言った。

 鍋島先生はこうした場を仕切るの好きなのかもしれない。

 それからはローテーブルに移動して、カーペットに車座に座っていろんな話をした。

 半分以上は大人の話でワタシが入れない話題だった。

 鍋島先生はさりげなく志藤先生の隣に座って、さりげなくアドレスを聞き出してる。やっぱり油断ならない。

 そろそろお開きにしょうという時間になったとき、ワタシはひとつ忘れていたことを思い出した。

「先生、画集持ってきてましたよね? すみちゃん、サインを書いてあげて」

「うん、いいよ」

 すみちゃんは笑顔で快諾する。

 志藤先生はおずおずと画集をバッグから取り出した。

 そしてサインが書かれた画集を、ギャラリーの前で見たのと同じように、両手で大事そうに抱きかかえていた。

 そうしてワタシと志藤先生はすみちゃんたちの部屋をでた。

 マンションを出て少し歩いたところで、志藤先生が足を止めてマンションを顧みた。

「先生、驚かせてしまってごめんなさい」

 ワタシは素直に謝る。思った以上に動揺させてしまったことは本当に申し訳ないと思っている。

「脇山先生のお宅に行くなら、最初に教えておいてくれればよかったのに」

「だって、言ったら来なかったでしょう?」

 志藤先生は少し考えて「そうね、多分」と答えた。

「でもそっか、脇山先生と三鷹先生がねえ」

 つぶやく声の感情は読み取れない。マンションを見上げているから、ワタシよりも背の高い志藤先生の表情も見えない。

「脇山先生、やっぱり素敵だったわね」

 志藤先生はワタシを見て笑顔を作った。

「三鷹先生も鍋島先生も素敵な人たちだった。私ももっと頑張らなきゃ」

 そうして志藤先生はガッツポーズを作った。

「今日はありがとうね、木下さん」

 それはとてもきれいな笑顔だったけれど、なぜかちょっぴり寂しそうに見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る