第19話 噛みちぎる

 夢の中のエマは、泣いていた。小さな体のいたるところに青紫色のあざを作り、顔は流れる涙のせいか、それ以外の外的要因のせいなのか分からないほどに真っ赤に腫れていた。


「……痛い……痛いよ……どうして私を殴るの? おじさん……私、何かダメなことした?」


 何故、自分がこんな目に遭うのか分からない。自分がこんな目に遭う理由を、エマは求める。自分が痛い目に遭わない方法を、エマは求めていた。


「……うるせぇよ。いいかエマ。お前はただ、俺の言うことを聞いていればそれでいいんだ」


「……でも……」


「黙れ。お前は俺に逆らう必要はない。その理由を考える必要はない。考えていいのは……親のいないお前が俺のもとから離れたらどうなるのか、それだけだ。……分かったな」


 エマの生存本能は、有無を言わさずに彼女の首を縦に振らせた。彼女は当然、男の答えに納得しているわけではない。しかし、ここで首を縦に振らなければもっと痛い目を見ることは火を見るより明らかだった。


「……それでいい。飯を食わせてやってるだけありがたく思えよ。……いい女に育ったら、俺の女にしてやるからよぉ……クック……」


 この時のエマは、諦めていた。自分より力の強い者に抵抗することを、ただ生きる以上のことを求めることを。力の弱い子供でしかない自分が大人の男に逆らった所で、また痛い思いをするだけだと……彼女は、気づいてしまったのだ。


(……なんでこの人は、私を痛めつけるんだろう……今なら答えは分かる。この人は、私を支配しようとしているんだ……私のことを、自分にとって都合のいい……物言わぬ奴隷にしようとしている。だから、私に逆らう気を起こさせないように、幼い頃から徹底して恐怖を心に刻み込んでいるんだ……)


 エマが男の持つ悪意を理解するほどに、彼女の目に映る男の姿は人から異形のものへと変化していく。この世に蔓延る“悪”を具現化したようなしたような、そんな姿をするものの名は……


「魔族だ」


「……え?」


「……気づいていなかったのか? 俺は魔族だよ。当たり前だろ? 人間がこんなに酷いことをするはずがない。こんな酷いことを出来るような生物は……魔族しかいないだろう?」


「……いいえ……おじさんが魔族なんて話、聞いたこと……」


「お前が俺の何を知っている? ガキの頃から俺を悪魔のように扱って、それ以上を知ろうとしなかったお前が」


「……でも……」


「……ついでに教えてやるよ。お前の両親のことだ。……お前の両親を殺したのも、俺と同じ魔族だよ」


「……は?」


「お前の両親を殺して、お前をたった一人にして、俺という悪魔のもとへとお前を導いたのは、魔族だってことだよ。お前の地獄を作ったのは、全部魔族だってことだ」


「……そうなの? ……嘘じゃない?」


「ああ! そうとも! お前にとって魔族は両親の敵! お前にとって何よりも憎む存在だ! ……そんなお前が、あの魔族の娘を庇うなんて……それは正しいことなのか? そんなことをして、お前の親は喜ぶと思うか?」


「……でも! でも、アテネちゃんは!」


「でもなんだ!? あの娘が生きている限り、またお前の親のように殺される人が現れるかもしれないんだぞ!? お前は魔族が生む悲劇をしっていながら、その原因を野放しにするつもりか!?」


「違う! アテネちゃんは……悲劇を生む魔族にはならない! 私がならせない!」


 エマのアテネを守るという意志は、まやかしごときによって揺れ動くほど柔なものではない。それまでは昔のような意志薄弱な少女だったエマは、アテネを守るために強い心を持った勇者の姿に戻っていた。


「この……クソ生意気なガキがぁ!」


 しかし、エマを洗脳しようとするエンニーの意志もそれに負けない強さである。エンニーの意志の体現者である男はエマを殴り飛ばそうとするが、エマはそれを軽々と回避する。


「……これはきっと、全てまやかし……あなたの言っていることは、きっと全てデタラメだ!」


「違う! この世界は真実だ! お前がここから抜け出すことが出来ない限りはな!」


 男の言うとおり、このまやかしの世界から自力で脱出しない限りは少しずつ洗脳が進んでいく。エマもそのことには薄々気づいているのだが、肝心の脱出する方法にまでは辿り着けていなかった。


「……やっぱり私は、弱いね。きっとジークは、もうとっくにこんな世界から抜け出して……アテネちゃんを、守っているんだろうなぁ……」


 エマは、考える。この世界からいち早く脱出するための方法を。それと、今からでもジークやアテネの助けになれる方法を。

 そしてその答えは、すぐに導きだされることになる。


「……ごめんね、ジーク、アテネちゃん。私の弱い心じゃ、どうやらまだ目を覚ますには時間がかかりそうだよ。……だけど!」


 覚悟を決めたエマは血相を変え、血走る目を男から自分の右手へと向ける。そして、大きく開けた口の中に右手の薬指を突っ込み……その指を、思い切り噛みちぎった。


「……んなぁ!? お、お前、自分の指を……頭イカれてんじゃねーのか!?」


「……どうせこれは真実じゃないまやかしの世界だ。だったら、指一本くらい噛みちぎっても痛くも痒くもないよ。……それに、ここまでやらなきゃ……向こうでスヤスヤしている私に、こっちの私の意志が届かないだろうしね」






 夢の世界のエマが自分の薬指を噛みちぎったその瞬間、現実のエマは眠ったままに自分の右親指の尖らせた爪を薬指へと突き刺した。

 当然、爪の刺さった指からは血が少しずつ滴り落ち……その血は、小さな魔法陣を描く。


「………………ゲコ」


 魔法陣の中から現れた蒼い蛙、蒼蟇。彼に託された仕事は、エマに代わってジークとアテネを助けることである。

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