第18話 慈悲
ジークは腰を下ろし、何も知らずに眠り続けるアテネの顔に手をあてる。エンニーに足蹴にされた彼女の頭には汚い汚れがこびりついていたが、ジークは沸き上がる怒りを無理やり押さえながら、アテネの頭についた汚れを丁寧に落としていた。
そんな、一見すると無防備なジークの背中を見て、ロイの体は震えていた。ジークは目の前のアテネに目一杯の慈悲を見せる一方で、背中からはこれでもかとロイとエンニーへの怒りを魅せているからだ。
(……俺には分かる。今の時間は、ジークさんが与えた猶予……俺達が、逃げるための猶予だ。……もし、あの人がこちらを向いたら……俺達は殺される。よくて半殺しだ)
ロイは一歩ずつ、ゆっくりと後退する。本当は一目散に逃げ出したいところだが、今ジークから目を放して背中を向けることを彼の本能が拒否しているのだ。
(てか、話が違うぞエンニー! 一度眠らせれば、しばらくは起きることはないって言ってたのに……俺達が真正面から勇者と戦っても勝てるわけねぇだろ! 早く……早く逃げ……)
ある程度ジークから距離をとった時、重石がつけられたようになっていたロイの心は急に軽くなった。
いったい何故だ? そうロイが不思議に思っていると、ジークはアテネを抱き抱えながら立ち上がってゆっくりと振り返った。
(……なんだよ、その顔は……さっきまであんなに怒っていたのに、なんでアンタの顔は……そんなに慈悲深いんだ?)
ジークがアテネを見る目は、父親が眠った娘を見守るそれだった。強い者が、自分よりも弱い、守らなければならない存在に対して見せるそれは……神が迷える人間を導く時に見せる慈悲深い笑顔のようだと、ロイはそう思った。
(……あの人から発される……怒りが消えた……あの魔族の娘の影響なのか? ジークさんは……あの魔族に何を見ているんだ!?)
ジークはアテネを、エマが眠っている椅子の隣の椅子に座らせた。彼はまずアテネ、続いてエマの頭を優しく撫でた後で……穏やかで鋭い視線を、ロイに向けた。
(……怖え。けど、殺意までは感じない……例えるなら、ガキを諭すように叱る親みたいな……そんな目をしている。……俺の親はあんなに怖くねぇけど!)
ジークからは殺意が消え、ロイの恐怖から来る後退もようやく止まった。しかし、ジークとロイの間の圧倒的な力の差が埋められたわけではない。ロイはジークに怒られないうちに退散しようかと考えていたが……そんな彼の思考を、復帰したエンニーの声が遮るのだった。
「……何をビビっているんだい? ロイ」
「……エンニー、お前……」
「……私は嬉しいですよ。全ての魔術師の頂点に立つ我らが英雄と、魔王を殺した人間の英雄とこうして相見えているんですから。……私、あなたにずっと憧れていたんですよ? ミスター・ジーク」
「……どうも。それじゃあ、俺の顔に免じてこの場は見逃しちゃくれないか?」
「そうはいかない。何故なら好きと嫌いは表裏一体。私が以前まであなたに抱いていた憧れは、今や……裏切られたことへの失望に変わっていますよ、ええ」
エンニーがそう不敵に笑うと同時に、ジークは一瞬ではあるが張りつめた空気を感じる。
ジークが感じたものは、強者のみが放てる魔力の威圧。自分やユルゲン、ドーラといった指折りの術者しか放てない威圧を、目の前のこの男は未熟ながらも放っているのだ。
「……魔族、滅すべし。魔族に与する者は、たとえ英雄だろうが……殺さなくては」
そう言うと、エンニーは静かにその目を閉じた。それとともに彼が放つ魔力の威圧も感じなくなり、ジークはエンニーが眠ったのだと理解した。
(……でも、なんで……このタイミングで、寝……)
ジークは、エンニーが眠ったことによって一瞬でも油断し、気を抜いてしまった。目の前の敵を見ることより、敵の真意を見抜くために頭を働かせることに注力しようとした。
そうやってジークが生んだ僅かな隙をつき……エンニーは、眠ったままジークの懐まで一瞬で接近した。
「んなっ……!?」
ジークが受け身をとろうとする前に、エンニーの蹴りがジークの横腹にクリーンヒットする。ジークは家の壁を突き破るほどの勢いで蹴飛ばされながらも、すぐに体勢を立て直そうとするが……
「……もう次かよ、早えな!」
そんな暇も与えず、エンニーはさらなる猛攻を仕掛ける。ジークの反応速度をもってしても後手後手に回らざるをえないほどの苛烈な攻撃を仕掛けながらも、エンニーはとても穏やかな顔で寝息を立てていた。
(眠りながらの攻撃……肉体の制御権を手放し、魔力にそれを委ねているのか!? この人間離れした身体能力も、人が動かしているのでなく、魔力が動かしているのだと考えれば……)
『
(……魔力が体を動かしてるんなら、この読みづらい不規則な動きにも納得だ! クセとか、ムダとかが一切なく……規則性がない、それでいて効率的な動きのみをしてくる!)
右からと思えば左から、まっすぐ来ると思えば側面から。縦横無尽に動き回るエンニーは、身体能力に任せて人間業とは思えない無茶な動きをこれでもかと見せつけてくる。
(……そうだよ。コイツの動きはあまりにも無茶苦茶だ。人間が出来る範疇をゆうに越えている! このまま無理やり体を動かし続ければ、お前の体はそのうちぶっ壊れるぞ!)
人間の力では出せないスピードで動き回り、体をあり得ない方向に曲げて攻撃を避ける。そんなことをしているエンニーの体が悲鳴をあげているのはジークもよく分かっているし、だからこそ……彼は悲しみ、怒っていた。
(……こんな無茶な魔法を使う場面なんて、使わなきゃ命の危険がある時だけだ。……お前にとって、今はそれにも匹敵するほどの覚悟が必要な場面なのか!? どうしてそこまでして、お前らはアテネを殺そうとするんだよ!!!)
自分の体がどうなろうとも、何としてもアテネを殺す。そんなエンニーの悲痛な覚悟を、ジークはどうしても受け入れられなかった。
一方その頃、ジークの家の中では、未だエマとアテネが深い眠りの中にいる。
「…………………」
二人は時に苦しそうな顔を見せるが、その目は固く閉じられたままである。夢の世界の奥深くに閉じ込められたままの二人は、まだしばらくは目覚めることはないと思われていたが……
傷つけられたエマの薬指からは、静かに血が滴り落ちていた。
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