第1章 消えたともだち、消えたかけら 2

 ゼニばあに示されて、玄関から小さなドロの足跡がまっすぐについているのが分かった。

 マロの足跡だ。

 足跡は玄関から一直線に奥の部屋まで続いている。

 これを掃除しなきゃいけないとか、そう言えばあのもう一人の自分? の足跡がないけどどうしたんだろうとか思いながら、鉄平は小さな小さな足跡をたどった。

 一番奥の部屋、黒と赤の中間みたいな色の二枚の戸が並んでるみたいな場所。

 そこでマロの足跡は消えている。

「ここの……部屋の、もう一つ奥?」

「……仏壇……」

 掠れた、初めて聞く意味を持つ言葉に、鉄平は顔をあげた。

「ぶつだん?」

「家の中の、墓」

 そんなところにマロが泥足で入ったから、ゼニばあはすごく怒ってるんだ、と考えている鉄平を見て、ゼニばあは平坦な声で言った。

「臆病虫、本当は、仏壇じゃない」

 え? と見上げる鉄平に、ゼニばあは相変わらず落ちくぼんだ目で、無表情で、鉄平を見ていた。

「ごめんなさい、マロが……きれいにしますから、だから、マロを」

 ゼニばあは無言で首を横に振る。

「なんでもしますから!」

「臆病虫、お前の犬、もういない」

「え?」

 まず、臆病虫が何を指しているか分からず、鉄平はとまどった。いじめっ子三人組からもそんなひどい言葉で呼ばれたことはない。

 そして、犬が、「もう」いない、ということに気付いて、鉄平はゼニばあの落ちくぼんだ目を見つめ返した。

「虫の犬、この先に行った」

「この、先?」

 この部屋が一番奥だと思ってたけど、本当はもう一つ部屋があるんだろうか。

 鉄平の疑問に気付いたのか、ゼニばあは感情のない声でゆっくりと言った。

「この、先」

 ゼニばあの、教科書を読んでいるような声に、鉄平は違和感を感じた。

 あれ?

 いつもなら怖くて立っていられなくなるのに。

 今は、怖くない。

「臆病のかけら、臆病虫から抜けた。犬と一緒に行った」

「え」

 鉄平は目を真ん丸にした。

「おくびょうの……かけら?」

 ゼニばあはまたぶつぶつと訳の分からない単語を連ねている。

 でも、心当たりは、ある。

 あの時。

 リードを持ったままぬるりと自分から抜けて走っていったまぼろしのような自分。

「あれは、ぼくの、おくびょうのかけら?」

 鉄平は考えた。

 そう言えば、いつもならゼニばあの家の近くを通るだけでもこわいと思う自分が、こうやってゼニばあと話していても大丈夫だ。

 マロといっしょに消えたのは、ぼくの、おくびょうで、怖くて、弱い心?

 それがなければ、あの三人組をこわいと思うこともなくなる?

 学校に行くたびにイヤだと思うことも、保健室に逃げ込むことも、なくなる?

 なら、そんなかけらなんて。

 と、思ったけど。

 その考えを読んだようにゼニばあは言った。

「犬、逃げた」

 はっと気づく。

 そうだ、こわくて、弱くて、逃げ出したい自分は、マロといっしょに消えた。

 鉄平はうなずいていいのか首を横に振っていいのか分からず、くちびるをかんだ。

「犬、追いかけるか」

 言われ、ようやく鉄平はうなずく。

 たった一匹のともだち。自分をだいすきだって思ってくれる、たった一匹の。

 追いかけるに決まっている。

 ゼニばあはぶつぶつ言いながら、ぶつだんの前の薄茶けた本を取り、鉄平に押し付けた。

 恐る恐る本を受け取る。

 表紙には、ひっかいたような文字で、「役割の書」と書かれていた。

「役割の書……?」

「えらべ」

 えらべ、というのはどういう意味だろうと思いながら途中のページを開いて、鉄平は更に悩んでしまった。

 戦士、魔法使いから村人、国王まで、ファンタジーのゲームに出てくる職業がずらりと並んでいる。

 これを選んでどうしろというのだ。今からゲームでも始めろと?

 これじゃわからないので一ページ目に戻る。

 やっぱりひっかいたような文字で、書かれている。


   これは、『扉』の向こう側に行こうとする者が選ぶ役割である。

   『扉』の向こう側に行くには、必ず何らかの役割を果たさなければならない。

   選んだ役割を果たさなければ、役割に必要な力が失われる。

   役割を選ばずに行けば、どんなものであろうとも向こう側では生きていけない。

   そこにはただ、痛みと苦しみと残酷な死が待つのみである。


「『扉』の向こう側? 役割?」

 異世界、という奴だろうか。

 戦士とか、村人とか、王様とか。

 ゲームの職業みたいだ。

 これを選ばないと、『向こう側』とやらに行ってしまったマロを探しに行けないということか。

 そこで、鉄平は恐ろしいことに気付いてしまった。

「まさか、マロも役割がなければ生きていけないってこと?」

 ゼニばあは変わらずぶつぶつ言っているが、鉄平には分かった。分かってしまった。

 マロは多分この本の中から選ばないで行ってしまった。

 だから、マロは消えてしまう。

 自分のかけらと一緒に。

 そんなの、ダメだ!

 自分のかけらなんて消えてもどうしても構わないけど、マロだけは!

 鉄平は必死の思いで本を開く。

 鉄平の目は真っ先に「勇者」と書いてある場所に止まった。

 勇者?

 勇者なら、強くなって、世界中を旅できる。マロも探せる。

「勇者! 勇者がいいです!」

 だが、ゼニばあは骨と皮だけのような指で、本の一行をとんとん、と指した。

 『決定済み』と書いてある。

「……ダメなんだ」

 ゼニばあは、ぶつぶつ言いながら鉄平を見ている。

 鉄平はガサガサと本をめくって探す。

 戦士。ダメだ。自分がケンカに弱いことは自分が一番よく知ってる。

 魔法使い。これもダメだ。頭はよくない。

 村人、ダメだ、村から動けない。第一、弱い。

 王様。偉いだろうけど、マロを探せない。

 どれもこれも普通か向いてないか動けないかで、マロを探しに世界中を旅することはできそうにない。

 必死でページをめくっていくと、最後のページに、こう書かれていた。

 『魔王』。

「まおう?」

 鉄平は首をかたむけた。

「魔王って、世界をせーふくする、あの魔王?」

「魔王」

 ゼニばあはしわがれた声で言う。

「魔王、勇者に倒される」

「だけど、ぼくの目的は探し物。勇者が来る前にマロを見つけて戻ってくればいいんでしょう?」

 ゼニばあはぶつぶつ言っているが、鉄平は本を突き出した。

 『魔王』と書かれた下に、赤字で書いてある一文を指す。

 『急いで求める』

「魔王がいるんでしょう? ぼくが魔王にならないと困るんでしょう? 勇者がいるのに、魔王がいないから」

「勇者、いる。三人」

「三人?」

「魔王、最初から強い」

 言われてみれば当たり前のゼニばあの言葉に、鉄平は思わずうなずく。

「だが、魔王、倒される。魔王、世界から怯えられる。だから、怖くて、強い。世界を怯えさせなければ、魔王にはなれない」

「それでも……いい」

 鉄平は拳を固めた。

「マロを…さがせるよね」

 ゼニばあは何も言わない。

「ぼくから抜けたかけらっていうのは、きっと、弱いぼくなんだ。なら、なれる。弱いぼくのかけらがいなければ、ぼくはきっと強くなれる」

 そうして、鉄平は覚悟を決めてもう一度頷いた。

「ぼくのともだちだもん、ぼくがさがさなきゃ!」

「本人証明」

「え?」

 本人証明って、なんだ?

 悩む鉄平に、ゼニばあは勝手に鉄平の胸ポケットに手を突っ込んだ。

 お母さんに溜め息をつかれるのがイヤで、ランドセルから出して隠していた六〇点の算数テスト。

 ゼニばあはしばらくそのテストを見ていたが、三度大きく頷いた。

 鉄平の手から本を引き抜く。

 そしてテストを本の魔王のページに当てて、上から骨と皮だけのような手でこすると、鉄平の書いた名前の所がじゅう、と焦げた臭いを出した。

 ゼニばあが本からテストを離すと、そこには名前だけが黒く刻まれていた。

 ゼニばあは胸ポケットから(そこで鉄平は初めてばあさんがゼニばあが胸ポケットのある灰色の服を着ていることに気付いた)、銀色のペンを取り出す。

「オクダ……テッペイ……本人証明確認済み……同意……決定……」

 魔王のページに書き込むペンの動きが止まると同時に、ぶつだんから……なんて言っていいか分からないけど、例えるなら黒い光とでもいうものがさしこんできた。

「行け。だが」

 ゼニばあは壁に貼ってあるカレンダーを指さした。

「犬が耐えられるのは、万聖節の夜まで」

「ば、んせいせつ?」

 ゼニばあが指したカレンダーには「万聖節・ハロウィン」と一週間後の所に書かれている。

「間に合わなければ、犬は二度と戻らない」

「一週間?」

「行け」

 ゼニばあが戸に手をかける。

 頷くと、ぎぃぃぃ、と重い木がきしむ音がして、戸が開く。

 黒い光の渦に巻き込まれて、鉄平の頭がくらりとして。

 もう一度、ぎぃぃぃ、と音が聞こえた。

(マロ、マロ!)

 鉄平は心の中で叫んだ。

(今、助けに行くからね!)


 ◇     ◇     ◇     ◇


 そうやって、魔王城に黒い雷が落ちたのだ。

 魔王再臨を喜んで。


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