第1章 消えたともだち、消えたかけら 1

 奥田鉄平は、必死で走っていた。

 水を跳ねて追ってくる足音は一つ。

 上野光男は勉強はとてもできるけど体力がないし、飯田太は力はあっても太っていて長い時間走れないから、ここまで追ってくるのは、六年生三人をボコボコにしたって噂のある相川はじめ一人だろう。

 息が切れる。足が突っ張る。

 水たまりに浮いた赤や黄色の葉を踏みつけて、走る。

 逃げないと。

 はじめに捕まったら、あの公園まで連れ戻される。

 そうしたら、マロがどんな目にあわされるか。

 リードは絶対離すな、とマロと最初に散歩に行く時にお父さんに言われた。

 小さいマロが飼い主とはぐれてしまったら、家に戻ってくる可能性は低い。他の誰かに捕まって保健所に連れていかれるか、そのまま別の誰かのペットになってしまうか。それが嫌なら絶対マロから離れるなと。

 初めてのともだち。大事な子犬。

 ほけんじょとかいう場所に連れていかれるのも、誰かのペットになったマロを見るのもイヤだ。

 だから鉄平は必死で逃げる。

 鉄平の心が通じたのか、マロも鉄平も少し前を全力で走っている。

 はじめを振り切るまで、走り続けられるだろうか。

 いいや、走らなきゃ。

(逃げるのも、大事なのよ)

 保健室のおばさんも、そう言ってた。

(どうにもならない時は逃げていいの。逃げるなって言う人もいるけど、おばさんはそうは思わないな。だって、逃げるのにも勇気がいるから)

 いつも三人組に追いかけられて逃げ込む保健室で、今日もおばさんはそう言ってなぐさめてくれた。

 そんなことを思い出していて、足元が留守になった。

 がくんと膝が崩れて、膝から水たまりに転げ落ちる。

 ひざにひりひりとした痛みが走る。

「……う」

 涙がこぼれそうになる。

 何でぼくばっかり。

 何でぼくばっかりこんな目に。

 そんな考えを打ち破るように、声が聞こえた。

「てっぺー! どーこだー!」

 声が近い。

 泣いている場合じゃない。

 逃げなきゃ何をされるか分からない。

 マロに何かされてたまるか。

 マロは絶対離さない。

 そう、マロはぼくが守らなきゃ!

 ひざの痛みに半泣きで立ち上がり、水たまりの水と涙でぐしゃぐしゃになった顔を腕で乱暴に拭う。

 家まで、転ばないで、走らないと。追いつかれる。

 そう思った時、ゆらり、と身体が揺れた。

 今度は走ろうと蹴りだした足が落ちていた小石にぶつかったのだ。

 体が前に倒れて行く。

 ダメだ。走らなきゃ。転んでる場合じゃない。マロと一緒に、家まで走らないと。

 リードを握る手の感覚が、急ににぶった。

 離しちゃいけない。

 なのに、手の中からリードの形が消えていく。

 離してないのに。

 手はグーのままなのに、すり抜けて、リードが。

 その時、鉄平は信じられないものを見た。

 自分の右手……リードを持っていた右手がブレた。

 そのまま、ブレた右手がリードを握ったまま前に進む。

 生暖かい、ぬるっとした何かが、内側からヒフをすり抜けて出ていく感覚。

 右手だけじゃない。

 転びかけた鉄平から、右腕が、右肩が、胴体が、足が、頭が。

 ぬるぬると、気色悪い感覚が自分の全身から抜けていき。

 最後の指先まで抜けて、完全に切り離される。

 ぬるぬるはゆっくりと形を作り、鉄平の目の前で鉄平になった。

 鉄平のまぼろしのようなものがマロとそのリードを握ったまま、抜けて、転ばず、そのまま走っていく。

「……え?」

 転んだが、目の前で起きた出来事に、思わず呆然とその姿を見る。

 すり傷の痛みも感じなかった。

 右手のリードはない。マロもいない。

 鉄平から抜けた、もう一人の鉄平が、マロといっしょに走って行く。

「ま……まってーっ!」

 はじめの足音が近づいてきたのと、まぼろしが角を曲がっていったので、鉄平は慌てて起き上がり、今度は捕まえるために走り出す。

 マロが、マロが!

 角を曲がると、ぼやけた自分が、向こうにある門の中に飛び込んでいくところだった。

 あの家は。

 門の前まで行って、鉄平は表札を見上げる。

 銭田。

 ああ、よりによって、ゼニばあの家に逃げ込むなんて。

「てっぺー見―っけ。……はは」

 はじめが家を見て、鉄平を見て、楽しそうに笑った。

「ゼニばあの家に行ったのか、あのちっせー犬。おもしれー」

 ぜえはあいいながら追い付いてきた太と光男も、それを見て大笑いした。

「ぜってー、あの、ちっせー、犬、帰って、こねーな。ゼニばあが、ほけんじょ、に、つれてく、から!」

「いや、ぶんなぐられてるかも知れないよ」

「どっちにしろ、ゼニばあが許すわけないもんな!」

 三人組は楽しそうに笑う。

「あのお化けばばあ、きっとゆるしてくれねーぜ」

「おー、こわ。おれたち、帰ろう、っと」

「てっぺーの犬のせーだもんな」

「あの犬、ゼニばあに食われちまうかもな」

 三人組は言いながら、鉄平の背中を叩くと笑いながら走って逃げていった。

 ガラガラっとドアの開く音。

 取り残されたのは、鉄平一人……。


◇     ◇     ◇     ◇


 出てきたのは、背中が曲がっているので鉄平と大して身長の変わらないばあさんだった。

 ゼニタのばあさん。

 ここらの人で、このばあさんを知らない人はいない。

 がいこつの上に皮をかぶせたような、げっそりとやせた身体と、目玉なんかないんじゃないかと思うような落ちくぼんだ目。

 誰かがばあさんに何かしたとしても、ばあさんは決して大声を出したりはしない。というか、いつも聞こえるか聞こえないかの小声で意味の分からないことをぶつぶつ言って、じっとこちらを見てくる。落ちくぼんだ目でじっと見られると、まるで地獄の入り口にいるような気分になるので、ゼニタのばあさん、ゼニばあというどこかで聞いたような呼ばれ方をするばあさんは子供の恐怖の対象だ。

 大人だって、ゼニばあの家の前を通る時、そこにばあさんはいないのか確認してからじゃないと通れないほどおっかないのだ。

 ゼニばあはじっと鉄平を見る。

 いつもならそれだけで泣き出したい気分になる。なるんだけど。

 鉄平は覚悟を決めて声を出した。

「あの、犬……」

 ゼニばあはゆっくりと家の中に入って行く。

「あの、ぼくの犬……」

 ゼニばあは一度振り返って、何か意味不明なことをぶつぶつ呟きながら、それでも手は確かに鉄平を招いている。

 そのまま家の中に上がっていく。

 逆らうこともできず、鉄平はゼニばあの後についていった。

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