第31話 夏休み ~空乃海と~ 前編

 母さんに温泉旅館一泊二日のチケットを手渡されたとき、いったいその指はナニを表してるのかと邪推したくなるほど、右手の親指を雄々しく、清々しくサムズアップされていた。


「真魚。一発決めてくるのよ」


「海がうちに来た当初を思い出して。避妊しろって言ってなかったっけ?」


 いい年してぶすっとするな。母上殿。


「何よ。ここまでお膳立てしてあげてるんだから、男なら据え膳に手を出さなきゃ海ちゃんに失礼でしょうが。大丈夫よ……海ちゃんなら受け入れてくれるから。私だって若いときは父さんと――」


「誰が実の親の性事情なんて聞きたがるか!」



 図らずも母さんの目論見通りに事が進んでしまったことを、一部情報は臥せて海に伝える。

 すると僕が告げた「温泉」の二文字に、海の目が怪しく輝いた瞬間を僕は見逃さなかった。

 なんだか嫌な予感がするのは気のせいだろうか……。


「なんだって!?温泉かい!?行くよ!ん?とうしたんだい?浮かない顔して……行くと言ったら行くに決まってるじゃないか。なんで温泉と言えばこの人ありと謳われるこの私が断ると思ったんだい?あぁ……今日はなんて素晴らしい日なんだ!何処の温泉だい?……ふむふむ。伊豆か。ここから車でなら近いようだし、一泊二日には丁度じゃないか。……さっきから何を顔を赤らめてるんだい?部屋が同室?構わない構わない。せっかくの旅行なんだ、離れ離れは寂しいだろう?さてさて、これはもう行くしかないね。いや、行かないなんて選択肢はないね。母上殿の御厚意を無下に扱ってはならないよ。さぁ行こう今すぐ行こう」


 急にやる気スイッチが入った海の熱量はそれはそれは凄かった。どうやら触れてはならないところを掘ってしまったようで、熱い源泉が止めどなく溢れ出てくるように温泉への愛がとどまることを知らない。

 その熱量に僕は溺れてしまいそうだった。



 ――小一時間後。



「ちょ、ちょい待って。わかったから!海が温泉にたいして並々ならぬ情熱を持ち合わせているのはわかったから!これ以上は僕が保たない!」


「そうかい?……本当ならまだ序章なんだけど……そうだ!夜に続きを話すとしよう。一口に温泉といっても千差万別だからね。まずは主要な泉質から説明して――」


「もうらめぇぇぇぇ!!」


 序章と聞いて背筋に冷たいものが流れ落ちた。

 今後安易に温泉の話題を振ってはならないと堅く誓った昼下がりの僕であった。


「海ってそんなに温泉好きだったの?そういえば湯船に全国の温泉のもとをよく入れてるけど……」


「逆に聞くけど、温泉を切らない嫌いな人間がいるのかい?あいにく私はそのような人は知らないねぇ」


 そして旅行前日、うきうき気分で荷物を準備する海を見ると、まさかアノ人がついてくるなんてとても言えやしなかった……。




「グッモーニン☆」


「……」


 世界は突然終わりを告げる――

 みたいなモノローグをつけたくなるほど、僕達の周囲の空気は凍りついた。

 恐る恐る隣に目をやると、白濁した湯のように海の目が濁ってらっしゃる。

 それもそうだ。まさか空乃海が生前から目の敵にしている最上澄こと、最澄が真っ赤なオープンカーで家の正面に乗り付けているんだから。


「ねぇ真魚君」


「ひゃ、ひゃい」


……どうしてここにいるのかな?」


 今日って粗大ゴミの日だっけ?――朗らかにそう告げる顔が怖すぎます。ごめんなさい。

 今年は記録的な冷夏なのだろうか。

 半袖でいるのが辛いほど冷気が肌に突き刺さって痛い。

 ハヤクユブネニツカリタイナァ……。


「そ、それは……」


 言葉を間違えると僕が酷い目に遭わされそうだと、辿々しく答えていると、まるで空気を読まない担任教師が会話に話って入った。

 こういう図太さは素直に拍手を送るとしよう。


「それはぁ~中学生の男女がぁ~一泊二日のぉ旅行に出掛けるなんてぇ~担任として認められないからよぉ~」


 至極当然な理由にさしもの海も反論できず、舌打ちをする。


「ごめん。実は母さんとこの変態教師が、実は仲が良いらしくて……勝手に引率を頼んじゃったんだ……」


 最上先生は左ハンドルのオープンカーから颯爽と降りると(失礼だけど教師の給料でとても買えるような代物ではなさそう)、僕と海の荷物をスリのように奪い取り、トランクに放り込んだ。


「さぁて、それじゃあ~行きましょうかぁ~」



 三人を乗せた車は、休日の住宅街に響き渡るエンジン音を残して出発した。



 to be continued……

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