第26話 過去の古傷
あれは、私が小学五年生の頃の話だ。
当時、根暗とまでは言わないけれど、人と接することが今より苦手で、まだ恋愛なんてこれっぽっちも興味がなかった私の唯一の趣味といえば――六つ年が離れた姉から受け継いだ「BL」だけだった。
特に同人誌という薄い本を好んで読み、そのなかに登場する現実には存在するはずもない造型の男性達が、なにやらくんずほぐれつしている様を初めて目にした瞬間の衝撃と来たら、あの体を突き抜けていったほとばしる熱い
ちなみにその本はR18だったはずだけど、当時十七だった姉に何処で手に入れたのか尋ねると「コミケ」と答えた。
その当時はコミケの存在を知らず、そんな夢のような世界が存在するのかと興奮していたものだけど、もちろん十八歳以下で買うことが禁じられてるのだからイケないことである。
姉の部屋に侵入して勝手に読んでるのがバレた時は、さすがに本気で怒られたけど、あの日を境に私は一気に腐女子への道を突き進んでいった。
そう――齢十一にして立派な腐女子の仲間入りを果たしたのだ。
現在ですらこの特殊な趣味を知っている人間は少数であり、他人に打ち明けるのは気が引けてしまう。
当時小学生だった私が「BL」が趣味であることをひた隠しにしていたのは当然のことだろう。
親も知らないこの趣味を共有できる友達なんて、きっと同世代で出来るはずもないと考えていたし、これっぽっちも期待していなかった。
翌年、進学した姉が一人暮らしを始め、たまに実家に顔を出すと、私が好きそうなお下がりを恵んでくれた。
小学生が一人でBL本を入手する機会などそうそうないのだから、姉が帰ってくる度に胸を踊らせていたものだ。
学校が休みの日は、部屋に閉じ籠っては何度も繰り返し繰り返し読み耽り、あの耽美な世界に落ちていく時間が至福の一時でもあった。
そんな腐った小学校生活も六年生に突入すると、他人の目を盗んでは隠れてBL本を読むスキルを獲得していた。
家のみならず、学校でも隙あらば薄い本に心を熱くさせ、つまらない授業中もピンク色の世界に両足を突っ込みながら過ごしていたのだが、ある日の放課後、誰もいなくなった教室で一人隠れて本を読んでると――
「あれ?その本なに?」
「ふぇっ!?」
背後から突然声をかけられ、驚いて振り向くと、一人の女の子が立っていた。
まるで気配を感じさせることなく近づいてきたその子は、同じクラスの夏野向日葵。
これまで特段会話も交わしたことのない女の子だったけど、暗い私と違っていつもニコニコ眩しい笑顔を放っている太陽のような女の子で、私が苦手としていたクラスメイトでもある。
「その本って……まさか」
「え、あ!いや、これは、」
彼女の視線が私の手元でピタリと止まる。
それに気づいた私の心臓もピタリと止まる。
(終わった!!)
心のなかで叫びながらも、なんとか釈明を試みたが、彼女は目を見開いた静止画像のように固まり、再起動すると震える唇を動かして喋りだした。
「それって……同人誌だよね?しかもBLの」
……はいはい終わった終わった。きっとバカにされるのがオチなんだろうな――そんな風に半ば
「私もそのシリーズ好きなの!良かったらお友達にならない?」
「はい!?」
望んでもいなかった同好の士とやらが手に入った瞬間だった――
「ひまわりって本当に男性の絵が上手いよね。やっぱりプロを目指してるの?」
ベッドの上で横になりながら新刊に目を通していた私は、机に向かってペンを走らせるひまわりに疑問をぶつけてみた。
共通の趣味が判明すると、私はひまわりの家に入り浸って薄い本を眺める時間が増えていたけど、なんと彼女の母親が漫画家であることを知って大変驚いたものだ。
しかも父親はアシスタントで、大学生のお姉さんは漫画家を目指しているプロの卵。
当然BLにも理解があり、年齢指定さえなければ好きなように鑑賞していいという夢のような環境だったので、自然と私の溜まり場になるのも時間の問題だった。
「うん。今はお姉ちゃんのお手伝いをしながら、細かい技術を磨いてるところだよ」
作業を止めて振り向いたひまわりは、笑顔でそう答えた。
「へぇ……小学生なのにしっかりしてるんだね」
私は漫画は好きでも、それを職業にしたいかと問われたら、とてもじゃないけどイエスとは言えなかった。
あくまで趣味レベルの私から見たら、同世代なのにハッキリと夢を持っているひまわりが眩しくみえて、自分の劣等感がチリチリと焦げる臭いがした。
「でもさ、みなちゃんもイラストとか上手じゃん。そうだ!良かったら一緒に一冊の同人誌作らない?」
「ぶーーーっ!!」
同級生の自宅で飲んでいたコーラを盛大に吹き出してしまったではないか。
二人してシミにならないよう慌てて拭いていると、真剣な眼差しのひまわりがにじり寄ってきた。
「どう?二人でやってみない?実はお姉ちゃんに頼み込んで、コミケの販売ブースの一部を借りれたんだよ」
「ちょっとやめてよ。私なんて役に立たないに決まってるじゃん……」
「やってみないとわからないじゃん。ほら、私が手取り足取り教えるからさ」
「ええ、わかったわかった!やるから!」
以外と押しの強いひまわりの圧力に根負けした私は、その日から彼女のアシスタントになった。
小学生最後の夏休みを、ひまわりと共に一冊の同人誌作りに捧げた私は、直接指導の甲斐もありめきめきと腕をあげていった。
そして無事完成させた後、とうとうコミケ当日となったのだが、そこであの事件が起きてしまった――
「はじめまして。向日葵の姉の
「は、はい!」
「ははは。そんなに緊張しなくてもいいよ。そんに混まないブースだし、気楽に構えてな」
お姉さんは何度も参加しているようで、緊張感なんてこれっぽっちも感じさせなかったけど、初参加の私はそういうわけにもいかずに一人あたふたしていた。
本当に私達が書いた本が売れるのか――もし売れなかったらどうしよう――そんなネガティブなことばかり頭の中を駆け巡り、一層緊張感が増していく。
「大丈夫。二人で頑張って作ったんだもん。きっと気に入ってくれる人はいるはずだよ」
ひまわりがそっと震える両手を包んでくれた。すると不思議なことに震えが収まった。
「う、うん……ありがと。もう大丈夫……」
「今のシーン良かったなぁ。悪いけどもう一回やってくれない?」
「恥ずかしいから嫌です!!」
それから開場し、続々と人の波が押し寄せてくると、お姉さんの書いた本は午前中から順調に売れていった。
私は慣れない手つきで売り子の真似をしていたけど、隣で売っている私とひまわりの合作はなかなか売り上げが伸びなかった。
たまに手に取る客もいたけど、数ページパラパラ捲ると、興味を失ったように元の位置に戻して去っていく。その繰り返しばかりで、早速心が折れかけていた。
午後になってもお姉さんの本は順調に売れていき、予定よりも早い時間帯に完売する。
スロースターターだけど私達の本も少しずつ売れていき、販売目標には及ばないけれど一つ、また一つとこの手でお客さんに手渡すことが出来た。
「ねぇ、みなちゃん」
「なぁに?」
「また二人でさ、コミケに参加しようよ。この調子なら次はもっとお客さんに手にとって貰えるはずだから」
「そうかな?……うん。次も参加するよ」
そんな約束を交わしたとき――
「おい。見てみろよこのイラスト」
「ぶふっ。何ですかこのクオリティーの低さはww」
「「え?」」
私とひまわりが真剣に作った本を、目の前で馬鹿にする客が現れたのだ。
この本一冊を作り上げるのに、どれだけ一生懸命取り組んできたのか知らない人間が、書いた人間がどう思うかなんて考慮もしない言葉のナイフで全否定してくる。
「これお金を取っていいレベルじゃねぇよ。ゴミだゴミ!」
「ほんと出直してこいって感じですねぇwww厚顔無恥とはまさにこの作者のことですよ」
「そ、そんな……」
「オイ!このクソヤローども!いいか、作者の目の前でそういう態度を取ることが、どれだけ失礼にあたるか考えたことあるのかよ!マナー以前にテメェら人としてどうなんだ、ぁあ?」
聴くに堪えない言葉を吐く客に、遂にキレたお姉さんが割って入ってくれたことで、その客は気まずそうに姿を消したけど、その後も心の傷が消えることはなかった。
「たまにいるんだよ。ああやって無意味なイチャモンをつける客が」
「……やっぱり私なんかが手伝ったからイケないんだよ」
「そんなことないよ!みなちゃんがいてくれたらから一冊の本を作ることが出来たんだよ」
「……ちょっとお手洗いに行ってくる……」
「みなちゃん……」
二人の慰めが今は辛かった。
何を言われても、より痛みが増すばかりで、とにかくあの場所から離れたい気持ち一心で一人会場をさ迷い歩いていると――
「あはは……ほら……やっぱり駄目だったんだ」
会場の隅に設置されたゴミ箱に、私が手渡しで売った本が棄てられているのを見つけてしまった。
くしゃくしゃに丸められて棄てられている努力の結晶が――
それからの記憶はあまり残っていない。
確かなのは、泣きながら帰宅したということだけ。
あの日から、私は学校で話しかけてくるひまわりから距離を取るようになり、いつのまにか越えられない溝を作り上げてしまった。
そして、二度と彼女と一つの作品を作り上げることもなくなった。
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