第4話 思いやる気持ち
「あれ? じっちゃんは?」
「なんか今日は帰らないって。なんだか急用ができたとかで、明日帰るって電話してきたわよ」
「そうなんだ。珍しいね」
その日の夕食時、じっちゃんはいつも座る食卓の上座に姿を見せなかった。どこかに出掛けるにしても、日が落ちるまでには帰ってくるのが普通なのに、何の用だろうと気にかけているとテレビに写し出されていたニュースに眼が止まった。
「あらまぁ。弘法大師様が姿を消したですって。盗難でもあったのかしらねぇ……」
日本でもミイラ盗りってあるのかしら、と暢気にテレビを眺めている母さんと、そのニュースを一緒に観ていた海に顔を寄せて小声で尋ねた。
「あのニュースって……まさかお前のことなのか? 本当にあそこから抜け出してきたのかよ」
「まだ信じてなかったのかい? でもこれでわかっただろう。私は正真正銘の空海さ」
正直信じたくもないのだが、目の前でこうも有り得ないことが起きると、本当にそうなのではと思えてくるから不思議だ。
「ところで真魚君」
「ん? なんだよ」
浅漬けを口に放り込みながら返すと、幼い子に言い聞かせるように、優しく話しかけてきた。
「せっかくの母上殿の愛情こもった手料理を、そう無下にしてはならないよ」
「ああ、これ?」
今夜の夕食に出されたアジの開きを僕はいつものように手をつけていなかった。どうやらそれを咎めたらしい。
「そうなのよ。この子ったら、いつも嫌いな食べ物を残すから困ってるの。そんなんじゃ将来海ちゃんに迷惑かけちゃうわよ」
夕飯時のダイニングテーブルでは、好き嫌いについて女性陣二人組からの総口撃を一身に受け続けていた。だけど僕にも言い分はある。
「だから何度も言ってるけどね、頭がついている魚とか無理なんだって。なんか、こう眼と眼が合うと……己の奥深くに潜んでいる闇を見透かされているような気がして」
「何言ってるのよ。ほら、海ちゃんからも言ってあげてちょうだい」
う……卑怯だぞ母上殿!
「まったく、いいかい? 食事というのはね、小さきものから大きなものへ命を繋ぐ
「そ、そんなこと言ったって……嫌いな料理をわざわざ作る母さんが悪いんじゃないか」
そうだよ。残してほしくなかったら、敢えて作る必要ないじゃないか。そうすれば僕は嫌いなものを食べなくて済むし、母さんは残り物が無くなって万々歳。
正面に座る母さんは悲しそうな顔をしてるけど、そんな顔したって食べないったら食べてやらないんだからね。心の中で自己弁護と言い訳の正当化に勤しんでいると、突然隣から毛が逆立つような
「ねえ……本当にそんなこと思ってるのかい?」
迫力の正体は隣に座る海の視線だった。
その軽蔑したような視線は、僕という人間の底が知れるとでもいうように、それ以上は多くを語ろうとしなかった。気まずい空気のなか、海は黙々と箸を進める。先に食べ終えると自分の食器を洗ってリビングから去っていった。
結局、魚は食べられなかった。あの淀んだ眼が、まるで僕を馬鹿にするように見ていたような気がしてならなかったから。
自室のベッドに倒れこみ、適度に沈むマットレスに顔を埋めて眼を閉じると、今日一日あった出来事が本当は夢なのでは、と思えてくる。明日になればいつもの日常に戻っていたりして――。
そう期待しつつ、先程海がみせたあの寂しそうな表情が頭から離れなかった。もやもやする――なんで会ったばかりの押し掛け女房みたいなヤツにこんなに振り回されないといけないんだ。
正体不明の気持ち悪さを、キレイさっぱり洗い流そうと思い立ち、風呂場に向かうとその先で――。
『『あ』』
浴室のドアを開くと、湯上がりで頬を上気させた一糸纏わぬ姿の海が、僕の無防備な目に飛び込んできた。今まさに下着、ショーツを穿こうとしているわけで、僕の目線は泳ぎに泳いで裸体をくまなく見てしまったわけで、あ、これ通報ものじゃね? と理解したときにはタオルが顔面に飛んできたわけで、つまりは頬を真っ赤に染めて涙目の海に、あとで謝ろうと決意した十五の夜でした。
「先程は申し訳ありませんでした。平にご容赦くださいませ」
風呂からあがったあと、自室のベッドの占有権は今夜一晩は海に無条件で明け渡しすことにし、全面降伏――つまり土下座で許しを請うた。あれは僕の過失だったからしょうがない。
「私も現代の文化や礼儀に疎いとはいえ、流石にあれだけ婦女子の体をまじまじと見るのはおかしいと思うよ。つまり、真魚君には色々足りないということだね」
グフっ……心が痛い。
夕食時の視線といい、表情といい、ちょっとした言葉といい、どういうわけか海の些細な言動は、いとも容易く胸に刺さる。
「ねぇ真魚くん」
呼び掛ける声に顔を上げると、海はこちらをじっと見下ろしていた。穏やかに、海よりも深く澄んだ瞳で。そして語りだす。
「私が生れた時代はね、現代とは比べ物にならないほど平和とは無縁な時代だったんだよ。
「そう、みたいだね。学校で習ったよ」
「だからこそ、当たり前のように三食出てくる食事を、どうか粗末にはしないでほしいんだ。愛情がこもった料理ほど、当時の人達が欲したものはないんだから」
なんだろう……言ってることは、ご飯を残さずちゃんと食べなさいってシンプルなことなのに、下手な説法より胸に響く。
「なんでもそうだけれどさ。嫌いなものがあるのは仕方ないよ。だけど、それを克服することこそが成長に繋がるとは思わないかい?」
「うん……そうだね。母さんにはちゃんと謝るよ」
「そうしてもらえると嬉しいな」
やっと微笑んだ彼女を見て、今度は僕が顔を赤くしてしまった。
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