第3話 母親は見た
皆さま。おわかりになるだろうか。
実の母親に、真っ昼間から見知らぬ女性を押し倒して馬乗りになっている光景を凝視されるということが、どれ程の精神的ダメージを与えうるのかを。一瞬吐血しかけた。わりと
気持ち悪いほどの静寂が訪れ、僕の前頭葉は解決策を模索することすら放棄し、完全停止し、強制シャットダウンもといサーバーダウンを起こした。脳内の極小のシナプスが覚醒に至るまで、いったいどれだけの時間を要したことか。
たったの数秒が数時間まで引き伸ばされてしまったかのように、物理法則をまるで無視したようなこの状況を誰でもいいから助けてはもらえませんでしょうか、と感情が死んだ心の中で叫ぶ。
そんなこと考えてないで、さっさと彼女の上から移動すれば良いだけだというのに、四つん這いになった僕の手足はまるで
「ち、ち、ち、違うんだよ! 聞いてくれ!」
古今東西、言い訳として常に第一線を張ってきたであろう台詞を、とうとう僕もいう時が来ようとは思いもしなかった。感慨深かったが誰もこんなシチュエーションを望んではいない。僕達を見ていた母は、ハッと我に返ると顔を赤らめて、途端に視線を反らした。
そりゃそうだよな。息子のこんな醜態を眼にしたら普通は、
「ちゃんと避妊はしなさいよ?」
「なんでだよ!」
普通ではなかった。親としてこの状況でそれを言うか? いや、避妊は大事だよ。それは男として取るべき責任だし、それを否定するほど僕は落ちぶれていないさ。だけどもこの状況をしげしげと眺めた後に出てくる第一声がそれだとしたら、息子としてどうかと思う。正気を疑う。
ていうか、そもそもしてないからね? そんな関係じゃないからね? だから避妊しろと言う発言には否認します。
ずっと僕の下で組伏せられていた彼女は、器用に両手の間をすり抜ると、律儀に母さんの前で正座をして頭を下げる。
「これはこれは、真魚君の母上殿でらっしゃいましたか。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、
ナニイッテルンデスカ。空乃海さん。勝手に名前でっち上げて何を企んでるおつもりですか。三つ指をついて深々と頭を下げる少女に、何をどう勘違いしたのか、母さんも同じように改まって正座をした。
「あらあらあら。御丁寧にありがとうございます。えっと、うちの真魚とは付き合ってるのですか?(性的な意味で)」
真剣な眼で問う。僕が初めて目にする真贋を見定めるような視線で。これって顔合わせとかじゃないよね?
「はい。末永く付き合っていきたいと考えております(夢を叶えてあげる意味で)」
負けじと答える彼女も、至って真剣な眼だった。ていうか当事者を置いて話を進めないでほしいんだけど。そんで会話が噛み合ってるような噛み合ってないような、深くは考えたくない。
「見たところまだお若いのに……でも、その覚悟に嘘偽りはないのかしら」
「ふ、お戯れを。覚悟なら最初からとうにできております。真魚君には、これからこの身を捧げるつもりでございます」
「ちょ、ちょっと! そんな誤解を生むようなことを実の親の前で言わないでよ!」
さっきから黙って聞いてりゃ、ワンフレーズが色々重いんだよ。わざと言ってるとしか思えない悪意ある言葉のチョイスに僕は戦慄を覚えるよ。
「……そんな」
ほら見ろ。母さんも引いてるじゃないか。うちの家庭を壊すために高野山から来たのか君は。
「真魚……あんた知らない間に大人になっていたのね。母さん嬉しいわ。こんなお嫁さんなら私は大歓迎よ」
見事に懐柔されてしまった。なんでやねんとツっこむ余力が残っていないほど、精神は磨耗している。所詮僕はツっこみ役の器ではないのだ。母さんは出てもいない涙を拭いている。もういいや……お茶でも飲もう。
女子二人集まれば会話の花が咲くようで、僕が立ち入る隙がないのを確認すると、いそいそとお茶を淹れに台所へ戻った。
「はぁ……未だに何が起きたのか理解できない」
高野山の奥の院から、僕の夢を叶えるためにわざわざ東京までやってきたという美少女が、実は空海その人で実の母親に絶大な勘違いをされた上に、将来の妻として了承されてしまった件を僕はどう受け入れれば良いのだろうか。
ねぇ神様仏様、いるなら教えてくださいよ。
「真魚君いるかい?」
「わっ、って熱っちい!」
茶碗に淹れたてのお茶を注いでいると、突然背後から声を掛けられたことに驚いて手元が狂った。溢れた熱々のお茶が下半身を襲う。ヤバい! 早く脱がなければ!
「おっと、大丈夫かい?早く脱がないと火傷しちゃうね」
そう言って、彼女は僕のパンツを脱がそうと手を掛け――。
「いやいや! さすがにそれはおかしい! どう見たって実家の台所でパンツを脱がそうとするのはマニアックすぎる!」
「何を言ってるんだい? それより早く脱いで脱いで」
カチャカチャと、ベルトを外しにかかる。彼女どころか、幼馴染みを除けばろくに女子と接したことがない陰キャの僕が、今まさに大人の階段を一足跳びどころかエレベーターで上ろうとしていた。無駄に顔が良いものだから、つい興奮してしまう。
「ん?なんだいコレ」
「あ、それは――」
ていうかこんなところを母さんに見られたりでもしたら色々終わってしまう――ハッ!
視界の隅で、一部始終を「あらあらまあまあ」と隠れ見ていた母さんと眼があった。そして、ナニを握ったのか理解した彼女は固まっていた。その瞬間、僕の口から魂が抜けていったような、そんな気がした。色々終わった気がする。
「そういうのは夜にしなさいね」
「ちがわい!!」
「あのね、海ちゃん泊まる宿がないっていうから、今日からうちで暮らすことになったから」
「はぁ!?いつのまにそんなこと決めたんだよ!」
どうやら僕がいないところで話はまとまってしまったらしい。じゃあ百歩譲って一つ屋根の下で暮らすことを許すとして、部屋はどうするんだと尋ねたら、
「そんなのは真魚の部屋で十分でしょ」
検討の余地もなく結審が下った。
まだ少し顔を赤らめている空海改め、空乃海。
「これからよろしく頼むね。真魚君」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます