第2話 戸惑いと諦め
まずは落ち着こう。玉露でも飲んで。素数でも数えて。 はぁ……やっぱ高級茶葉なだけあって、香りも甘味も渋みも控えめに言って最アンド高に段違いだなぁ。これで獅子屋の羊羮でもあれば最高なんだけど。はぁ……茶が旨い。
現実逃避をしていると、そんな僕を現実に引き戻す声が聴こえた。
「しかし驚いたよ。私が生きていた頃とはまったくの別世界になってるんだからね」
「はぁ……さいですか」
僕はそんなあなたに驚かされっぱなしですよ。なんで空海が女の子なんだよ。そんな話聞いたことなないぞ。
「あ、そうそう。これ道中で買ってきた
「アハハ。オモシローイ」
ナニが面白いのだろう。
せっかく潤したはずの喉が既に渇きつつある。渇ききって、喉が張り付いて、乾いた笑いしかでてこない。なんだこの美少女。なかにオッサンでも入ってるのか?
ていうか、さっきから畏れ多くも空海の名を語っているけれど、どういうつもりなんだ。いくら僕が寺を継ぎたくないからって、さすがに真言宗の寺の一族として、かの有名な空海の経歴はさすがに知っているぞ。
日本で真言密教を広めた実在する人物で、日本の宗教史のなかで不動明王やお地蔵さまのようにお大師様として民間信仰の対称となったのは、空海ただ一人だけなのだから。その生きざまも様々な実績を残したことで有名な偉人だというのに、だというのに! その空海が実は美少女で、しかも思春期真っ盛りの男子中学生の前に姿を現すとかナニコレ。
僕ってこんな白昼夢見るほどやばいやつなのか……。
「さっきから何をぶつぶつ呟いてるんだい? この最中美味しいよ。ほら、あーん」
あ、あーん!? そんなマンガの中でしか見たことがないシチュを堪能できるというのか! ――ごくり。渇いていた喉が唾液で潤う。そ、そうだよな。差し出されたものを断っちゃダメだよな……。
意を決して、彼女が差し出した最中を口にしようとしたそのとき――。
「はい。あげた!」
そう言って、最中を宙に上げたのだ。あの古典的な
ちゅんちゅん。
手入れの行き届いた庭園から、一羽の雀が雲一つない青空に向かって飛んでいく。十五歳の春、僕は自らの額に青筋が浮かび上がる音を初めて聞いた。
「食べないの?」
「いいですよもう!!」
不意に見せた小首をかしげる可愛らしい仕草に、再び僕の心臓は高鳴る。チョロすぎる。先程から僕は、突然現れた美少女に玩具のように弄ばれている。手の平の上で、コロコロと。
心拍数が落ち着く頃合いを見計らってから、再度尋ねた。
「ごめんなさい……ちょっと現状を理解できなくて……えっと、本当に本物の空海さんなんですか?」
「もちろん。私が空海だよ」
「あの弘法大師の?」
「いかにも」
「高野山の奥の院で今も生きてると噂の?」
「あはは。そんな訳無いじゃん。命あるものは皆等しく死んでいくんだよ」
「ていうか空海ってお爺さんじゃなかったんですか?」
「失敬だな。この通り私はピチピチの女の子だよ。あ、ついこの前まではカサカサの
なんですかそれ。即身仏ジョークですか? けらけら笑う彼女が言うには、高野山の奥の院で
そして僕の煩悩の塊のような願いを叶えるために、高野山の奥深くくんだりから、ここまで辿り着いたんだとか。
つらつらと語るその様は、とても嘘をついているようには見えなかった。人を見る眼が僕にあるとは思えないけれど、彼女はどうしようもない冗談は言っても、人を欺くような嘘は言わないような、そんな気がした。
「それで水を得た乾燥昆布の如く蘇ったはいいものの、君が住んでいる街はとても遠いことがわかった。そして私は現代の通貨を持っていない。さて困った。どうやって真魚君のもとに行こうかと考えたとき、ちょうど金剛峯寺に来た参拝客が落としていく賽銭が回収される前だったから、有効に使おうと拝借してきた」
拝借て。それを世の中では賽銭ドロというのだが。もしかしたら今夜にでもニュースで取り沙汰されるのではないだろうな。
美少女が賽銭箱を漁るとか見たくない。そんな指摘には耳を貸さずに、さらに驚くべき事を言ってのけた。
「それで申し訳ないんだけど、宿無しの私をどうか泊めてはもらえないかな」
「え? 女の子をうちに?」
外見こそ美少女の女の子が、にじり寄ってきて僕の両手を掴んで頼み込んできた。
うわ、眼がめっちゃ綺麗だ――女の子ってこんな良い匂いするの? なんだ……この吸い込まれそうな美しさは。
「実は……道中で見かけた困っている方達に、拝借してきた賽銭を全て譲ってしまったんだ。真魚君の夢を叶えるとかほざいた手前、恥ずかしいのだが今夜泊まる宿すら見つけられない私をどうか助けてはもらえないだろうか」
「お、女の子を泊めるなんて……それにまだ君の事をよく知らないし」
というか、冷静に考えるとこんな場面を誰かに見られたらヤバくないか? お祖父ちゃんに見つかるのも不味いけど、母さんに見つかろうものなら――あ、これフラグってやつだ。
「真魚ー。いるのー?」
か、母さんだ! ヤバイ、どうしよう……こんなとこを見られでもしたら、一生涯イジリ倒されてしまう事間違いなしだぞ。
「どうしたんだい? 尋常じゃない汗をかいているみたいだけど」
主にあなたのせいなんですが、と言ってる余裕もない僕は立ち上がっておろおろするしかなかった。
「どうしたというのだ。あ、もしかして真魚の母上殿か。それなら挨拶を済ませないとな」
「お願いだから隠れて、あっ――」
その時、畳の縁に爪先が引っ掛かって、僕はバランスを崩した。地球の重力に負けて姿勢を崩してしまった。ゆっくり倒れて、目の前にいた彼女を押し倒すように、二人は重なった。
「ちょっといるなら返事くらい、しなさい……よ?」
ああ……神も仏もあったもんじゃないな。
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