第285話 彼女の涙 2


「えっと、天海さん、ごめん。俺――」


 見てはいけないものを見てしまったような気がして、俺は咄嗟に天海さんから視線を外すようにして顔をあさっての方向へと向けた。


 俺が声を掛けてしまったとはいえ、泣き顔を見るのも見られるのも、個人的にはあまり良くないことだろう。


 しかし、そんな俺の様子を見た天海さんは、努めて冷静に涙を制服の袖でグイっと拭って微笑んだ。


「ううん、大丈夫。気にしないで。お母さんにお説教されて、ちょっとムキになっちゃっただけだから。……もしかして、わざわざ探しに来てくれたの?」


「うん。絵里さんが困ってたから、さすがにね。新田さんと一緒に」


「そっか。後十分ぐらいここで頭冷やしたら戻ろっかなって思ったけど、皆に心配かけちゃったね……へへ、こういうとこ、私っていっつもダメだなあ……とにかく自分の感情ばっかりで、後先考えないで……」


 自嘲するよう笑って、天海さんは再びその場へとしゃがみ込んだ。


 絵里さんのもとにはまだ帰りたくないようだが、俺のことを拒絶している様子もない。


 少しぐらいなら、話を聞いてもいいのだろうか。


 ひとまず新田さんと海のスマホに天海さんが見つかったことだけ連絡して、俺は天海さんの側のベンチへゆっくりと腰かける。


「真樹君、中間テストの結果、どうだった?」


「え――」


 どう話を切り出すべきか頭の中で考えていると、さきに天海さんのほうから聞いてきてくれる。天海さんも吐き出したいことがあるのか……それなら、俺としては聞いてあげるしかない。


「俺の方は問題なかったよ。クラスメイトともっと仲良くしたら、って小言は言われちゃったけど」


「そうなの? 真樹君はそっちもちゃんと頑張ってると思うけどなあ……私とか渚ちゃんとは話してるし」


「まあ、そうなんだけど、そういうことじゃないというか……俺のことより、そっちのほうはどうだったの? 結果、先生からちゃんと聞いたんでしょ?」


「うぐ……真樹君、すばり聞いてくるね」


「そりゃ、今回天海さんの勉強を中心に教えたのは俺だし。一応、俺の力が役に立ったかどうかは、今後のために確認しておかないと」


 テストの結果に対して責任を負うのは天海さん本人ではあるけれど、問題の解き方や出題範囲の予想などを伝え、そこだけに集中するよう教えた俺にも、その一端はある。


 もし点数が前回よりも下がってしまってそれが原因でこうなってしまったのだとしたら、むしろ俺のほうこそ謝らなければならないだろう。


「そんなに知りたいって言うなら……はいこれ、先生からもらった中間テストの成績表」


「あ、どうも」


 ポケットの中で少しくしゃくしゃになっていた紙を受け取り、見間違いなどないよう、中身をしっかりと確認する。


「! これは――」


 先生の筆跡で記された各教科の点数、および順位を見て、俺は驚く。


 結論から言うと、天海さんの点数は、前回の1学期次の中間テストの時よりも、随分と点数と順位が伸びている。一教科も赤点がないのは当然として、教科によってはクラス平均とほぼ同等の数字すら取れている。


 ……この前の勉強会で、俺が教えた文系教科だ。


「えっと、天海さん、これって何気にすごいことじゃ……自己記録更新してるんじゃない?」


「うん、実は何気に。真樹君に教えたもらったところはもちろんだけど、後はお父さんに習ったところからもばっちりテストに出たのが大きくて。……びっくりした?」


「うん。正直、かなり。今の今まで、赤点だらけの地獄絵図を想像してたから」


「あ、真樹君ってば、ひどいんだ~。最近調子が悪かったのは認めるけど、悪いなりに私だってちゃんと頑張ってるんですからね。……今回はさすがにヤマが当たりすぎた感はありますケド……」


 ヤマが当たったとはいえ、結果は結果だ。最初は偶然でも、それをきっかけに気を良くして、勉強へのモチベーションが上がり、そしてさらに成績を伸ばして――という好循環だって期待できる。


 特に、調子づくと勢いの止まらない天海さんなら、なおのことだ。


「あれ? でも、それならどうしてこんな場所でジメジメしてるの? 結果が芳しくないのならともかく、天海さん的には十分な結果だったわけだし」


 絵里さんや担任の先生も、元の天海さんの成績を知っていれば、喜びはすれ、怒るようなことはないはずだが。


 ……ということは、成績以外の何か別の理由があるのか。


 今回の三者面談では、校内での生活・授業態度やテストの成績、そして後は今後の進路についての希望などについて話すのが主になっているはずだから……生活態度にそれほど問題がないとすると、残りは一つしかない。


「……もしかして、進路のことで、何かあった……とか?」


 俺の問いに、天海さんは無言でこくりと頷き、認める。


 そして、面談の際に持ち出したのだろうか、同じくポケットの中に忍ばせていたと思しき、進路調査票の紙をこちらに見せてきた。


 現時点での天海さんの希望は進学。それは以前からわかっていることだ。


 何度も消しゴムで消した跡が残る第一志望校の欄に、今回の答えが記されていた。


「……天海さんも、K大学にしたんだ。志望校」


「うん。やっぱり、もう少しだけ一緒にいたくて。ま……えっと、海と真樹君の二人とは特に」


「……ま?」


「っ……えっと、き、気にしないで。ちょっと噛んじゃっただけだから、うん」


「そう? なら、いいけど」


 志望校をどこにするかは天海さんの自由ではあるけれど、大学名を見た瞬間、随分思い切ったな、とは思った。


 天海さんのことだから、色々と悩んだ末に書いたのだろうと思う。具体的な進学先が決まっていないからといって、天海さんは冗談やシャレでそんなことを書くような人ではないことは、皆わかっている。


 絵里さんや、そしておそらくは担任の先生も、天海さんの決断には驚いたに違いない。


 そして、それについて『考え直せ』と説得を試みようとする気持ちも。


「現実をちゃんと見ろ、ってお母さんと先生の二人には言われちゃった。まあ、普通に考えればそうだよね。まず大学に現役で合格できるかも怪しいのに、ちょっと点数が上がったからって、いきなり目標を最高レベルに設定するだなんて……何言ってるのアナタはって、私がお母さんの立場でも、きっとそう言うんだと思う」


「……それでも、天海さんは本気なんでしょ?」


「うん」


 そう、天海さんはしっかりと頷いてみせた。


 そして、真剣だからこそ、母親である絵里さんの言葉に対して反発してしまったわけだ。


「限りなく無理に近いことだっていうのは、わかってる。お母さんからも、無理せず自分のやりたいことにあった進学先を選んでくれれば、それで十分だから……って。それで『どうしてお母さんはわかってくれないの』『私は真剣なのに』って。本当はそんなに怒るつもりなかったのに、面談でずっと責められてたから、ついかっとなっちゃって」


「で、今こうして一人落ち込んでた……と」


「うん。……私、何回同じこと繰り返せば気が済むんだろ。私ももっと、海とか真樹君、あとはニナちみたいに、ぐっとこらえて冷静になれればいいのに」


 1年次の文化祭における海とのすれ違いから始まり、クラスマッチでの荒江さんとのいざこざや、体育祭での一件と、それから今現在も続いている新田さんとの喧嘩などでもわかる通り、天海さんは反射的に思ったことを口にしてしまう傾向が強い。


 俺や海のようにイライラやもやもやをため込まないし、吐き出してしまえば意外にすっきりとするのは利点ではあるだろうが、場合によっては関係がこじれたり、いらぬ衝突やトラブルの種にもなってしまう。


 今までは周囲の人たちの助けだったり、運がよかっただけで、これ以降も問題がないとは限らない。卒業してしまえば、今の五人だって離れ離れになってしまう。天海さんのことを助けてあげることは難しくなるはずだ。


「ねえ真樹君、私、このままじゃきっとダメだよね? もっと皆のことを見習って、嫌なことでも我慢して向き合って……そうやって心を入れ替えて変わらないと、二人と同じ大学に行くなんて夢のまた夢みたいな目標、叶いっこなんてないし」


「そうかもね。天海さんの今の成績だと、これから受験まで、寝る間も惜しんで机にかじりついて、それでようやく勝負になるかもって感じだろうから」


 勉強時間の長さで試験の合否が決まるわけではないけれど、やはり今までの積み重ねを考えると、例えば海と天海さんとでは雲泥の差がある。


 なので、『普通に』考えれば、天海さんの言うことは正しいのだけれど――。


 ……でも。


「――でも、俺は別に、天海さんはそのままでもいいと思う」


「……え?」


 キョトンとした顔で、天海さんが俺の顔を見る。彼女としては、俺からもはっきりと厳しく叱って欲しかったのかもしれないが……残念ながら、そのご期待に添えることはできない。


 つい逆張りしてあまのじゃくなことを未だに言ってしまうのが、俺の悪い癖だ。


「というか、正直に言って、普通にやってもしょうがないと俺は思うよ。今までサボってた分を取り戻すだけでも時間が足りないのに、そこからK大を受験する人と肩を並べるだけの学力をつけるなんて、それこそ何を言ってんだって感じだよ。共通一次っていう最初の壁だってあるし」


「あの、えっと……ま、真樹君?」


「あ……ご、ごめん。言いたいことが頭に浮かびすぎて、つい早口に」


 まくしたてるかのように喋り、逆に天海さんに心配されてしまうとはなんとも情けない。


 ……でも、これがきっと俺らしい答えになるはず。


「天海さんが今からK大を本気で目指すっていうんなら、一か八か、偶然とかワンチャンとか、そういうのに全部縋るしかないと思う。時間が足りないんなら、最初から全教科ヤマを張って、そこだけ集中して勉強するとか、自分のパフォーマンスが最大限発揮できるような勉強法を見つけるとか……そういうレベルだよ、多分、これは」


「それはつまり……『普通に』『普通のこと』をやってたらダメだよ、って真樹君は言いたい、みたいな?」


「あ~……はい、まさにそんな感じです」


 基礎学力を上げるだけなら、とにかく復習・予習を欠かさず、毎日の積み重ねで次第に力はついていくのだろうが、その他の要素が色々と絡んでくるのが、一発勝負の入学試験である。当日の体調、精神状態……そんな些細なことでも合否に影響することを、受験を経験した俺たちは知っている。


 特に、目の前にいる天海さんは、その一発勝負の恩恵を受けた人であることを忘れてはいけない。ウチの高校だって、県内ではそれなりに偏差値は高いのだ。行こうと思っても、簡単に合格できるほど甘いわけでもない。


 ダメ元で受けて見たけど合格しました――実例はそう多くないが、確実に、『普通』ではない『イレギュラー』は存在している。


「確かに、絵里さんとか八木沢先生の言うことはわかるよ。だって、どう考えても分の悪い賭けだし。……でも、それでも天海さんが『受けたい』って、俺や海と一緒の大学に通いたいって言うのなら、俺はそれで構わないって思ってる」


「それで、いいのかな? 将来の夢とか、そういうの全然わからなくて、とりあえず友達と一緒に大学に行きたいからって、そんな不純な理由で他の人のことを蹴落としてまで頑張ろうだなんて、失礼じゃない?」


「どうかな。失礼かどうかはわからないけど、俺は海と一緒に大学に行きたいからって理由でK大を志望したし、そのためにこれからも頑張るつもりだよ。そんな不純な動機で進学したいってヤツに負けるんなら、それこそ頑張りが足りなかっただけの話で」


 どれだけ努力しても、結果が伴わなければ『頑張りが足らなかった』と断じられてしまいがちなのが大人の社会の厳しいところだろう。


 今までの過程など関係なく、その時々で力を発揮できる人が報われていってしまうの、個人的には寂しいことだと思うけれど。


 でも、だからこそ、天海さんにも勝機はあるわけで。


「……後はまあ、天海さんが受かろうが落ちようが、俺にはあまり関係がないっていうのもあるけどね。海と一緒に合格できれば、隣に天海さんがいてもいなくても俺としてはそう変わらないというか……天海さんの前でものすごく失礼なこと言っちゃうけど」


「うわ、すごい他人事。ふふっ、でも、いいよ別に。真樹君がそういう人だってことは、ずっと前から知ってることだし。……そんなふうにあまのじゃくなこと言って、あんまり真剣に受け止めさせなように、って。それが真樹君なりの優しさなの、私、ちゃんと知ってるから」


「いや、それはさすがに買い被りすぎじゃ……」


「ううん。そんなことない。真樹君は、誰よりも優しくて、お人よしで――そして、とびっきりの――」


 ――おバカさんだ。


「……え?」


 おバカさん――そう呟いた後、天海さんが思いがけない行動に出た。


「あ、天海、さん? その……」


「ばか。……まきくんの、ばか」


 突然のことで反応が遅れた俺は、そのまま彼女のことを思わず受け止めてしまう。


 西日を受けて煌めく金色の髪と甘い匂い、そして、彼女がもつ暖かさと柔らかさを直に感じる距離に、天海さんがいる。


 なぜこんなことになっているのだろう。


 俺は、天海さんに抱きしめられていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る