第229話 天海さんの苦労
先日の登校日以来、久しぶりに校内へと入ると、すでに準備が始まっているのか、体操服姿に着替えた生徒たちとすれ違う。
通常授業がないこともあり、HRなどはないものの、『青組集合時間 9:00からグラウンドにて』と、八木沢先生の筆跡で黒板に記されていた。ついでに大まかな集合場所の地図も。
……グラウンドと思しき四角の図と、その右隅のほうに〇で『この辺』はさすがにアバウトすぎるが、まあ、組ごとに鉢巻きやタオルの色が統一されているので、青でまとまっている集団のところへ行けばいいか。
「じゃあ、私は更衣室で着替えてくるから体育館の入口で待ってて。一緒にグラウンド行こ」
「ん。今回は同じ組だしな」
「そういうこと」
体育館の更衣室で着替えるという海といったん別れて、俺は教室のほうで手早く体操服に着替える。本番時はともかく、練習時は動きやすいものであればなんでもOKなので、中にはサッカーチームのレプリカTシャツだったり、有名なスポーツブランドの上下を着ている人もいるが、俺は普通に学校指定の半袖半ズボンである。
一人一本ずつ配布される青色の鉢巻きと、家で用意した青色のタオルを首に巻いて教室から出ようとすると、ちょうど入れ違いで教室に来た女子とぶつかりそうになった。
「――っと、ごめんなさい」
「っ……んだよびっくりしたなもう……って、誰かと思ったら前原か。相変わらず朝から冴えない顔してんね」
「……そっちこそ機嫌悪そうだね、荒江さん」
「ほっとけ」
比較的校則の緩いうちの高校に置いて、それでもアウトな明るい髪色で登校してきたのは荒江さんだった。いつもはいつもつるんでいる友達と数人で来ることがほとんどだが、今日は珍しく一人で、さらに言えば、どこかで体でも動かしてきたのか、制服もかなり着崩しているし、汗もかいている。
「……んだよ、私の顔になんかついてる?」
「いや別に……これから練習なのに、なんか疲れてそうな顔してたから」
「それはちょっとアイツら……二取と北条の朝練に付き合ってたんだよ。なに、なんか文句あんの?」
「いや、別に。ただ、今日から体育祭の練習なのに、頑張るなと思って……」
「それは……まあ、アイツらがどうしても言うから、し――」
――おっ、はよう! 渚ちゃん! 久しぶりっ!
仕方なく――と荒江さんが言おうとしたところで、後ろからがばりと彼女に抱き着いてくる人影が。
「あ、天海っ……ああもう、ウザい。暑苦しいから抱き着いてくんなって、いつも言ってんだろ」
「えへへ、ごめんね渚ちゃん。つい、久しぶりに会えて嬉しくなっちゃって。あと、真樹君もおはよう」
「おはよう、天海さん」
「うんっ」
金色の髪をふわりとなびかせて、天海さんがいつもの調子でニコリと俺へと笑いかける。彼女のほうはすでに着替え終わっているようで、学校指定の体操服のそでをまくり上げてノースリーブのようにしている。頭には青色の鉢巻き。
あらためて、どんな格好でも絵になる女の子だ。当然、彼女のことを遠巻きからちらりと見ている男子生徒たちもちらほらと確認できる。
「よかったね、渚ちゃん。練習初日から遅刻せずに済んで。もしやと思って、私のほうから電話しておいてよかったよ」
「っ……ばっ、おまっ、だから余計なこと言うなって」
「……ん?」
ばつの悪そうな顔を浮かべた荒江さんを見て、俺はピンとくる。
先程の話の中で、荒江さんが二取さんと北条さんの朝練に付き合っていたのはおそらく本当だろう。二取さんと北条さんの通う女子校はまだ夏休み中なので、練習の前のウォーミングアップがてらまた勝負でもしていたのだ。
……で、それも終わったので自宅に帰ろうとしたところで、天海さんから電話がかかってきて、慌てて制服に着替えて学校に来た、と。
今日から体育祭の練習が始まることを忘れていて。
誰が見ても注意されるであろう明るい髪色と、朝のウォーミングアップにしてはやけに疲れた様子だった理由も、それでだいたいはつく。
「……んだよ。別にいいだろ。そもそも、夏休み中なのに練習おっぱじめる奴らのほうがおかしいんだよ」
「……別に俺は何も言ってないけど」
「っ……ああもう、いいからどけ。私もさっさと着替えなきゃなんだから」
恥ずかしさを隠すようにしかめっ面を見せた荒江さんは、自分の席に置いてあった配布の鉢巻きをひっつかんで、さっさと体育館の更衣室へ向かう。
途中、相当焦っているのか、カバンの中から制汗スプレー等、その他化粧品類がポロポロとこぼれて拾っているのを見るに、意外とおっちょこちょいなところがあるのかもしれない。
「ふふっ、渚ちゃんってたまに可愛いところあるよね。ところで真樹君、海は? もう先に行っちゃった?」
「天海さんがここに来るちょっと前に。体育館で合流するけど、天海さんはどうする?」
「ニナちも多分そっちにいるだろうし……じゃあ、私も一緒に行こうかな。バッグボード班の皆とは、先に顔合わせ終わったし」
今日の朝、俺たちが天海さんと一緒に登校しなかったのはそれが理由だった。
一般生徒たちは今日からだが、中村さんを始めとした生徒会メンバーや、応援団、バッグボード班は先日の登校日以降、少し早めに活動を開始しており、今日も朝早くから練習や制作に精を出している。
ウチの体育祭は隔年開催ゆえ、俺たちのような2年生にとっては最初で最後の体育祭なので、中には当然、張り切って頑張っている人もいる。今日はまだ顔を合わせていないが、望だって、おそらくそちら側の人間のはずだ。
「お待たせ。行こっ、真樹君」
「うん」
荷物を取りに来たという天海さんのことを待ってから、二人で教室を出る。
特に話すこともないので、ぼーっと中庭のほうを眺めながら歩いていると、隣から天海さんがくすくすと笑う声が聞こえてきた。
「? なに」
「あっ、ごめんごめん。真樹君、1年生の時と較べると、随分のんびりとした顔と雰囲気になったな~って思って」
「ああ……前の俺って、ぼっちのくせに人の目にはやたら敏感だったからね。変に自意識過剰してたというか」
それは学校でなくても、道行く見知らぬ他人に対してもそうだった。傍から見れば自分が周りと微妙に雰囲気が違うことは自覚していたから、俺のことを見て、笑ったりバカにしてやしないかと陰でびくびくして、なるべく目立たないようにしていた。
しかし、海と仲良くなり、そのつながりで天海さんや新田さん、望など、クラスでも目立つグループの中にほぼ強制的に取り込まれて、その中で長く過ごした結果、人の注目を浴びることに対して耐性がついてきた。
学年内でもトップクラスに入る容姿の海と、そのさらに上をいく人気の天海さん――そんな彼女たちと一緒にいれば、そうでもしないとやっていられないからだ。
「私は今の真樹君、すごくいいなって思うよ。真樹君って、海以外の女の子にはフラットに接してくれるから、私も気を使わなくていいし」
「……天海さんも、やっぱり対人関係には苦労してるんだね」
「そりゃそうだよ~。海とかニナち、あと渚ちゃんとかは大丈夫なんだけど、それ以外で話す時は露骨に様子がおかしくなっちゃうし。何を喋ったら、どうしたら変な空気にならないかなって、私なりにだけど頑張ってる」
天海さんは優しいのではっきりと言及はしなかったものの、特に男子にその傾向は強いのだろうと思う。何かの機会で天海さんに話しかけられて、そのたびにテンパっている男子の姿は、ウチのクラスでも度々見られている光景だ。
最近は普通に話すようになった望ですら、天海さんと二人きりだと露骨に緊張した様子を見せる。
校内限定とはいえ、誰もが認める学年のアイドルに良く思われたい、もしくは嫌われて余計な敵を作りたくない――そういう意味で身構えてしまう気持ちは、俺も同じだったからわかる。
だが、天海さんの立場で考えてみると、ちょっとした雑談や業務連絡ですらそのような調子だと、ちょっと嫌になるかもしれない。
天海さんとしては、ただ普通に、クラスメイトしてフラットな立場で話したいと思っているだけなのに。
「……だから、せめて真樹君だけは今のままでいて欲しいな~って。大切な
「友達……うん、そうだね。天海さんは友達だ」
初めのうちは『彼女の親友』で『親友の彼氏』という、あくまで『友達の友達』的な立ち位置からスタートした俺と天海さんだが、これまでにあった様々な出来事を経て、今ではもう普通の『友達』となっている。
他の人にとっては学年のアイドル的存在であっても、俺たちいつもの5人の立ち位置で言えば、勉強嫌いで、寝坊の常習犯で、私生活もそれなりにだらしない、どこにでもいる普通の女子高生――それが俺にとっての天海夕という女の子だ。
「まあ、俺がそう言えるのも、結局は海のおかげなんだけど……海がいるから、余計な気を回す必要もないし」
「ふふ、だね。真樹君にとっての絶対的彼女だもんね、うちの親友は」
望などはまだ『友達』から『恋人』への可能性を諦めていないので、それをゼロにしたくないと身構えがちではあるものの、俺の『恋人』はすでに海で決定しているし、変更するつもりもないので、天海さんとの関係をいちいち気にする必要もない。
だからこそ、天海さんも、俺に対してフランクに接することができているのだと思う。もちろん、そのせいで先日のプールでは海に嫌な思いをさせてしまったので、そこは常に気を配らなければならないが。
「えへへ、ごめんね。すがすがしいぐらいに晴れた日なのに、辛気臭い話しちゃって……でも、こっそり吐き出せてすっきりしたかも。ありがとね、真樹君」
「そう? なら、よかったけど」
「うん。よかった」
そう言ってにっこりと笑う天海さんの顔は、窓から差し込む朝日を浴びて煌めく金の髪とのコントラストも相まって綺麗で素敵だとは思うけれど、なんだか俺には眩しすぎる気がした。
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