物語り3
別に夫が嫌いなわけではない。世間から見たら多分申し分のない良い夫に恵まれていると思う。お金持ちにはなれないけど安定した収入があり、浮気、ギャンブル、もちろん暴力とも無縁な夫。
若い時から無口で不器用な夫だった。しかし若い時はそれに惹かれて結婚を決めた、地に足がついていて安心感があったからだ。
二人の娘にも恵まれ、子供たちが小さい時は休日になると家族で出かけたり、習い事などを相談したり、幼稚園や学校の行事に参加したりと夫婦二人で共有できるイベントや話題もあったけど、その娘たちももう大きくなり、上の娘は高校3年生、下の娘も高校1年生になった。子供の手が離れたらお互い気を遣ってからかどうかわからないけど少しずつ自分の心情を吐露することも遠慮するようになり、今じゃ、お互い空気のような存在だというべきかどうか?空気がなければ人は生きていけないからそれはそれで良いけど、でも空気のような存在という言葉はマンネリ、倦怠期夫婦の類似語のような気もしてあんまり嬉しい言葉だとは思えない。しかし一方では一生べったりな夫婦がいるわけないし、これと言って激しい喧嘩もないし、取り立てて大きな不満もないから家族の平穏無事が一番ありがたいと納得もしていた。
そんな中、今年の4月から夫は単身赴任となり、名古屋の社員住宅で一人暮らしを始めた。夫が家にいる時、特段に窮屈な思いをしたわけでもないが、女三人の生活は想像していたより楽で楽しくて自由だ。この半年真知子は夫のいない時の方が気が休まる。自分と娘たちのために一生懸命働いてくれていることを頭でわかっているだけに真知子は夫に少しだけ罪悪感を感じていた。
一人の時間が増えたので5月の連休明けから真知子はパート先の知り合いと一緒に月に一度近所にある料理教室に通い始めた。
そして今月のメニューは具たくさんラー油と麻婆豆腐だった。テーブルを囲んで試食をしている時講師が「具たくさんラー油は日持ちしますので遠くに住んでらっしゃるご家族や友人、親戚などに送る方々もいらっしゃいますよ〜とても喜ばれるそうですので、宜しければ皆さんもどなたかに送ってみてはいかがですか?」とお茶目な笑顔で勧めた。
「私東京にいる息子に送ります。息子も辛いのが大好きで。」真知子とほぼ同年代のスレンダー美人が嬉しそうに話したら「私実家に送って見ようかな?」まだ社会人3年目と言う女の子がはにかんだような笑顔で言った。「私はちょうどこの前ママ友に旅行のお土産頂いたので、そのお礼で渡して見ます。」パート先が一緒の由美さんだ。楽しい会話の流れを止めてはいけないと思い真知子は慌てて「主人単身赴任で名古屋にいますので主人に送ります。
」と言ってしまった。
いきなりラー油だけ届くと困惑するだろうから、真知子は電話機の横に置いてあった去年上の娘が修学旅行先の京都からお土産として買って来た可愛らしい和氏のメモ帳から一枚取って「お疲れ様です。具たくさんラー油です。冷蔵庫で保管して下さい。ご飯にそのまま掛けて食べてもおいしいし、冷奴にかけても炒め物と混ぜても美味しいです。」と書いてラー油の入った瓶と一緒に包んだ。夫に恋文を書いた事はない。もちろんメモも恋文ではないが初めて夫に自分の字で書いたものを送っていると思うと少しの照れと同時にときめきも感じた。
そして今日夫からラインが来た。「具たくさんラー油ありがとう。これ自分で作ったの?めちゃくちゃうまいね。お昼ご飯に掛けて食べた。本当にありがとう。」メッセージの下には大きくてカラフルなローマ字でサンキューのスタンプがキラキラと光っている。真知子は目を疑った。ラインスタンプ?夫はラインスタンプの存在を知っているんだ。そして使えるんだ。真知子は思わずスマホの画面の上に人差し指を滑らせながら今までのトーク履歴を遡りながら見直した。ほぼ同じ内容のトークの繰り返しだ。もはやトークと言うよりただの報告だ。
「今月分の生活費入れて置きました。」
「了解」
「来週金曜日の夜帰ります。」
「分かりました」
緑と白の枠が交互に陣を取っていてその枠の中には何の感情も織り込まれてない黒い文字だけが淡々と並べられている。指を滑らせもう一度今日のトーク画面に戻って見たらスタンプ一つで一気に華やかになった。その華やかさで真知子は晴れやかな気分になった。
「料理教室で習って来たの。美味しかった?良かった(にっこりスタンプ)」真知子もスタンプ一つを付け、さらにその下に白うさぎが大きく飛び跳ねる嬉しいスタンプも送って見た。
「すごいね。カリカリとした食感といろんな良い味が混ざってご飯めちゃくちゃ進む。夜野菜炒め作るけど、それに混ぜれば良いの?」
「そう。食べる前にラー油を好みで入れて混ぜるだけでもっと美味しくなるって。それにね、ラー油に入ってる山椒、花椒と言う調味料は昔から中国では漢方の生薬として使われていたんだって。とても健康に良いって。」
「面白いね、野菜炒めに入れて見る。ありがとう」
「コンビニとかじゃなくてちゃんと作っているんだね。偉い。」
「買う方が多い。週末にたまにしか作らない。ご飯作るのって大変だね。掃除も。前は家に帰ったらご飯はあるし、部屋はいつも綺麗だったし、ずっとそれが当たり前だと思ってたけど、今一人で全部やろうとしたらどれも大変で全然できない。本当にありがとうね。ずっと気づいてなくて悪かったね。」
真知子は目頭が熱くなった。鼻水が垂れそうになったので必死に鼻を啜った。
「あなたも家族のために仕事頑張ってくれてありがとう。」
「君はパートをしながら家の事までちゃんとやってくれてすごいと思う。今度静岡に戻ったら家の事も少し手伝うよ。下手すぎて逆に足手纏いになるかもだけど。ま、一人暮らし暫くやってたら少しずつできるようになるとは思うがね。」
「ありがとう。次はいつ帰って来るの?」
「再来週の金曜日かな」
「わかった。麻婆豆腐作るね。具たくさんラー油と一緒に習ったけどね、豆腐がすごく弾力があって味も本格的で美味しいの。」
「楽しみだね。毎回静岡に帰る時は君のご飯を食べれるのが楽しみだったよ。」
「ありがとう。待ってるね」
今度は大きなOKスタンプが返って来た。
スマホを操作しながら大きな音を立てて鼻を啜っている真知子を心配そうに見つめながら次女が近づいて来た。
「大丈夫?どうしたの?なんかあった?」
「何もない。大丈夫。パパ再来週帰って来るって」
「は?で何で泣くわけ?」
「嬉しくて、それに泣いていません」
「絶対嘘」
「本当」
「別にどうでも良いけど」
「こら、あなたも少しは喜びなさい。パパが帰って来るのよ。私たちのために毎日頑張ってくれているのよ」
「ハイハイ、ママだって喜んだ事ないくせに」
「今喜んでいます。もう〜ふふふ」
作者より Twitterなどで作品の中に出て来る実際の料理の写真などを公開しておりますのでよろしければご覧になって下さい。
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