青の時代

帆ノ風ヒロ

青の時代

 どこまでも広がる大海原の青。それと境界を描くように立ち込める入道雲の白。

 ふたつのコントラストと潮の香りが胸を躍らせ、夏の到来を実感させる。


 やはり、帰省したのは正解だった。


☆☆☆


海羽あおと、お盆は帰って来られるの?』


 始まりは、母からの電話。


「まだわからない」


『相変わらず忙しいのねぇ』


 がっかりした声を聞いた途端、申し訳ないという気持ちが瞬時に胸の内へ広がった。


「仕方ないよ。二十代後半なんて、会社としてはバリバリ仕事をこなしてもらいたい時期だろうからね。やることが山積みなんだ」


『去年もそう言って帰って来なかったじゃない。せめて、盆暮れくらいはねぇ……』


 その言葉が決め手になったわけじゃない。段取りよく仕事が片付き夏期休暇を迎えられたものの、休みを期待していなかったお陰で予定はゼロ。加えて、ゴミゴミした都会を離れたいという思いも手伝ってのことだった。


 時代遅れの駅で途中下車、くたびれた車両へ乗り換えた。軋んだ音を響かせた車体は、タイムスリップするように俺を故郷へ運ぶ。懐かしい景色で停車する音は、老朽化した車体が上げた悲鳴のように聞こえた。


 かたわらのショルダーバッグを掴み、吐き出されるようにホームへ降りると、靴底とコンクリートが擦れ合う鈍い音が足裏を伝った。


 小さな待合室がひとつ建っているだけで、屋根もない吹きさらしのホーム。肌を焼く日差しにうんざりしながら、改札へ足を進めた。


 セミの鳴き声に歓迎されつつ、無人の改札を抜ける。全ての町人が死に絶えたのかと錯覚するような寂しい街並みは健在だ。


 食堂も本屋もパチンコ店も当時のまま。変わらない街並みに懐古心を抱きながらも、停滞という状況に辟易している自分もいる。


 ため息をついて頭を掻くと、不意に漏れる苦笑。俺はこの町に何を求めているのか。これ以上もこれ以下もないとわかっているのに。


「時間が止まっているみたいだな」


 ここは何も変わらない。俺が都会へ出た後で、文化遺産としてこの風景を守ろうという法律でもできたのかもしれない。


 駅前通りと呼ぶのもためらうほどの寂れた街並みを抜け、海岸通りへ進む。この道筋は、実家へ向かうお気に入りのコースだ。


 駅から十五分ほど歩くと、大海原が顔を覗かせた。町の寂しさを補うように波の音が届き、風が潮の香りを運んでくる。


「寄り道していくか」


 心を落ち着かせてくれる音と懐かしい香り。それらについ引き込まれてしまった。想い出が詰まった公園を抜け、海水浴場へ向かう。


 普段は寂れきった町だけれど、このシーズンだけは様相が一変する。人々のはしゃぎ声とスピーカーから漏れるラジオ放送。そして、海の家から漂ってくるソースの芳ばしい香り。この雰囲気を味わうだけでもストレスから解放された気分になる。


 全身で夏を味わいながら、裸足になって一歩ずつ確かめるように波打ち際を歩く。そうして砂浜へ刻んだ足跡は、寄せる波が全て洗い流してゆく。よそ者として帰郷した俺の痕跡を、ひとつ残らず消そうとでもするように。


 海岸を端まで歩いた時だ。流木の陰に、コルク栓のされた瓶を見付けた。つま先で転がすと、中には密閉された紙切れがあった。


「手紙?」


 興味は沸いたけれど、中身を見るのはさすがにためらわれた。誤魔化すように顔を上げると、頭上で海鳥の鳴き声が響いた。


「カモメ、か……」


 つぶやきを漏らすと同時に、切なさが込み上げてきた。その鳴き声が、記憶の蓋をこじ開けようとしている。


☆☆☆


広世ひろせ海羽あおとです。よろしくお願いします」


 高校時代の夏休み、あそこに見える海の家でアルバイトをしていたことがある。理由は単純。遊ぶ金が欲しかったから。


 海の家ではオーナー夫婦の他に、ひとりの女性がアルバイトとして雇われていた。


『私は風音かざねりん。よろしくね』


 聞けば、俺の一学年上という話だったけれど、高校三年の割に随分と色気のある人だった。大学生と言われても信じただろう。


『あの席に座ってるオヤジ。さっきラーメンを運んだら、どさくさに紛れて手を触ってきたんだよ。気持ちわる〜……』


 しかめっ面をしながらおしぼりで入念に手を拭う姿を見て、吹き出してしまった。


『笑ってる場合じゃないんだってば。また呼ばれたら、次は海羽あおとくんお願いね』


 見知らぬ客からセクハラを受けるほど、人目を惹く容姿をしていたということだろう。


 そんな凜さんに、仕事の基本をほとんど教わった。オーナー夫婦がてんてこ舞いだったこともあるけれど、彼女は俺を気に掛けて、何かと世話を焼いてくれたのだ。


 そして、バイトを始めて三日目のこと。凜さんは、ぱっちりした大きな猫目を更に見開いて、物珍しそうに俺を見つめてきた。


「なんすか?」


 その視線に耐えられず、咄嗟に目を逸らしてしまった。女性と接する機会が少なかった俺は、異性と話すことに馴れていなかった。


海羽あおとくんってさ、面白い人なんだね』


「面白い? 初めて言われました」


『見た目はクールなのに、話してみると全然違うんだもん。話は楽しいし、良く喋るしさ。ギャップが凄くて意外性がある。凄くいいよ』


 本音を言えば、凜さんの外見は完全に俺の好みだった。気に入られたい一心で、懸命にコミュニケーションを取っていただけのこと。けれどこのやり取りを切っ掛けに、一気に心の距離が縮まったことを実感していた。


『はぁ〜い、カメちゃん。おっはよう〜』


 その翌日。顔を合わせるなり、右手をかざしてきた凜さん。その細い指先が、鳥の羽ばたきのようにしなやかになびいていた。


「は? カメちゃん?」


『親しみを込めて、あだ名で呼ぶことにしたの。海に羽だから、カモメかなって。でも、呼びづらいから略してカメちゃん。どう?』


「まぁ、何でもいいっす」


『なによぅ、張り合いがないなぁ……私のことは凜でいいよ。試しに呼んでみて。ほれ』


 期待を込めた熱視線を向けられたけれど、さすがにこれはハードルが高すぎた。


「俺がカメちゃんなんで、リンリンにします」


『照れてるの? 可愛い』


「可愛いって言うな」


 こうして、カメちゃんとリンリンとしてのアルバイト生活が半月ほど過ぎた時だった。八月に入ってから客足は更に伸び、オーナーはアルバイトの増員へ踏み切った。


三雲みくも夏奈かなと言います。一生懸命頑張ります』


 俺と同学年。あどけなさの残る顔立ちは、自分の妹のようだと周囲に受けた。持ち前の明るさと愛嬌の良さも相まって、数日も経つ頃にはたちまち店に馴染んでしまった。その勢いは、凜さんの存在が霞んでしまうほどに。


『これ、どうしたらいいの?』


 困った顔で近寄ってくる夏奈は、まるで子犬のようだった。何より彼女は、放っておけないという献身的な気持ちにさせる不思議な魅力を持っていた。


『ありがとう。広世君って頼りになるね』


 その笑顔と明るい性格は太陽を思わせた。夏奈を太陽だとすれば、凜さんはそんな俺たちを優しく見守る月のような存在だった。


 そしてアルバイトを切っ掛けに、俺の世界は地殻変動を起こしたように激変した。女性と接するのは苦手だと言っていた自分は、どこへ行ってしまったのだろう。


『カメちゃん。これ、味見してみ』


「その割り箸、リンリンが使ったヤツでしょ」


『そうだけど。それがどうかした?』


 どうもこうも、それは間接キスだ。


『広世君。お願い、手伝って』


「こっちも忙しいんだけど。って、三雲さんも放っておけないか……」


 大慌てだけれど、頼られるのは嫌じゃない。


海羽あおと。あなた最近、随分と楽しそうね』


 母の言葉に笑みで応える。あの時の俺は、ふたりのお陰で毎日が本当に充実していた。


 そんなある日のことだった。


『広世君と風音先輩って、本当に仲がいいですよね。でも、どうして広世君のことをカメちゃんって呼んでるんですか?』


 不思議そうな顔をする夏奈に、凜さんは勝ち誇ったような笑みを見せた。あの時の顔は、今でも忘れることができない。


『むっふっふ。残念だけど、夏奈には教えられないな〜。ふたりだけの秘密なの』


『風音先輩、ずるいですよ』


 俺の顔を見て、こっそりウインクを飛ばしてきた凜さん。秘密を共有する特別な仲間になったようで、嬉しいような恥ずかしいような、心が痒くなる想いを味わっていた。


 その日のバイト帰りのこと。公園を抜けて通りへ出た直後、夏奈に呼び止められた。


『私も、カメちゃんって呼んでいい?』


「そんなことのために追いかけて来たの?」


 なにが夏奈をそこまでさせたのか。俺には全く想像がつかなかった。でも、わざわざ追ってきたほどだ。彼女にとって重要なこと。そう思わせるだけの必死さが伝わってきた。


「別に構わないけど」


 凜さんの顔を思い浮かべると、胸の奥が息苦しさを覚えた。あの人を裏切ってしまったようで、途端に申し訳ない気持ちがした。


『嬉しい。ありがとう』


 まるで試験に合格したような喜びようだった。夏奈の満面の笑顔を見た途端、撤回することは許されないのだと悟った。


『あの……カメちゃん。それでね……』


 早速あだ名で呼ばれたけれど、俺と凜さんの間だけで成立していたその音は、どこか馴染めない感覚を帯びて鼓膜を刺激してきた。


『もうすぐ、この公園でお祭りがあるでしょ? バイトの後で、一緒に花火を見たいの』


 そこまで言われて、心の中で組み立てられていたパズルはようやく完成の時を迎えた。でも、その時の俺には状況を上手く処理するだけの器用さがなかった。


 夏奈の気持ちを無下にできない。そんな想いから彼女の誘いを受け入れた翌日、俺にとって二度目となる地殻変動が訪れた。


 夏奈がカメちゃんと口にした瞬間の、驚きと怒りを湛えた凜さんの瞳。それは銃弾のような凶悪さを秘めて、俺の胸を容易に貫いた。


『カメ。ちょっといい?』


 凜さんから初めて呼び捨てにされた。それが彼女の怒りの強さを如実に物語っていた。海の家の裏で、俺たちは無言で向かい合う。


『夏奈に、カメって呼んでいいって言ったんだって? カメと夏奈。語呂も良くてお似合いだけど、ちょっとがっかりだなぁ……私が付けた、私だけの呼び方だったのにさ』


「なんかすみません」


 謝った直後、突然に左の頬をつねられた。そんなことは初めてだったから、驚きに目を見開いて凜さんを見つめてしまった。


 綺麗な顔は、微かな悲しみを湛えていた。


『すまないと思うなら、ひとつ約束して』


「なんれすか?」


 俺のおかしな滑舌に気付いた凜さんは、頬をつねっていた手を慌てて離した。目を逸らした横顔はなぜか緊張を帯びて。そんな顔を見るのも初めてのことだった。


『そこの公園で、お祭り……あるでしょ? 打ち上げ花火、一緒に見たいなぁって……』


 自分自身の甘さをこれほど呪ったことはない。己への怒りと後悔と混乱が津波のように押し寄せて、冷静な判断が下せなかった。


 先に約束を取り付けたのは夏奈だ。それを断って、違う女性と目的を果たす。そんなことが許されるだろうか。


 でもその時、俺は自分の本当の気持ちに気付いてしまった。凜さんと夏奈。ふたりの女性に対して恋心を抱いているという事実に。


 答えを迫られ、熟考するだけの余地も、嘘で誤魔化す余裕もなかった。俺にとっての僅かな沈黙は、凜さんにとって永遠にも思える時間だったのだろう。


『そう。わかった……』


 静かに立ち去る凜さんの背を見つめながら、何も言うことができなかった。


 結局、打ち上げ花火が夜空を彩る下で、夏奈に告白されて付き合うことになった。


『今だから言うけど、実は風音先輩に、カメちゃんとのことをずっと相談してたんだ』


 それを聞いた瞬間、自分の世界が足下から崩れてゆくような感覚を味わった。


 凜さんは、どんな気持ちで俺たちと接していたのだろう。俺はふたりにいい顔をして、気付かぬうちに傷付けていたのかもしれない。


 俺たちを月のように見守っていてくれた凜さんだけれど、夏奈の気持ちを知ってしまったばかりに、月にならざるを得なかったのかもしれない。自惚れと言われればそれまでだけれど、今ではそんな風に考えている。


 その数日後、凜さんは移り変わる季節を追うように、俺たちに何も告げないままバイトを辞めてしまった。


 海の家でのバイトは二ヶ月で終わったけれど、夏奈との付き合いは続いた。


 でも、俺は幼すぎた。初めての彼女に対して奥手になってしまい、夏奈の心を満たすことができなかった。まごつく間に、彼女の心は打ち上げ花火のように遠ざかった。そして、積もりに積もった鬱憤が破裂した。


 結局、高校を卒業する前には別れてしまい、今では連絡先すらわからない。


「瓶詰めか……」


 再び足下へ視線を向けると溜め息が漏れた。


 夏の海の喧噪が雑音の固まりとなって、後悔を加速させる。この陽射しに焼かれて、いっそ燃え尽きてしまえたらいいのに。そうしてもう一度海から産まれて、あの日のあの時をやり直したい。


 今でも不意に、夏奈と凜さんのことを思い出す。あの時、凜さんとの未来を選んでいたら、俺たちには違う未来があったのだろうか。


 故郷へ戻って海を見る度、立ち去ってゆく凜さんの後ろ姿が蘇る。それを忘れないために、俺はここへ来ているのかもしれない。


 俺の心と記憶はきっと、この瓶詰めの手紙と同じだ。この町の中に囚われたまま、凍り付いたように動けずにいる。


 この町が変わらないんじゃない。きっと、俺の時間があの日から止まったままなのだ。


 コルクで瓶詰めにされた青の時代。それは今でも心の奥底で誰にも知られることなく、ひっそりと置き去りにされている。

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