市営ボンネットバスと先輩

円窓般若桜

市営ボンネットバスと先輩

ー市営ボンネットバスと先輩



先輩が降りたのは、ボンネットのすごくでかい市営バスからだった。ファッションビルや証券会社の牛耳った建物が空に届くわけもなくそびえている半端な都市のロータリーでの少し肉幹に汗ばむ午後だった。茶色いカラスがビルの屋上から次の屋上へ渡り飛んでいた。

先輩は学生服のサテン生地リボンを大きな蝶のように調度していて、あたしは、停まって羽開くのは蛾なんだけどなと思ったけど、蛾でも先輩にくっついたら綺麗なんだなあと思った。

市営バスはロータリーに入ると、プワンプワンとクラクションを鳴らして停車していた。入ってきた合図が規則になってるんだろうねと思ったし、旋回するボンネットの大きな市営バスを見過ごして、あたしは偽のレンガ畳をすらすらと歩く先輩の夏制服からなにかしら光の粉が出ているみたいに思って、惚けて気持ち悪く、駅ビルの店舗に入ってゆく先輩の歩くのを見つめていた。六月に入ったばかりの町だった。

さっきからカラスが馬鹿みたいに五月蝿くて、だからというわけでもないけどあたしは、先輩が降りたばっかりのバスに乗り込んだ。出発の定刻まであと12分あった。

バスの中は冷房が効いていて、夏制服のブラウスの腋隙間から入り込んだ冷気が腋のリンパの通う皮膚表面をさえずり、求心性神経の多く蔓延ったそこがこそばゆく感じるのは脊髄がそう感じているんだなんて、絶対ウソだとあたしは思った。脊髄なんてぜんぜんこそばゆくないし、あたしの体なのにそれはどこにあるのかもよく認知できなくて、実は脊髄があたしの支配主であたしは一個のいいなりロボットなんじゃないかって考えていると、さっき降りたはずの先輩がバスに乗ってくるのを見てあたしは脊髄なんてどうでもよくなって、ただ長い栗髪が夏なのにサラサラしてバスに木漏れる陽につやつや光っているのを、先輩に気付かれないようにちろちろと見つめた。

先輩は右手にドーナツ屋の荷袋を下げていて、ロータリーにバスが停車している間の20分間にドーナツを買って戻ってきたんだとあたしは推測したんだけれど、じゃあちょっと待ってよこのバスは来た順路をこのロータリーで折り返して同じルートを戻る循環線なんだから、先輩の家なんて知らなかったあたしはバスのルートの途中の先に先輩の家があるんだと考え至ると、心臓がばら色の火を灯したかに熱くなるのを感じた。

先輩は、最後列の長椅子のひとつ手前の進行方向に向かって左窓べたに座ったあたしの二列前の、進行方向にむかって右窓側に座ってドーナツの荷袋を空いた隣の座席にではなく自分の膝の上に置いて大切そうに両手で抑えて窓ガラス越しに外を見ていた。先輩に大事そうに抱えられたドーナツ屋の荷袋は、フランチャイズを全国に展開しているこの国で一番有名な、だからありきたりのものだったんだけど、先輩に抱えられてはダイアモンドみたいな電飾で装飾された店内で珪砂に酸化鉛を添加されたクリスタルガラスのショーケースにでも陳列されていたハイブランドの逸品みたいにあたしには見えて、価値観なんて外に見える浮き雲よりも移ろい易いんだなと思った。

そう思ってバスの煤けた窓ガラス越しに見上げた空は、雲なんてひとつもない快晴で空には天幕もなにもないはずなのに一面全てが同じ青色をしているなんて、きっと空の先にはほんとうに何にも無いんだろうなとあたしは思った。

つまらない空から逆方に首を枉げて見遣った先では、先輩が同じように沼気に浸ったようなバスの窓ガラスから空を眺めていて、つまらない空と対比してなんてぴかぴかな人なんだとあたしは、先輩の見上げる空の先にはきっと素晴らしい奇跡でも常駐しているんだろうなと、さっきとは真反対のことを思った。

バスの冷房空気に流れる先輩の栗髪は、琥珀とかトパーズの釉薬でコーティングされた糸絹と間違うほど綿密に洗練されていて、雲ひとつ隔てない日光が照らすその光は、イエローダイアモンドなんかも敵わないなあとあたしは見惚れた。あたしのほうが後方だから、いくら先輩だって後ろ頭に眼なんて持っていないだろうから、あたしはバスの停車中いつまでも先輩を見つめることができて今日はなんて良い日だって、ばあちゃんがいつも誦経までして拝んでいる仏様に感謝をした。夏が始まる前の水分を多く含んだ風が、冷房機の吐く乾燥した冷気に代わって先輩の栗髪を曝気するかにすり抜けたら、もっときれいなんだろうなと思ったあたしは、「弱冷房車」と赫々と明示されてあるステッカーが「窓を開けるな」と言っているのを理解できる自分の社会分別を少し邪魔に思った。ほんとうのあたしは、この古くさい鉄ストッパーを鉄臭さが指に移るのなんて気にもせずきゅっと掴んで、金切りの擦れる音も気にしないで一気に窓を押し上げて、夏の始まる前の風を先輩の栗髪に振りかけたい心だったけど、「弱冷房車」の圧力と社会抑圧にあたしは屈して、ただ先輩の栗髪が曝気もされずに冷房の風に戦いでいるのを眺め続けた。先輩の栗髪は、曝気なんかされなくてもひたすら可憐に機械の風に戦いでいた。

アイドリングを解除したバスがフロントエンジンを回転させる音が車内に轟くと同時に、空を眺めていた先輩は進行方向に向き直して、その視界の左の隅端にでも自分の惚けた気持ち悪い眼線が映って先輩に気味悪がられたら困ると思ったあたしは、同じように進行方向を一心に見つめ繋げ、バスの発車をどきどきしながら待った。バスの発車が楽しみでどきどきしてるなんて訳はなくて、あたしがまじまじと見つめる眼線をバスの進行方向に直すより、先輩が進行方向を向いたほうが少しだけ早かったから、一瞬でもあたしの気持ち悪い眼線が先輩に気付かれたんじゃないかって、そのことがすごく心配であたしの心臓はどきどきしていた。

バスはまだ発車しなくて、エンジンの打つ反復楽節があたしの心臓のどきどきを重奏して、心臓の核というか心臓の内蔵されてある位置より少し右上の、自分の身体の胸真ん中ら辺でなにか敏感なものがきゅうっと抓ままれたような得体の知れない快激が背骨を伝ってぞくぞくと迸って、あたしはハートを捕まえるってこういうことを言うんだろうなと思った。

得体の知れない快激は数激で鎮まって、エンジン油の潤滑が行き渡ったと同じくらいに、あたしのどきどきは影をひそめた。バスはまだ前方の昇降口を開け放してあって、その扉が閉まるのが見たいのか先輩は、顔の角度をややこちら寄りに傾けていた。空観(そらみ)の角度では栗髪に隠れていた先輩の左のほっぺが空間の切れ目に浮かび、アラバスター(雪花石膏)の白美を想わせるその肌理(きめ)の白は、辺鄙な東の島国の辺鄙で中途半端な中都市を回遊する懐古なボンネットバスの車内に場違いの美しみを漂わせ、アラバスターの肌と空間の切れ目の端々にちらちらと浮かぶ先輩の唇は、桃に染まった夕まづみの空に満華と咲いたソメイヨシノに添って佇む姫様が召す着物のような鴇色(ときいろ)で、あたしはその色を目にした瞬間に、このバスはこのまま漂流でもしてくれないかと強く願った。

骨格も顔の造形も髪艶も胸の肉付きもちんけなあたしが強く願ったところでそれはどうしようもなく、バスの前方の昇降扉がぷしゅーなんて間抜けた排気音を一発鳴らした後、バスはエンジン音とは反駁して静かにロータリーを出発した。昇降扉の閉口を確認し終えたのか、先輩は進行方向の真正面に向き直して、鴇色の唇は空間の切れ目の奥に隠れてしまった。

バスが内周330メートルのロータリーの湾口を左折して、16番目の国道に抜けるとプラタナスの街路樹の並木が夏が始まる前の青空に瑞々しく緑輝(りょくき)していて、間を這う電信柱の線網が救命ロープのように見え、こんな大きな道路で溺れる人もあるんだろうかとあたしは思った。

プラタナスの整列に植樹された隙間からは、黄色と赤の家電量販店や緑と白の不動産屋、橙に黒の飲食フランチャイズや紫と白の葬儀屋なんかの広告板がところかしこに顔を出していて、それらの根元にはエンジュの樹がそろそろ白い花を実らせ始めていた。

夏が始まる前の青空から零れる陽の光は、樹々にも看板にも電線にも等しく降り注いでいたけれど、先輩を乗せているバスからはプラタナスの緑輝が一際輝いて瑞々しくてあたしはその緑に中てられて、汗が冷え肌細胞が補完される感覚をたしかに感じた。

発車を始めてから4分くらいでバスは最初の停留所に停まった。最初の停留所はプラタナスの街路樹並木の入り口にあって、2人の年配女性が雨も降っていないのに雨除けの二面囲いの庇下で待っていた。辺鄙な中都市での移動には自家用車がひどく利便で、市バスを利用するのはあたしたちみたいな学生か泡沫に例えられる好景気の時代に子育てに専念した普通免許を取得し損ねた年配の女性ばかりだった。

最初の停留所で停まったバスは、復路の終点だったロータリーで停車していた時とは違って、乗ってくる人のための前方昇降扉と降りる人のための中央昇降扉をさっきのぷしゅーという排気音を鳴らして開けて、中央のステンレスの大きな扉が開くためにバスのボディ内へと格納されてゆく音は、間抜けには聞えずに、あたしはこのステンレス扉のひずみ率はどれくらいだろうと考えた。

ロータリーに停車していたときとは違って2ヶ所の扉を開いたバスの中には風の通り道ができて、プラタナスの緑葉香を含んだ風は中央扉の2列後方に座った先輩の栗髪を、牡牛座の星が撫でたかにふゆりと拾い上げ、そのまま中央扉の渦状腕に捕らわれた気流が、確実に含んだはずの先輩の栗髪の香りを連れ去った。先輩の香りの粒子カプセルを連れ去った風は、中央扉の出口で外気と衝突して混ざり合って見えなくなった。

風は見えるものじゃないけれど、バスの中に吹き込んだ風は先輩の栗髪の挙動がその姿を明らかにして、目に見えるものとなって世界に出現していた。

目に見えた風が混じり合って消滅した先には、泥魔術でも使役しそうな汚い猫が一匹てくてく歩いていたのに立ち止まった。立ち止まった猫は、きっと先輩の栗髪の粒子カプセルを吸引したから立ち止まったんだと思ったあたしは、羨ましくて腹立たしくて虚仮(こけ)にした眼で猫を睨みつけたけど、美味しいカプセルの生産者にお礼でも言うのかバスの中を見ていた猫の眼は、暗黒魔女に飼われているかの毛色の奥でやさしい眼をしていた。

そんな可愛らしい眼なんかしても赦さないわよ、と念言を黙唱しながら猫を睨み続ける右眼の端で、なにか金紗羅(きんしゃら)したものが動いたのに気付いたあたしは、視線を猫からバスの前方へと移した。前を向いていた先輩の、首をほぼ90度左に枉げ猫の何倍ものやさしさを含んでいる先輩の瞳を見てしまったあたしは、猫なんかどうでもよくてただパニクるなと自分に言い聞かせた。昨日呼んだガイド本(銀河ヒッチハイクガイド)が役に立ったんだ。中央扉がぷしゅーと閉まり、午後の気流は安定していた。

プラタナスの並木路を抜けるバスの中は冷房機が吐く冷気が、入り込んだ外気の暑熱を冷ましていて、暑熱の冷める匂いは水が凝縮する夏の木陰の匂いがした。

プラタナスの並木の出口には円形の大きな噴水があって、ルパードの滴(液状硝子を水中で急速に固めたもの)みたいな鉛銀色のオブジェが、骨組みだけのガラスでできた四方体の枠組みの中で絶えず水を浴びていた。先太の糸球体みたいなオブジェの形態は、なにかしらの芸術上の意図があって、黒大理のプレートに金字で彫り込まれた文字群にはその説明なんかも書いてあるんだろうけど、バスの中からは文字は識別できなかったし、あんなに絶えず5億のベルが打ち鳴るように水を浴びせられては芸術もへったくれもなかろうにとあたしは思った。あたしは芸術は静謐であるべきだと思う。

噴水の孔は円周上を対に、アーチ型の孤を描くように配置されていて、水の球ベールに蔽われたオブジェは、ほんとうに腎臓の中の糸球体にあたしは見えた。

ツバの広いストローハットを被って噴水の前に佇む先輩に、噴水の水が銃弾よりも硬いオブジェの銀色の粉を剥離してきらきらと降りかけ、銀箔に染まってゆく先輩の白い肌を想像したあたしは、その光景はすごく静謐で、ひどく芸術的だろうなと考えた。

実在の先輩はバスの進行方向を向いていて、プラタナスの並木には途中にひとつ停留所があったけど、降りる人も乗る人もいなかったからバスは停まらなかった。

プラタナスの第一区画の出口、噴水広場を左手に据える十字交差点の信号機は青色で、バスは重い車体に微力なブレーキをかけて滑らかな減速幅で交差点を左折した。左折せずにそのまま真っ直ぐに進んで、プラタナスの第二区画第三区画を抜けて5キロメートルほど行くと青魚の漁獲高が高い海に出るんだけど、5キロメートルも離れた窓の閉ざされたバスの中には海の匂いはぜんぜんしなかった。

ぜんぜんしなかったけど、夏の始まる前の雲のないこんなキラキラの陽芒が海に降り注いだら、あたしみたいなちんけにも、ツバの広いストローハットが似合うだろうかなとあたしは思った。

噴水を左手に過ぎて、トラツグミの宿り木並木が点々と繋がる街道沿いには、花穂(かすい)を膨らませた野アザミの花が棘棘しく咲いていて、東の国のアンドロメダなんても呼称されるこの花は、美しいものには棘があるって格言を体現しているように見えたけど、2列前方に座り重いバスの震動に律良く上下左右小刻みに揺られている先輩の肩先にも肘先にもどこにも棘なんて見当たらなくて、野草の緑に混じってどこまでも点々と咲く野アザミの紫紅を見つめ繋げながらあたしは、棘棘しいアザミの紅は他の野草の血赤の色なのかもと、他人を吸った美しさはあまり美しくないんだなあと思った。

できたばかりの資源の少ない火山島では、骸骨が鳥の巣材になったりして死が生を育むらしいんだけど、その巣の居心地はたぶん悪くて、育まれた小鳥はあのアザミみたいな色になるんだきっと、なんて点々とでも排ガスに曝されながらも雄々しく咲いているアザミに失礼ねって思ったあたしは、反対車線ですれ違った同じ型のボンネットバスが気になったふりをして右車窓に眼線を移した。

眼線を移した瞬間は、先輩が垂れ流した栗髪を左手で耳根元からかきあげて、篭った熱を打ち払うためにか一回軽く馬尻尾に束ねてそのまま指と指の隙間に透き流した瞬間だった。

背もたれの低いボンネットバスの座席のおかげでその一部始終を余すところなく見られたあたしは、先輩の死んだ栗髪でできた巣は天竺天鵞絨よりも肌触りが良くてそこで育った小鳥はきっと極楽鳥になるんだわと思った。多くの鳥は羽を拡げて自分はこんなに大きくて立派なんだぜと変な求愛行動をとるらしくて、極楽鳥はその拡げた羽が平和に笑ったピースマークの間抜けた模様になるんだけど、先輩の栗髪の死骸で育ってしまってはそれも仕方ないじゃないと思ったあたしは、きっとその時はずいぶん間抜けた表情をしていたんだと思う。先輩がなぜかこっちを振り向いたんだ。

なにか異音がしたのかあたしの卑らしい視線に感づいたのか過ぎ去った左車窓の景色を拾いたかったのか、理由なんてどうでも良くて、ただ先輩がこっちを振り向いてその白大理の顔面を、甘い甘い子供が憧れる飴玉のような瞳をこっちに向けているという事象がもう、あたしの間脳(かんのう)から延髄までを電撃に貫いて、あたしは素知らぬそぶりで他を見ることも、表情を整えることもできなかった。

振り向いた先輩は、連星系から放たれた宇宙線に被曝した緑柱石から剥がれたベリリウムの六方最密充塡構造が核破砕されたような、凄絶な美しさを振り撒く笑顔で、ほほえんでいたんだ。

先輩より後ろの席で左列に座っている乗客は実はあたししかいなくて、紛れもなく先輩はあたしに向かってほほえんでいて、それはきっとあたしが先輩と同じ制服を着ていて先輩を真似たスカーフの結び方をしていて、そして間抜けた面白い顔をしていたからだろうと思ったんだけど、ほほえまれてしまって自我の無限回廊に落ち込んでしまっていたあたしには、バスの窓の外に旧時代のゴミ袋のように黒縁取って浮かぶ黒猫の存在はまったくぜんぜん気付けなかった。

さっきの黒猫が先輩の香りを忘れられないなんとでも言うのか、最短直線を四足走行でバスを追いかけてきていて、それを見留めた先輩はあたし越しのバスの窓の外の黒猫にほほえんでいたんだってあたしが気付いたのは、バスが次の停留所に停まったおかげだった。

中央扉が開く鉄擦れの音で無限回廊から引き戻ったあたしは、先輩のグラスジェムコーンよりも綺麗な瞳から逃れようと、あれをまともに見てしまったら先輩の栗髪はぜんぜん緑の蛇なんかじゃないけど絶対石化してしまうと思って、咄嗟に窓の外へ顔を向けた。そうしたら中央扉の出口にはさっきの停留所で先輩の香りをふんだくった泥棒猫がふてぶてしく、また美餌にありつこうと待ち構えていて、眼球の動きだけで先輩のほうをちろりと見遣ったあたしは、先輩の顔角度があたしの方から中央扉の方へと傾いているのを認識して、先輩があたしに向かってほほえんでくれたなんて思った己の傲慢とふてぶてしい黒猫の強欲を呪ったの。

先輩に気取られないよう心の中でため息を吐いたあたしは、停留所の前にある洋屋敷の門前に、生け垣された紫色の艶やかなペチュニアナイトスカイが満天と咲いているのを見留めた。紫の花弁に銀河のような白斑を鏤(ちりば)めたペチュニアナイトスカイの白斑の白はその奥々どこまでも真白が続いていそうで、先輩の肌の白さは大理石というよりもこの花の銀河色と似ているんだとあたしは思った。

午後の暖かい気流が対流をかたちづくって遊んでいるのか、さっき停車したときと同じように前方扉から外風がバスの中を侵し、同じように先輩の栗髪を一息撫で、こんどはその香りをあたしにまで届かせてくれた。

その香りは、超知性を具備したしゃぼんせっけんの、鼻腔を抜けて脳体でバラバラに弾けては脳みそを蕩けさせる粒子群で、時間そのものが焼灼(しょうしゃく)したかにあたしは蕩けと石化を5億のベルが1秒で打ち鳴るかのスピードで繰り返し、瞳で石化され香りで蕩けさせられちまったら、先輩と付き合う人は大変だなあ、とどこか他人事のように思った。

バスの中央扉が閉じる前、永訣でも告げるためかに先輩は猫に向かって、ニャー、と一声擬音で鳴いた。風に乗って届いたその声は、遍(あまね)く命の母親みたいな声で、あたしはもう容量がいっぱいいっぱいになって失禁を我慢するだけでほんとうに精一杯だった。ニャーと鳴いた後もほほえみ瞳で猫を見繋げる先輩の横顔を惜しみながらも、動悸と脳みその崩壊を抑えるために右手を胸にぎゅうーっと当て捻り天地がひっくり返らないように大地を俯いたあたしを尻目に、中央扉はぷしゅーと排気音をあげて閉まり、鉄擦れの音は鳴らなかった。

扉が閉まってバスが出発してから2分間、卑しい黒猫はまた美味にありつこうと追いかけてきてたけど、窓から見下ろすあたしと眼が合った瞬間ぴたっとその場で静止してしまったから、あたしはきっと動乱とめちゃくちゃで、ひどくおぞましい顔をしていたんだと思う。

泥棒猫の静止した場所の、さっきと良く似た洋屋敷の外から丸見えの庭には、今度は赤いペチュニアが鉢植えされていたんだけど、復元しては崩壊しそうな脳みそのパーツパーツを押さえ込むのに必死だったあたしには、赤のペチュニアがポインセチアになぜか見えて、あたしはクリスマスプレゼントを包んだ包装紙にプリントされたサンタクロースの顔を思い出していた。夏花が冬花に見えるほど脳みその崩壊は甚だしくて、そして、そのとき奇跡が起きたんだ。

数えきれない奇跡を起こしたっていう人の生誕を祝福する日に咲く花をまぼろし見たのは、崩壊しそうなあたしの脳が今際(いまわ)の汀(みぎわ)に獲得した予知能力だったのかしら。俯き繋げるあたしを人型の影が覆って、俯いていても視界は散乱する光を捉えているからそこに人型の影が覆ったのをあたしが影を認知した一瞬間の刹那、影が言葉をかけてきたんだ。

「ねえ、大丈夫?具合、悪いの?」

影は先輩だった。崩壊しそうな脳みそでもその声が先輩のものだと察知したあたしがおそるおそる顔をあげると、猫に向けていたあのほほえみ顔を今度は紛れもなくあたしに向けている先輩の実像をあたしは見つけたの。

脳みそは崩壊をぴたりとやめ、あたしに向けられた先輩のほほえみ顔は猫に向けていたよりももっと良いほほえみだとあたしは思った。

バスは海へと繋がる河川に架かった橋の上を走っていて、水面に降った陽の光を反光したキラキラは、星飾りのように先輩をくるんでいたなあ。

無重力の涙が宿主を潰すみたいに、あたしはなにがなんだかわからないで、先輩に降り注ぐ水と陽の反光が先輩の栗髪と反応して金色のキラキラに見えるのを、きれいだなー、と思って盲(めし)いの人みたいな眼で見つめていた。

間近で見る先輩は、盲いの眼にも映るほど強烈な光にくるわれていたけれど、どこか底抜けに透きとおって見えて、ペチュニアナイトスカイの銀河の肌に、宇宙の本容をあたしは知った。


宇宙は、清冽で、瑞々しくて、聖香に満ちた、希(のぞみ)の塊りなんだと知ったんだ。


腑抜け惚けた盲い然のあたしに、先輩は、「おーい」、と右手をあたしの眼前で上下に振って、あたしの意識を確かめてくれた。先輩でも、おーい、なんて世俗なことを言うんだなあ、なんて卯(う)すら恍(とぼ)けたことしか考えられなかったあたしは金縛りにあったみたいに、「だ、だいじょぶでず」、と濁点多めに濁った声で答えてしまったけど、それがちょっと重篤に映ったのか先輩は、眼前で振った右手をあたしの左ほほにあてて、「熱はないみたい」、と一際大きくほほえんだ。

ほほにあたった先輩の右手の小指の先が、無意識にあたしの首筋をひとすじ撫でて、脊髄を直で撫でられたような処感覚に、あたしの思考回路は完全に短絡(ショート)した。川を直交に走るバスは、橋の終わりにさしかかって、ゆっくりと速度を緩めていた。

先輩はあたしの左ほほにあてた手を、放熱が尋常であるのを確認するとすぐに離した。バスは橋を越えた停留所で停車した。

「じゃあ、あたしここだから。具合悪いようなら運転手さんに言うんだよ」

先輩はそう言って、ぷしゅーの排気音で開く中央扉のステップを降りていった。今度も中央扉は鉄擦れの音を鳴らさなくて、先輩が見ているからステンレスも行儀を正しているんだとあたしは思った。

運転手さん、なんてな可愛い言い方もするんだ、と先輩の言葉にからくりこけしみたいに頷くしかできなかったあたしは思って、自分の左拳が制服のスカートのきれをぎゅっと掴んでいるのに気付いて快感に吼(ほ)えているみたいですこし恥ずかしかった。

先輩がステップを降りきってすぐに、バスはぷしゅーと閉まってアイドリングしていたエンジンがすぐにまた回転を始めた。

国道に沿って歩く先輩をバスが追い越す瞬間、こちらを見上げた先輩と眼が合って、先輩はあのほほえみ顔で手を振ってくれた。お辞儀でしか返せなかったあたしは、なんで先輩があたしなんかのちんけを気遣ってくれたんだろうと必死に考えてみたけれど、どこにも合理的な理屈が見当たらなかったから、あたしは、先輩はきっと変な人なんだと思い至った。

いつの時代も趨勢を一変させてきたのは、舌をだした物理学者や、雷発生球の傍らでマホガニーの椅子に腰掛けて読書する発明家や、排泄物について詳細に手紙にしたためる音楽家みたいな変な人で、あたしの世界は今日、間違いなくひっくり返った。

あたしは、バスの車窓に映る流れる景色に眼をやった。いつも見ている流れる景色は、いつも以上に眼に入らなかった。

左ほほに残った感触は、すこしひんやりと柔らかく続いていて、自分の左の指先をあてがってみたあたしは、先輩に直接触れた気がした。森羅万象に答えが必要なら、この感触がそうだとあたしは思った。

バスは何度か停発車を繰り返したあと、あたしの停留所で停まった。動乱と崩壊と恍惚と柔触でふらふらのあたしは、自動機械のように慣動でバスを降りた。

夏が始まる前の水分を多く含んだ空気を深呼吸したあたしは空を見上げた。

空はどこまでも高く、青ばかりが広がっていて、世界がひっくり返っても、青空は青いまんまなんだなと思ったあたしは、家の玄関の扉をいつもより大きく開けた。いつも通りの床材と台所の生活の匂いが、新しいもののようにあたしを迎えていた。



                    市営ボンネットバスと先輩

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市営ボンネットバスと先輩 円窓般若桜 @ensouhannya

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