月が満ちる


 今夜の月は大きな満月。


 一際明るい月明かりの下で、琴姫はいつものように箏を弾いている。


 心に思い描くのは、かつての恋人ではなく、もうすぐやって来るであろう人物だ。


「今夜の月は格別ですね」


 由景が涼やかな声と共に姿を見せた。その姿は柳を思わせるほど線が細く洗練された印象だ。


 当然の様に部屋に入ってきた由景に向かって琴姫は口ずさむ。


ぬばたまの こよいのつきぞ かがやきたる

 われひくゆえを きみはしるなむ

(今夜の月は一段と輝いています 私が弾く理由を貴方は知っているでしょう)



 それを聞いて由景は一瞬目を見開き、そして微笑んだ。


「そう、私は貴女が月夜に箏を奏でる理由を知っている。出会った時の貴女の箏はとても寂しく儚げなものだった。その音色が日を重ねる毎に変わっていくのを私はずっと聴いてきた」


 由景はいつも座る円座を越えて琴姫の側で腰を落とした。


「かつて貴女は元恋人の為に箏を弾いていた。けれど、今は私の為に音色を紡いでいる。そうだろう」


 そして、床まで流れる豊かな髪を一筋手に取って自分の口許に寄せ、琴姫を真っ直ぐに見た。


 琴姫は肯定の意味を込めて由景の視線を受け留める。


 琴姫はゆっくりと由景の腕に迎え入れられた。初めて感じる彼の温かさに小さく息を吐く。


「貴女はこんなに冷えていたのだね。私が温めてあげよう」


 その言葉に応えるように琴姫は一層身を寄せた。由景は笑みを深くして、琴姫をかき抱いた。





 琴姫はしばし途切れていた意識を浮上させる。燃えるような熱を与えられた体は落ち着き、今あるゆるゆるとした温もりをただ享受していた。


「起きたね」

 甘やかな声が下りてくる。髪を梳かれる感触が気持ちよかった。

 ずっとこの夜に抱かれていたい。琴姫は切に願った。



 けれど、時は来る。


「もうすぐ夜明けだ」

 座って外を見ていた由景の声に促され、抱えられている体を少し起こし顔を上げると、月は白くなり空は明らみ始めていた。


 そして、琴姫は自分の体がふと軽くなるのを感じる。


「さぁ、君が解き放たれる時間だ」

 由景がゆっくりと立ち上がり琴姫の手を取る。


 促されるまま一緒に立ち上がった琴姫の体がふわっと浮いた。焦る琴姫に由景は優しく諭すように言う。


「君を現し世に繋ぎとめる重石は溶けた。君の夜は明けるのだよ」


 その言葉で、琴姫はすべてを思い出した。自分は来ない元恋人を待ってとうに息絶えていたことを。


「さぁ、次の世で貴女を愛してくれる人が待っている」


「由景さまにはもう逢えないのですか」

 切ない気持ちで琴姫は問うた。


「次の世では私のことは忘れる。それでも、私たちが愛し合い満たされた気持ちは永遠に胸に在る。縁があればまたどこかの世で巡り会えるだろう」


 琴姫は由景の手をきゅっと握る。

「では、また巡り会えることを願っております」

「幸せに」

 由景は手を軽く握り返してから、空へと促した。


 琴姫の体は空に浮き、そのまま温かい光の中に放たれた。由景の優しい目に見送られながら、やがて空と一緒になった。


 空は白い光に満ち満ちていた。

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