第10話 手を伸ばせば触れられる距離

「おじゃましまーす。」

美千歌の部屋に入るのは小学生以来だった。そもそも女の子の部屋に招かれるのもそれ以来だし、他にもいろいろな意味でドキドキしていた。

一歩踏み込んだときに最初に感じたのは匂いだ。美千歌が近くにいるときに感じる、柑橘系の甘酸っぱいにおい。心拍数が限りなく上昇して軽い酩酊状態の中、女の子の部屋っていいにおいするんだなとぼやっと思った。


次に机の上の大きなデスクトップに目を引かれる。確実に前来たときはなかったものだし、自室にあるのも彼女の兄の物もラップトップだ。単純にものめずらしかった。

通いなれた兄の部屋との最大の違いは本棚だろうか。彼は三つほど大きな本棚にぎっしりマンガを詰め込んでおり、さらにそこにも入りきらないものが小分けに箱詰めされていたりするが、彼女は小さいものが一つだけだ。大判の画集みたいなものが多く、コミックは申し訳程度に数冊収められているだけだった。そういえばマンガは一番好きな作品だけあればいいって言ってたなーなどとなんとなく思い出す。


室内は全体的に淡いピンク色の小物が多く、いちご好きはこんなところにも影響するのかと感心してしまう。ベッドの上に置かれた二体のねこのぬいぐるみがかわいらしい。


はへ~と見回しているとクイクイと袖を引かれる。見下ろしてみると軽く頬を染め、少し唇を尖らせた美千歌だった。

「は、恥ずかしいからあんまりジロジロみないでよぉ。」

先ほどのパジャマ姿から着替え、ゆるめのベージュ色のズボンに薄いオレンジ色のワンピースを着ていた。やわらかい感じの衣装が普段のふわふわした雰囲気とよくマッチしていた。

すまんなと態度を改め、促されるままクッションに座る。(いちご柄だった。)


「それで、見せたいものって?」

落ち着かないようにキョロキョロしている美千歌がなにも言わないのでこちらから切り出す。そんな緊張されたらこちらにも移ってしまう。ここでお見合いになるのは勘弁してほしかった。

あーとかうーとか唸りながら彼女がパソコンを操作する。何回かクリックすると画面にパっと一枚の絵が映された。


その瞬間、それまでの煩悩の数々を一気に忘れ、表示されたイラストを食い入るように見つめていた。

それは、剣士が姫に剣を捧げる誓いのシーンを描いたものだった。

書き込みも細かく、光が舞うようなエフェクトも素晴らしかったが、特筆すべきは二人の表情だ。

捧げられた姫の誇らしそうな顔と剣士の深い愛情を感じられる表情から目が離せなかった。

きっとこの剣士は姫のことを愛しているのだろう。だが身分違いの恋は決して実ることはない。それでも愛する人を守護するため、側にいる。そんな物語が頭の中に自然と浮かび上がってくるようなものすごい熱量を感じ取った。


「ラノベの、…挿絵みたいだ。」

ポロっとこぼれた言葉は掠れていて、それでいて熱に浮かされているようだった。

そのまま見続けていると不意に隣にいるはずの美千歌の存在を強く感じて振り向く。

とてもうれしそうにはにかむ彼女が熱い吐息を漏らす。いつもと違う仕草がとても色っぽく見えた。ガバっと勢いよくその肩を掴む。


「チカ!」

途端にビクっとして目を白黒させる美千歌。途端にそれまで漂っていた色気が消え去り、いつもの幼げな印象に戻る。おもしろくなってそのままぐるぐる振り回す。


「すごいぞ、チカ。まるでプロみたいだ。いつの間にこんなにうまくなったんだよ。」

「わ、ちょっ、よーちゃ、やめ。」

満足したところで目をグルグル回している彼女を開放する。その場でフラフラした後、横のベッドに座り込む。大きく息を吐いたあと、かわいい顔でにらまれた。


「よーちゃんッ。やめてって言ったのになんですぐとめてくれないのぉ~。」

ごめんごめんと謝りながらしゃがんで目線を合わせる。まだうらめしそうな美千歌に心の底から笑いかける。


「チカ、すごく頑張ってたんだな。びっくりしたよ。でも、すごいな。尊敬する。」

そのまま手を伸ばして頭を撫でるとびっくりした顔で固まっていた美千歌がくしゃりと相好を崩す。


「えへへ。ようちゃん、褒めてくれるときは本気で言ってるのわかるからすごくうれしい。」

にへらっと頬をゆるめている美千歌の頭をそのまま撫で続けていると徐々に赤くなってプルプルし始める。そして限界に達したのかガバっと立ち上がって叫んだ。


「もう、いつまで撫でてるの!よーちゃんてばいつまでたってもあたしのこと子ども扱いして!」

それまで手の中にあったやわらかい髪の感触を思い出して少し惜しく思う。でもそんな不満そうな表情はすぐに笑みに隠れた。


「してないよ。」

「えっ?」

「してない。子ども扱いなんて。もうチカは子どもには見えないよ。」

不思議そうにキョトンとしている美千歌を促してクッションに座りなおす。

自分用のクッションを引っ張り出してきておずおずと確かめるように座るその仕草を見ているだけで胸がいっぱいになる。あぁ、好きだなあ。

目を細めて見ているとチラっと見上げる視線と噛みあう。


「あのキャラ名前なんて言うの?」

「えっ。ああ、あのキャラはこのマンガの主人公と―。」

いそいそと本を引っ張り出してきて話始める美千歌に相槌を打ちながら夢想する。

この腕一本分の距離を詰めて、肩を抱いて、くすぐったそうに笑う彼女を間近に感じる自分の姿を。

こちらから視線が外れたのを確認してから、強く目をつぶってその幻想を打ち消す。

再び開けた視界にはその距離が残っている。近いけど遠い、触れたいけど触れられないそんな距離。

でもそれでいいのだ。今はまだ。現状でも俺は十分に幸せだ。

もう一度、バレないように愛しく微笑みかけてから彼女の語る声に耳を傾けた。



くぅ~とかわいらしい音が鳴り、美千歌がお腹を押さえて赤くなる。

会話が中断され、慌てて時間を確認すると部屋を訪ねてきてから一時間以上が経過していた。

恥ずかしそうな彼女の頭をポンポンっと叩いて立ち上がる。


「ずいぶん長話しちゃったな。俺はもうお暇するよ。チカ、朝ごはん食べてないだろ。」

荷物を抱えてドアノブに手をかけたところで後ろから呼ばれた。


「ようちゃん!」

振り向くと美千歌はモジモジとしていたがやがて意を決したように口を開いた。


「あの、今日、たくさん褒めてくれてありがとう。あたし、ちょっとは自信ついたよ。」

ためらいがちだった表情が花開くように変わる。俺の一番好きな顔だった。


「どういたしまして。お礼を言うのはこっちもだけどな。いい作品を見せてくれてありがとう。あと最初に俺に見せてくれたっていうのが一番うれしかったよ。」

じゃあな、と手を振って部屋を出る。素直に礼を言うなんて自分らしくない。きっとまだ浮かれているんだな、きっとそうに違いない。

扉越しにまた明日ね~、と大きな声が追いかけてきた。ドアの向こうで手をぶんぶん振っている姿が幻視できるようだ。また明日、と言葉を扉の前に残して立ち去る。


階段を下りているとあたしも一緒にいくの~、と勇梨の腕にしがみつく幼い美千歌の姿が脳裏に浮かび、唇に笑みが浮かぶ。大きくなったもんだ。


玄関の扉に手をかけ、階段の上にいる二人を思う。大きく首を振ると扉をくぐった。

その場には、バタンっという音だけが残った。


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