相合傘

「誰だよ、これ書いたの!!!」

俺は、黒板とにやにやと嫌な笑みを浮かべる同級生を交互に睨みつけた。

「いいじゃねぇか。お前、佐藤さとうのこと好きなんだろぉ?」

「そうだよ、別にいいだろ?!」

「ほら、佐藤も何か言えよ!告白だ、告白!」

「ちょっとぉ、やめなよ男子〜!あかねちゃん困ってるでしょ〜?」

佐藤が、顔を真っ赤にして俯いた。

「あーあ、ほら、あかねちゃん泣いちゃった」

「男子のせいだよ〜!」

俺は何をすべきなのか、もはや何もすべきだはないのか、それすらもよく分からなかった。

そもそも、なんでこんなことになったのか。

教室のドアが開く音が響いた。

図書当番から帰ってきたハルだ。

「…お前ら小五にもなって、バカじゃねぇの?」

その冷ややかな目が、クラス中の生徒を刺す。

いつも温厚で、グループの中心的存在のハルが怒った。

みんな、そのことの方に囚われてしまった。

黒板に書かれた相合傘。

佐藤と俺の名前が書かれたそれは、ハルによって速やかに消された。

冷やかしや、しょうもないからかいは続いたものの、それ以降佐藤と俺が派手にイジられることはなかった。



今のは、四年前の話。




俺は今年、四年ぶりに佐藤と同じクラスになった。

同じ学校内にいたとはいえ、一学年だけで二百人を超える我が中学校で他クラスの人と関わることなど、友達でもない限りほぼ皆無に等しい。

あの日のその後は今でもよく覚えている。

俺は「ごめん」と一言佐藤に謝り、佐藤もまた「こっちこそ、ごめん」と言った。お互い目は合わせられなかった。

それから俺は佐藤と喋っていない。

だから俺はここ数日、とても緊張している。

そんな微妙な関係の佐藤が、俺の隣の席に座っているからだ。

佐藤は相変わらずだった。つまり、あの時と同じように可愛く、賢く、男子に人気で、女子に不人気で、それらをまるで気にしないようにすました振る舞いをしていて、休み時間は一人で本を読んでいた。

俺は、それが気に食わない。

早く、早く幸せになってくれ。

俺に幸せな姿を見せつけて、さっさと消えてくれ。

あの日からそう願ってやまない日々が続く。


「…あの、ごめんなさい」

「…え?」

休み時間が終わる瞬間、佐藤が突然声をかけてきた。驚いたせいで間抜けな声が出てしまった。

「私、教科書忘れちゃって…」

「あぁ、いいよ。見せてあげる」

願ってもないチャンスだ。

何のかは知らない。

「ありがとう」

「…いーえ」

授業が始まってからも、居心地の悪さは変わらなかった。

なにせ四年も前の噂なのだから、今さら冷やかしてくる奴などおらず、ただひたすらに本人だけが気にしているのに過ぎないのだが。

俺はこの空気もまた、気に食わず、佐藤が見つめる俺の教科書の隅にこう書いた。

『あのときはごめん』

我ながら汚い字で恥ずかしい。

佐藤は俺の方を見るでもなく、その文字をじっと見つめ、自分のノートに文字を書き出した。

そして、俺に見せるためにノートを少し寄せてくる。

『気にしないで。私の方こそごめんなさい。』

相変わらず綺麗な字だ。

ここで急に口で伝えるのも憚られ、俺は教科書の隅にもう一度文字を書く。

やり直せるのではないか、そう思った。

『おれが悪いんだ。ごめん。おれ、あれからもずっと佐藤のこと』

仁科にしなくん」

不意に名前を呼ばれ、その声がどこから聞こえたのか瞬時に判断できなかった。

隣からの視線を感じる。

「仁科くん」

佐藤がもう一度はっきりと声を出す。

授業中なのだからあまり大きくはないが、すっきりとした透明な、佐藤の声が耳に流れてくる。

ようやく佐藤がちゃんと俺に対して言葉をかけてくれる、そう思った。

さっきも俺に教科書を見せるよう話しかけてきたが、この言葉はちゃんと俺に向けられているのだと強く実感する。

「…何」

「…私、今幸せなの。だから…大丈夫。あの時のことは、本当にもう気にしないで」

俺はせっかく佐藤が俺に、俺だけにかけてくれた言葉を、飲み込むことができなかった。

佐藤が机の中からガサガサと自分の教科書を出した。

あぁ、そうか。真面目な佐藤が教科書を忘れるはずがない。

「…教科書あったみたい。ありがとう」

そう言い、俺と机を離す。


俺は、俺は何を期待していたのだ。

幸せになれと願ったのは俺なのに。

俺はこの期に及んだまだ、期待していたのか。


佐藤は相変わらずだった。

あの時と同じように不器用で、要領が悪く、たいして友達もおらず、いつも寂しそうに独りで本を読んでいた。


そうだろう?


ずっと独りだったんだろう?


だから、思い上がった。

佐藤も同じ気持ちだと、勝手に思っていたのだ。


最低な心に、我ながら反吐が出そうだ。



佐藤は変わらなかった。

つまり、こういうことだ。


俺のようにこんな佐藤を、好きになった奴がいる。


俺より器用に、こんな佐藤を好きになった奴がいる。


それと同時にこんな佐藤に、好かれた奴がいる。



佐藤に、あんな、あんなにかわいい顔をさせる奴がいる。


そんなことできる奴は

あいつしか————————

「私、今幸せなの」


脳で反芻する、佐藤の水のような声。

少しだけ照れた、声。



何がいけなかったのだろうか。


俺は何回も考える。




俺が、佐藤にそう言わせたかった。






四年前


ひっそりとした放課後の教室。

遠くから先生らしき人の足音がする。

俺は、自分の拳をぎゅっと握る。


「…あのさ!」


「…うん」


好きな人が、目の前にいる。

俺は今からこの思いを伝えようとしている。

緊張するのにこれ以上の理由があるだろうか。


「………好き、なんだけど」


ついに俺は言った。

確かに言った。

好きだと、言った!



「…ごめんなさい」


スコーン


そんな音が聞こえた。

自分の心臓が地面に落ちたような、そんな感覚。


「…なんで」


かろうじて出た声は、世界で一番かっこわるくて、俺は泣きそうになった。


「……私、ずっと好きな人がいるの。…これからも、多分、ずっと好き。…相手もきっと分かってるの。でも、どうしようもないから………。だから…ごめんなさい」


あぁ、あいつだ。

すぐに分かってしまうことにまた、嫌気がさす。


俺は、笑うでも泣くでも怒るでもなく、ただ目の前の人を見つめた。



遠くから、なんとなく気配を感じる。

あぁ、明日の朝はきっと面倒なことになる。

他人事のように考えた。





視線はもう交わらない。



もう、ではないか。



今までも、これからも、ずっと。






黒板の外で同じ傘になど入れない。

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