ビニール傘
窓の外から雨音が聞こえる。
「やだぁ、雨降ってるじゃない!」
「わ、本当だ。結構土砂降り…」
「あたし今日、傘持ってないんだけど!」
「傘と言えばなんだけどさ、この前…」
わたしの働くスーパーのスタッフルームはいつも騒がしい。
入り浸っているのが女性ばかりだからだろうか。わたしと比べ、随分若い子も多く、男性社員はふわふわするとともに少し圧倒されているようにも思える。
集団になると女子が強くなるのは、学生のころから変わらないのかしら。
「
「…ごめん、ちょっとぼーっとしてた。どうしたの?」
「あたし、この前彼氏とデートに行ったんですけど、雨が降ってて、彼、どんな傘持ってきたと思います?ビニ傘ですよ、ビニ傘。しかもコンビニとかじゃなくて、百均とかに売ってそうな、安っぽいやつ。デートにですよ?しかも彼、会社でも結構いい立場なんです。彼氏以前に、社会人として非常識じゃないですか?!」
うわぁ、若いなぁ。そういえば、わたしもそういう考えをもっていた。
「そうねぇ…。でも、ビニール傘って便利よ?」
「んー、そうなんですけど!」
そもそも、なぜこんなに若い子たちがわたしのようなおばさんに話しかけてくるのか、よく分からない。かといって悪い気は全然しないので、わたしはいつもこうしてこの子たちと話してから家に帰る。
あぁ、今日の晩ご飯はどうしようかな。昨日は何を作ったかしら。冷蔵庫には…ナスと、トマトと…。あっ、カレーのルーが半端に残っているんだった。じゃあ、今晩は野菜のカレーかな。息子が二人もいると、毎晩の食事を考えるのも一苦労だった。
「…じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
「あっ、あたしの方も連絡来ましたー。車で迎えにくるって!」
ちなみに、さっき話の中に出てきた彼氏とは違う人らしい。
「加瀬さんは、旦那さんのお迎えとかないんですか?」
二、三人がにやにやと口元を緩めてこちらを見てくる。
「わたし、折り畳み傘持ってるから」
ちなみに、日傘にもなるやつですから。万能でコスパ最強のやつですから。
「なんだぁ。残念ですぅ」
それでも、わたしも思い出していた。
以前、あの人が雨の中迎えに来てくれたことを。
まだ、わたしの苗字が
その日は、失敗ばかりの一日だった。
当時勤めていた会社では三年目で、わたしは後輩の指導にあたっていた。仕事も軌道に乗り、少しずつ楽しさを見出していた。プライベートの方でも、気になっていた人と夜に食事をする約束をしており、全てが順調なはずだった。
しかし、その日は本当に酷かった。
まず、朝に寝坊をした。わたしは普段、滅多に寝坊をしない。
次に、仕事でミスを連発した。しかも、どれもとても簡単な、初歩的なミスばかりだった。
極めつけに、雨が降ってきた。わたしは傘を持っていなかった。
その雨は仕事が終わる頃になっても止まず、むしろさらに激しさを増しているようだった。
なんで今日に限って雨が…。いや、違う。そもそも、今朝寝坊したわたしが悪いのだ。寝坊したから天気予報を見れず、寝坊したから玄関に置いてあった折り畳み傘を持っていく間もなくなったのだ。
もー、嫌だ。
軽く自己嫌悪に陥ったわたしは、思い出したかのように約束の相手に連絡をした。もしかしたら、迎えに来てくれるのではないか。そんな期待が胸に広がった。
『傘を忘れてしまい、会社から出れそうにないです。そちらは大丈夫ですか?傘か、迎えがあれば食事には行けそうなのですか、どうでしょうか?』
相手からの返事は五分足らずで届いた。
わたしは彼からのメッセージを読んで少し恐怖を抱いた。
『優しいんですね。僕は傘を持っているので大丈夫です。そういった事情なら、残念ですが今夜の食事は難しそうですね…。また、後日ご一緒させてください!お気をつけて^_^』
はぁ?!
コイツ、正気か?!
仮にも食事に誘った女を置き去りにして帰るつもりかよ?!
あと、最後に申し訳程度につけてある^_^がなんか腹立つ。
あー、もー、嫌だー。
今日はろくな日じゃない。寝坊するし、仕事でミスするし、雨は降るし、男選びにも失敗していたことが今明らかになった。
「…お疲れ様でした」
まだ会社に残っていた人がいたようだ。急に声を掛けられ、体がビクッと震えた。
「わっ。あぁ、はい。お疲れ様でした」
同僚である彼はもう一度会釈をして、そそくさと出て行く。
これでもう、会社にいるのはわたし一人だ。
今夜はここに泊まってしまおう。
それから三十分ほど経ったときだった。
さっきの彼が帰ってきたのだ。
「忘れ物ですか?」
「…いや」
普段、真面目な印象のある彼が目を合わせてくれないのを不自然に感じた。
「どうか、しましたか?」
「…あの!」
「は、はい」
彼とまっすぐ目が合う。
「桜木さんは、傘をお持ちではないのですよね?」
「えぇ、まぁ」
同僚なのに、なぜここまでかしこまった言い方なのだろう。少しおもしろい。
「これから迎えが来るとか、そういった予定は…?」
「ないですね。残念ながら」
あの腹立たしいメッセージが再び頭の中で顔を出す。もう、一生あいつには連絡してやるものか。
「あの、僕はその、なんというか…。人より体がでかいもんで」
「はぁ」
「しかも、桜木さんは、その…結構人気者でしょう?僕なんかと同じ傘に入るのは、桜木さんとしても、周りの人間としても、あまり良いもんではないかと思いまして…」
当時のわたしは、他の人よりは少しモテたと我ながら思う。どう考えたって、食事をドタキャンされ、雨の中会社に置き去りにされるような女ではなかったのだ。
「それで?」
「だから…、あの、もし良かったら、この傘を使ってください」
彼がそっと傘を手渡してくる。
どこででも買えそうな、なんてことないただのビニール傘だった。
「…わたし、加瀬くんにそこまでしてもらえる義理はないですよ」
「いいんです。安い、ただのビニール傘ですから。あと、義理とか…そういう問題ではないんです、僕にとっては。僕が、嫌なんです。…気になっている女性が、会社に一人泊まらなくてはならないなんて」
彼はこちらを向こうとしなかった。顔から耳まで真っ赤にして、恥ずかしそうに頬をかいている。
彼は後に語った。もし、断られても使えるように、そこまでヘコまなくてもいいように安いビニール傘を買ったのだと。
「…わたし、今日は家に帰らないって決めたんです。だから…、加瀬くんの家に行ってもいいですか?」
わたしたちは、それぞれ傘を指して加瀬くんの家へと歩いた。
ビニール越しに見える加瀬くんの横顔には少しの余裕もなかった。
加瀬くんは、今まで隣を歩いたどの男の人よりもかっこ悪く、どの男の人よりも愛おしくなった。
翌朝、わたしたちは付き合うことになった。
カレーの材料は切り終わり、あとは煮込むだけという段階。ちょうど上の息子の
わたしのスマホが鳴る。
旦那からのメールだった。
『悪い。傘を忘れた。駅まで迎えに来てくれないか?』
さっき、あんな昔話を思い出したせいだろうか。少し、嬉しくなってしまった。
事情を察した春海がちょうどいいと言わんばかりに申し出てくる。
「母さん、俺カレーの残り作っとこうか?」
「…じゃあ、お願い」
火の元はちゃんとしてね。
春海にもういいよとうんざりされながら言われてしまったので、わたしは旦那の分の傘を持ち、急いで駅へ向かった。
「あぁ、
近くから声が聞こえる。見つけた。
「はい、傘。もう、しっかりしてよね」
「あぁ。ありがとう。すまんな」
照れ臭そうに傘を受け取る彼が、いつもより少し若く見える。
ふふ、あの日と…
「あの日と逆だな。ビニール傘ではないけど。…ん?どうかしたか?」
わたしは思わず顔を上げ、彼を見つめた。
「同じこと考えてたわ」
「そうか」
嬉しそうに笑う横顔には、昔とは違う色が混ざっている。
わたしたちも随分と老けた。彼だって皺も増え、最近は髪も薄くなってきている。
それなのに、こんなにも愛しい。
わたしたちはまた、あの日と同じように別々の傘を差し、同じ家へと歩き出した。
カレーはちゃんとできているかしら。そんな、幸せな不安を胸に。
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