第21話 経過観察
朝日が差し込む霧深い山中。木々の間に隠れるように二つの影があった。こそこそと隠れるように身をかがませ、草葉の間から目だけをそっと覗かせていた。
「…………さすがに遠すぎんか?」
「目視できる時点で近いよ」
「目視っていっても、これぽっちしかみえんが」
ツェシカ=ヴィヴィッドノートが指で見えているモノの大きさを表す。シロは一度それを見て苦笑するが、すぐに目視対象へを視線を戻した。
視線の先。彼らのいる山からさらに二つ程小山を挟んだ向こうに、それはいた。
国崩しカルダ。魔獣を超越した魔獣は、山々の間で深緑の魔力を立ち上らせ、微動だにすることなく、その場に留まっていた。
「何、じゃあツェシカはもっと近づきたい?」
「……まぁ、もう少し近づいても大丈夫じゃろとは思っておるな。観察っていっても、これじゃ全然様子がわからんくて意味ないしのぉ。目も疲れる」
ツェシカの言葉に頷きながらも、しかしシロはこれ以上近づくつもりは毛頭なかった。それはカルダに対する過剰な恐れではなく、単純に必要がなかったからだ。
確かに彼らの距離はあまりに離れている。だがシロの視力はまともな生物のそれではない。生物的に強化された視力にプラスして、ウルスによる情報処理補正も入っている。彼の視力を無理やり数字に治すなら12.0はあるだろう。情報処理という観点で言えば、その補正は画像の高度解析を常時行っているようなもので、生物の視力以上の意味を持っていた。
ゆえに、シロにとってはこの距離で十分であり、適正といえた。
「ビビってた割には、勇敢だなぁ」
「さすがにこの距離じゃ、て違うわ! 妾はビビっとらんわ!」
「ふーん」
「ほんとじゃぞ! い、いやまぁ、あれじゃが! ヤバイ化け物じゃと思っとるが………ちょ、ちょっと警戒しとるがの! それくらいじゃからな!」
語るに落ちるというか、なんというか。そんなわかりやすい反応だからこそ、シロは彼女の同行を許可した所もあった。よく言えば悪意を感じない、悪く言えば単純そうなその姿は、張り詰めた空気を程よく緩めてくれる。
「会ったときから気になってたんだけど」
「な、なんじゃ?」
「言葉凄い訛ってるけど、どこ出身?」
「……はっ」
補足だが、シロが聞いている言葉はウルスが翻訳補正したものである。したがってシロが聞いたままの言葉を彼女が喋っているわけではない。だが現地の言葉を学習したウルスがそう翻訳しているという事は、訛っていると受け取れるような喋り方を彼女がしているという事に他ならない。
「こ、この高貴な言葉遣いがわからんとは……お主こそ、どこの田舎に住んでおったんじゃ」
嘲笑交じりにツェシカは言った。
「高貴、ねぇ」
もし、仮に彼女が本当にこの国における高貴な言葉遣いをしているなら、シロにとってもそう聞こえるはずである。ツェシカの言葉が全て嘘だとは思わないが、少なくとも時代に即した言葉遣いでない事は確かだと言えた。
空を日が差した。雲が薄い紫色に色づき、霧は白く輝くように見えた。
「お、動いた! 動きよったぞ!」
まるで太陽に反応するように、カルダに変化があった。それはツェシカの目でもわかる程の大きな変化だった。
深緑の魔力が背から天へ樹形図のように広がり、続いてカルダの背が割れた。
「なんだあれ」
天へと伸びていく枝と、それを繋ぐ被膜。それは羽根に見えた。
そして、そのように形態が変わっていく姿がまるで蛹の羽化のようだった。
――羽化?
その考えがシロの頭を過ぎったとき、全身にゾクリと寒気が走った。
幼虫が蛹を経て、羽化し成虫になる。生物的にいえば変態は、例えばゲームのモンスターが進化するような話とは別個のものである。
羽化したからと言って、全てのパラメータがプラスになるわけではない。あくまで形態の変化。水中に住んでいた生物が空を飛べるようになる代わりに、水中に入る能力を失う。幼虫時には強い耐毒性を持つ生物が、羽化を経て成虫になると、幼虫の頃に耐えられた毒に耐えられなくなる。
ゲーム等の進化とは違う。羽化とは、何かを得る代わりに何かを失うものである。
だが、だとしても。
目の前の脅威が、超常たる異常が、より強固な個体に生まれ変わるかもしれない。その想像に、ただただ恐怖した。
「……なんか、ヤバそうじゃな」
ただならぬ空気に気圧された中で、ツェシカがぼそりと呟いた。
カルダの羽根が光っていた。まるで帯電したように、魔力が集まり発光している。
『魔力の異常な収束を確認』
稲光のような光が木々を照らし、木の葉の影が形を変えて蠢いた。
山を二つ挟んだその場所にいてさえ、シロの身体は臨戦態勢に入っていた。正確には、逃走準備に入っていた。後方に重心をかけ、いつでも引ける体勢で目の前のそれを見守る。
『来ます』
脳内で響いたウルスの声とほぼ同時、閃光が空を走った。
カルダの背に生えた羽根から放たれた光は、本当の光のごとき速度で周囲へと解き放たれた。
それはガラスにひびが入るように、クモの巣のように広がり、雲を裂き、山と大地を穿ち、空を焼いた。
「あ」
間の抜けた、声が聞こえた。ツェシカのものだった。
眼前に、光が迫っていた。それはシロとツェシカを飲み込んで余りある巨大な魔力の塊だった。
彼女の反応が遅れた理由はそれがあまりに速かった、からだけではなかった。
その光の動きが単純な直線的な動きではなく、本当の雷のようにジグザグと蛇行していたからに他ならない。放たれる膨大な光量と魔力の波が感覚を狂わせていたことも理由にあげられるだろう。
到来した魔力の雷が、破壊の限りを振りまいて通過していく。
暴力の波は一瞬で過ぎ去った。後には剥げて抉れた地面と、焼け飛ばされた木々は破片。ぱちぱちと焦げて弾ける枝の音。
「――気、抜きすぎ」
「……す、すまん」
シロに、猫のように首根っこを捕まれたツェシカが気まずそうに視線を逸らす。
シロが乱暴にひっつかんで後退していなければ、今頃ツェシカはあの魔力の塊に飲まれてはじけ飛んでいたことだろう。
『で、なにしてんの、あいつ』
先ほどよりもさらに離れた距離。視線の先には依然変わらずカルダが居た。
奇妙な羽根は依然、帯電したように魔力を纏っていた。羽根は位置を調整するように何度も羽ばたく様子が見えた。
『予想はいくらでもできますが、正誤の判断は出来ませんね』
シロとウルスが何を求めて、カルダを監視していたか。もちろん情報ならば何でも欲しいのが実情だが、彼らが一番欲していた情報はあの生物の行動原理だ。
何を求め、どうしてそのような行動をしているのか。カルダという生物の、それがまったくわからない。その不明さこそ、カルダの対処を一層難しくしていた。
現状わかっていることは、他の生物の比ではなほど膨大な魔力を有しているということくらいだろう。
今回のあの魔力の雷もおそらく攻撃ではなく、そして魔法ですらなかった。ただの魔力の過剰放出。ただそれだけの行為が、人にとっては破壊の嵐となる。
人に見向きもされず踏まれていく蟻に、もしも意志があるとするならば、きっと今のシロと同じ気持ちだろう。
それでも、目の前の理不尽と向き合い、シロは知らなければならないのだ。
「シロ、どうした? ビビったのか?」
ひっつかんだままだったツェシカがシロの顔を見て、面白そうに言った。
「……ビビってねーよ」
「なら、さっさと動け。今のでわかったこともあるじゃろ」
「? わかったことって?」
「なんじゃ、わからんのか?」
「いいから、さっさと言ってくれ」
シロにとって、それほどの収穫はなかった。なのに、ツェシカには一体何がわかったというのだろうか。思いもよらぬところからの情報に、シロは真剣な表情で彼女の言葉を待った。
「――もっと離れるのじゃ!」
どうしてかわからないが、なぜか自信満々の決め顔でツェシカは言った。シロはそんな彼女の顔になんだかイラっとして、掴んでいた指先から力を抜いた。
地面に落ちたツェシカが、ぎゃんっと奇声を上げた。
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