国内放浪編
第14話 カナリとハイカ
「……メイド的に、これはまずいと思います」
「メイドじゃなくても、これはまずいよ」
メイドが鈍い痛みを発する頭を抑えながら見上げると、小さな窓の向こうにどんよりとした曇り空が見えた。
「は、ハイカ、ど、ど、どうしよう?」
鹿族の青年が体を震わせながらメイド――ハイカに言う。だが彼女に、そんなことがわかるわけもなく、曖昧に笑うくらいしかできなかった。
大きな街道の真ん中に一台の馬車が止まっていた。正確に言えば、動かなくなっていた。ついでに言えば引いていた筈の馬は消えていて、馬車そのものが横になって倒れている。
そんな見るも無残な馬車の中には、まだ二人の人が残っていた。
背の小さな只人の少女と、背の高い鹿族の青年。青年は貴族で、少女はそのメイドだった。
「カ、カナリ様っ!」
ハイカが青年の名前を呼んだ直後の事だった。
ガンガンと何度も車体が揺れた。
それから唐突にバキリと、木が砕ける音が聞こえた。木箱の蓋が取れるように、馬車の側面が剥ぎ取られる。
「あ、あぁ」
主人の絶望するような声。その視線の先に、それは居た。
それは、大きな犬に似ていた。だが犬と言っても、その頭は二つあった。
「サ、サンド、ルゥグ」
その正体をメイドは知っていた。
この国では非常に有名な魔獣だ。
それは本来なら火山のある山岳地帯に住まう魔獣だった。このような平野にいるはずがない個体。それがうねり声をあげて、蓋の空いた馬車の中を見ていた。
オオイヌの牙を伝って落ちる涎を見て、あぁ、自分たちは餌なのだとハイカは正しく理解する。
「だ、誰か! 助けてくれ!」
貴族の青年が叫んだ。その行動に間違いはない。
この馬車には複数の護衛がいたはずだ。魔獣に襲われたとして、全員がやられたとは限らない。誰か生き残りがいるかもしれない。
だが帰ってくる反応はない。そしてそれをずっと待っている時間もなかった。
「っ!」
多頭のオオイヌが、馬車の中に首を突っ込んできた。ハイカは咄嗟にその体を引き寄せた。本来なら御者が座っている席へとつながる扉を開き、二人は慌てて外へと跳び出す。
ぷんっと鼻をつく強烈な血の臭い。
原始的な、死んだ生物の臭いだ。それは半分になった御者だったり、潰れひしゃげた護衛だったり、それから首が取れた馬の死体もあった。
見るも無残な光景だった。だがそれを悼む余裕はない。少しすれば、自分たちもその仲間入りを果たすことは目に見えていた。それでも、諦めるわけにはいかない。押し迫る死の恐怖が、身体を前へと動かした。
振り返れば、馬車の中に首を突っ込むオオイヌの姿。どうやら頭がすっぽりとハマったようで、煩わしそうに何度も頭を振っていた。
それが一縷の望みだった。暗闇に刺した一条の光。このチャンスを逃したら、死ぬしかない。
「行きましょう!」
「あ、あぁ」
主の手を引き、ハイカは走った。目の前には雑木林が見える。入ってしまえば、あの巨体だ。木々が邪魔をして、進行を阻害できる。そうなれば、小さな二人が逃げ切る可能性だって十分に出てくる。
楽観だ。だが楽観の何が悪い。目に見えた細い光明にすがって何が悪いというのだろうか。
だが、やはり現実は非情だった。
木が砕ける音がした。唸り声が聞こえた。大地を蹴る四つ足が近づいてくるのがわかった。
「ひっ!」
ハイカは思わず振り返った。ひきつった声が喉から漏れた。
眼前に牙があった。二人の頭を飲み込もうとする二つの顎。
目を瞑る暇もない。それを見つめていることしか出来ない。
死が、口を開いて待っていた。
「え?」
衝撃は、横から来た。
訳も分からず、その衝撃がやってきた方向へと視線が動く。
見るまでもなく、わかっていた。
そこには主が立っていた。主しか立っていない。
主がメイドを横から蹴っ飛ばしたのだ。なんて酷い字面だ。でも事実だ。
主がメイドのために命を投げ出すなんて、聞いたことがない。だけれど、彼は、カナリはなんだか満足そうに笑みを浮かべていた。何か、達観したような、そんな笑顔でハイカを見ていた。
それから先の光景が、ハイカにはゆっくりと見えた。そんな光景、まざまざと見たくないのに、でも目を逸らすことも出来ず、ただゆっくりと映る現実を見せつけられた。
オオイヌの牙が、カナリの身体に突き刺さる。胸の下あたりから上向きに犬歯が入っていく。上の顎は頭の上。口が閉じれば、肺からはばっくりと覆われ、食いちぎられる。そうなっていく光景が、ゆっくりと、進んでいく。
「あ」
胴体と頭が分かれ、弾けた。大量の血液が飛散し、視界を染める。
現実離れした現実。入り乱れる多数の赤色。
間の抜けた声が喉から漏れたのと、同時に、ゆっくりとした世界は再び元の速度で動き始めた。
――オオイヌの片方の頭と胴体が、弾け飛んでいた。
「なん、で?」
次々起こる異常事態に、零れ落ちた言葉は純粋な疑問。理解がまるで追いつかなかった。ハイカには、何もわからなかった。
ハイカは地面の上を転がりながら、その時やっと自分がカナリに吹き飛ばさていたことを思い出した。鈍い痛みを覚えながら、しかし彼女はすぐに顔を上げた。
「カナリ様っ!」
主を探すハイカの前に、男が立っていた。
白髪黒衣の優男。赫い魔力の燐光を身に纏った男。
一体どこからやってきたのか、どうしてそこにいるのか。
わからないことだらけの中でわかったのは、あのオオイヌを吹き飛ばしたのは、目の前に立つその男だということだった。
※※※
「……これは不味いな」
オオイヌに襲われた二人組の助けに入ったシロだったが、残念ながら間に合ったとは言い難い。鹿族の青年の胸には牙によって生まれた大きな穴が開いている。
だくだくと胸から血が漏れていく。底の抜けたドラム缶を見ているようだった。
「カナリ様!」
青年の侍従らしき少女が、慌てて駆け寄ってくる。青ざめた顔で、目尻には涙を浮かべていた。
『主』
ウルスの声に顔を上げると、視線の先では、シロが蹴り砕いた魔獣の身体がビクビクと脈動していた。
「君。ちょっと、ここ強く押さえながら聞いてくる?」
「え、あ、は、はい!」
「あっちにさ、人影見えるでしょ?」
「は、はい」
「次の指示はあの子に聞いて」
少女に圧迫する箇所を指示した後、シロは自分がやってきた方角を指さす。その先には、必死に走ってくる一人の少女が見えた。遠くから見ても、三角帽子が目立つ。見るからに魔女然とした少女だ。
シロの言葉に、少女は何度もコクコクと頷いた。それを笑って見届けた後、ゆっくりと立ち上がる。
「さて」
見れば、魔獣の身体が高速で再生していた。砕かれた頭部の肉片が逆再生されるように戻り、繋がり、形を成していく。魔法のない世界ではありえない大型生物の高速再生だった。
『治癒、再生系列の魔法かぁ』
魔獣の定義とは、なんだろうか。時代によって考え方も中身も違うが、シロの知っている最もざっくりした定義では魔法を使う生物。
その定義で言えば、人も魔獣と言える。
だが、魔法を使える人間と使えない人間が存在する人という種族と、生まれ持って種の全てが魔法を行使する魔獣では区分が違う。
後者の完全魔法生物は、魔法的な器官や、術式を生まれながらに持っている。すなわち生まれた瞬間から魔法を使っているのだ。
『今の俺だと、物理で頑張るしかないからな。魔法戦の定番、治癒阻害、再生阻害みたいなアプローチは出来ないわけだし』
『絡め手が必要な相手だとかなり分が悪いですね。ただ再生方式から考えるに、再生するための中心核があるオーソドックスなタイプだと思われます。問題はないかと』
再生術式を使う多くの魔獣には、再生を制御する物理的な核を持つ種が多い。それが魔法であれ何であれ、自己機能の制御する仕組みは存在するという事だ。
『簡単に言うけども』
すっかりと元通りの姿になったオオイヌが、頭を低く下げ、喉を唸らせて、シロを睨んでいた。
睨み合いの時間は短い。オオイヌはすぐさま動いた。
一足で跳躍。小細工のない、最短最速の軌道でシロへと飛び掛かった。
「シッ!」
シロは短かな呼気と共に、腰に下げた鉈を振り抜く。避けざまに、シロの胴ほどもある首の一つを切断。だが、オオイヌは怯まない。片方の頭を失いながらも、地面に着地、そのまま反転。鋭い爪を振るった。
まともに受ければ鉈が折れる。判断は反射の内に行われ、分厚い爪を逸らすように僅かに鉈と接触。二度、三度と、超近距離で交差する金属と魔獣の爪。そのたびに目の前で、火花が散った。
既 に、切断したはずの頭部が再生を始めていた。
「シロ!」
鉄すら両断するような爪牙舞う中、シロを呼ぶ大きな声が聞こえた。
ちらりと見れば、そこには遅れてやってきたアテアラが先ほどの青年の横に座っていた。走ってきたため、まだ肩で息をしている。
なんで呼んだのか、なんて聞いている暇も必要もなかった。
どんな話があるにせよ、目の前の魔獣を殺さなければならない。魔女様の言葉に反応するのは、それからだ。
『ウルス、あの男が死ぬまで猶予は?』
『現状、私が観測出来る範囲で、このまま何の治療も行われなければ、およそ九十七秒で死にます』
『そりゃ死ぬな』
目の前で元気にはしゃぐ魔獣の相手をしながら、それは絶望的にも思える秒数。常人なら迷っている間に過ぎ去る程の僅かな時間と言えた。
『どうなさいますか?』
『さっさと倒そう。魔女様もそれを望んでる』
魔力纏う鉈が、下から上へ振り抜かれた。オオイヌの首の付け根に傷が走り、血が噴き出す。しかしそれもつかの間、すぐに治癒が始まる。全てが元通りに戻るよりも前に、シロは強く踏み込み、一閃。
赫い燐光を散らしながら、貫き手が治りかけの傷口へと突っ込まれた。
オオイヌが苦しく吠えた。シロの身体に近い、片方の頭が彼の蛮行を止めようとかみ大きく口を開き、噛み付いてくる。シロは上手く牙の間に鉈の刃を噛ませ、均衡。つばぜり合いのように、牙と鉈の刃で押し込み合う。
だが相手にはもう一つの頭があり、鋭い爪もある。ここでの均衡はわずかな間しかありえない。いずれひっくり返る優劣を前に、傷口に差し込まれたシロの腕が深く深く潜り込んでいく。
堅い皮膚を抜け、分厚く硬い肉を裂き、太い血管と食道の横を滑らせながら、奥へ奥へと腕が入り込んでいく。やがて腕が肺にまで到達するほど深く、肩口まで飲み込まれた時、ビクンっと、オオイヌの身体が震えた。
強烈な力で押し込まれていた牙からふっと力が抜ける。
差し込んでいた腕を今度は思い切り引き抜いた。再び盛大に血が噴き出し、今度は止まらなかった。
唸り声をあげていたのも僅かな時間。
両足からも力が抜け、オオイヌはその場で倒れた。
跳び引くように距離をとったシロの手の中には、こぶし大の白い物体が握られていた。それが核と呼ばれる再生専用の臓器。
心臓の逆側、それがもっともポピュラーな核の配置であった。
『時間は?』
『残りは六十七秒です』
戦闘の余韻を味わっている時間はなかった。
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