第10話 魔導書
「いい? 絶対、勝手に触らないでね」
「はいはい」
「本当だからね!」
「わかったって」
同じようなやりとりを既に三度。
魔法の先生となったアテアラが連れてきたのは、狭い地下の扉前。
「ぐ、ぐぐぅぅ! って、あ、ちょっと!」
ギギ、と鈍い音が鳴り、重そうな扉を引くアテアラ。片手に松葉杖を持っているのだから無理もない。後ろから手を伸ばして、途中からシロが扉を開いた。
「……すごいな、ここ」
「こ、ここが、魔女だったおばあさまの書斎だったの」
半円に造られた本棚に隙間なく、分厚い本が並んでいる。中心には小人が座るような、小さな椅子と机。ちょこんと置かれている羽根ペン、それに製本途中の紙の束。
『魔導書がありますね』
ウルスの指摘の通り、そこに存在する多くの本は、只の本ではない。魔導書。またの名を魔法書、呪文書等とも呼ばれる。区分は様々だが、一目でわかるものには、魔力が通っていたりするが、詳しい術理を記したものもまた同じ名前で呼ばれる。
「あ、ちょっと勝手に――」
「読んでいいか?」
「――え、あ、うん」
魔法を使うための本。それは術式の補助だったり、真理の探究だったり、この時代ならば、自然医療の知識、例えば薬草の特徴、その効能なども書かれている。
『アテアラ様のおばあ様は随分、博識な方だったようですね』
『だろうな。自分で本も書いていたみたいだし』
適当に抜き出した本をめくりながら、想像する。この本棚の主。そこから現れる人物像。それはウルスを介し、印象から質感を持ったリアルな想像へと変わっていく。
『この世界の魔女という立ち位置も見えてきました』
科学世界での魔女と魔法世界の魔女。言葉は同じでも、実像は全然違う。特に、魔法世界の魔女は世界ごとにかなり幅があるのだ。
動物が同じ種に属しても、まったく別の姿をしているモノがいるように、指し示す言葉の意味は全く別のものになる。
『真理の探求者。そして身近な図書館』
ウルスが示したその言葉こそ、この世界における魔女の存在。
『論理は古いですが、これは確かに未来、私たちに通じる理論ですね』
『……つまり、理論に問題はないと』
魔法書を読み始めて、数冊。少なくとも、自分たちの魔法理論との乖離は見られない。つまり、この世界で魔法が使えない理由は、この世界固有の理が原因ではない可能性が高くなったということだ。
『であるならば、答えは一つですね』
「…………ねぇ」
「ん?」
「何か、その、聞きたい事とかある?」
「いや、ないよ。今のところ」
「そ、そう」
部屋の真ん中にある小さな椅子にちょこんと座っているアテアラが、じぃっと据わった目つきでシロを見ていた。
言葉はそこで終わっていたが、心の内の不満は隠せていない。
『何か聞いてあげた方がいいんじゃないですか?』
「……あ、そうだ。アテアラ」
「! な、なに」
「こ、ここら辺の説明聞きたいなぁ、なんて」
ウルスの助言に従い、開けていたページを一枚捲って、訊ねた。
思えば部屋に入ってから、数十分。
黙々と本を読み続けたシロを、手持無沙汰で眺めていたアテアラ。配慮が足りなかったと言わざる終えない。
「……えっと、え、これ? 知りたいの?」
「ん? まぁ?」
「そ、そう」
アテアラのほほが僅かに赤くなり、動揺から視線が泳いでいた。
『主、これはまずいかと』
『? なにが?』
シロが呼んでいた本には、薬草、薬学が主題の本だ。魔法に使える媒介や、生成時過程に魔法を用いるモノ、魔法と組み合わせて効果が上がるものなんかも記載されている。そのほか、毒薬についても書かれていた。
ジワリと、嫌な汗が全身から溢れた。
手首を返し、自らが開いたページにシロはそっと視線を送る。
「び、媚薬」
いつの間にか耳まで真っ赤に染めた、アテアラが顔を伏せながら、声を震わせて言った。
『セクハラですね』
他人事のように、脳内で人工知能が指摘する。ウルスに視線なんてないが、きっと冷めた目で主の事を見ているだろうとなぜか思えた。
「そ、そっか、媚薬か」
「う、うん。あ、あと、野生動物を錯乱させたり、家畜を繁殖のために興奮させたりにも使うよ。む、むしろそっちのほうがメインだから! た、多分だけど」
「そっか」
「う、うん」
気まずい空気。逃げるように、再び本に視線を戻し、シロはページをめくった。
『わざとじゃない』
『知ってます』
それからは黙々と、シロは本を読みふけった。
アテアラも先ほどのやり取りで懲りたのか、シロが読み終えた本を懐かしそうに開いて、読みふけっている。
木と紙の匂い、それからページのめくれる音。あとはわずかな息遣い。
まるで本当の図書館のように、静謐な空間だった。
「これは?」
シロが、その本を手に取ったのは、日の暮れ始めた頃だった。
「あ、それ? 私もよくわかんないの。でもおばあ様はとても大切にして本なの」
「白紙だな」
その本には、記述が一切ない。全頁白紙の本。中身はおろか分厚い背表紙にも何も書かれていない。
『わずかな魔力反応があります』
その本は、下段中央。丁度、椅子の真後ろにあった。
椅子に座った人が振り返り、手に取りやすい位置取りだ。
大切にしていたというアテアラの言葉に間違いはないだろう。
『色はありませんが、刻まれていますね』
ウルスの言葉通り、白紙のページに撫でてみると、わずかな凹凸が感じられた。手で触れてわずかにわかる程度。鉛筆などでこすれば、白い線が浮かび上がってくるだろう。
『文字を認識しました』
触覚から凹凸を読み取り、ウルスが刻まれた文字を再現する。
それはシロの視覚野に反映され、白紙だったはずの頁に再構成された文字が出現する。光の文字。
「……シロ?」
自分の世界とは違う言語、形式で書かれた魔導書。
それはオリジナルの言語で書かれたプログラムを読み解くようなものだ。
『これは雛型です』
本来なら何の手がかりもなく、これを読み解くことは不可能に近い。
しかしウルスにとって、それは初等教育の算数を解く程度も物でしかなかった。
優秀な人工知能は、僅か数頁、パラパラとめくっただけで、その中身をほぼ正確に把握していた。
「って、シロ何してるの?」
「いや、ちょっと」
「ちょっとではなく!?」
シロは魔導書へ、魔力を流し込んだ。
家電に電気を通すように、一定の力を絶え間なく。
「ダメだってば!」
「あ」
途中でアテアラの手が伸びてきて、シロの手から魔導書を引っこ抜いた。
「もう、どんな魔導書かもわからないのに! 本当に危ないから!」
「……それは、至極ごもっともで」
中身は把握していた。ウルスの予測が外れている可能性は少ない。
だがそれを上手く説明する事も出来ない。
実際に起動しなければ、証明できないだろう。
「え? え、なんか、光ってる!」
アテアラの手の中で、魔導書が淡い光を放っていた。
魔導書の術式が起動した証拠だった。
「え、あれ、収まった?」
すうっと、光が消えた。魔導書は何を発することもなく、静かにアテアラの手の中に収まっている。
「もう! 勝手に変、な、え」
「アテアラ?」
「なに、これ」
「どうした?」
「え、え、ええええええええええええ! きゃああぁああああああああ!」
シロの言葉など聞こえないようで、アテアラが突然頭を押さえて叫んだ。
混乱し、訳も分からず取り乱すアテアラ。
魔導書が正常に作動したのだと、シロにはわかった。
※※※
「え、あれ、収まった?」
シロから取り上げた魔導書の発光が、消えた。
注ぎ込まれた魔力が足りなかったのだろうか。とにかく一安心だとアテアラはほっと息を吐いた。
「もう!」
アテアラも知らない謎の魔導書。
中にはどんな術式が入っているかもわからず、どう使うかも定かではない。無理やり起動しようとすれば、術者が呪われるものすら存在する。
それを、魔力を流して無理やり起動するなんて、何かあったらどうするつもりなのか。魔導書とはそれだけ危険なものなのだ。
アテアラは眉を吊り上げ、本気で怒っていた。それが祖母の教えでもあったからだ。
「勝手に変」
『うるせぇ、ちょっと黙ってろ。能無し』
「な、え」
突然の事だった。頭の中に、声が響いた。それは鼓膜を通っていない。音ではなく、その情報が直接頭に届けられたような感覚だった。
「なに、これ」
『大体、誰だよ、お前は。ばーかばーか』
「え、え、ええええええええええええ! きゃああぁああああああああ!」
自分の中に異物が紛れ込んだような、不快感。アテアラの肉体がその声に反発するように反応し、手に持っていた魔導書を放り捨てた。
「はぁ、はぁ、何、今の」
一体何だったのだろうか。あの声が何なのかはわからないが、原因があの魔導書だということだけはわかった。
「って、シロ、それ拾ったダメ!」
制止の声も間に合わず、投げ捨てた魔導書をひょっいとシロが拾った。
『――――』
『主への干渉を確認、強制的に排除しますか?』
『いや、いいよ』
魔導書が何かを言いかけると同時に、ウルスの言葉が響いた。どうやら魔導書がシロに干渉しているようだが、それをウルスが一時的に遮断したのだ。
『――い! きやすく触ってんじゃねぇぞ!』
ウルスが遮断を止めると、頭の中でうるさい声が響いた。シロが顔をしかめながら、魔導書を机の上に置くと、同時にその声を消える。
「……な、なんなの、かな、それ」
「とりあえず害はなさそうだぞ。うるさい以外。それも手を離せば消える」
シロの手は魔導書の上に置かれていた。
アテアラも震える手をゆっくりと近づけて、指先でちょんと、触れた。
『おい、お前、汚い物触るみてぇな態度やめ』
頭の中でが鳴る声にびっくりして再び指を離してしまった。
一度深呼吸をしてから、もう一度、そっと触れる。
『なんなんだお前は!』
「そ、それはこっちのセリフですけど」
『説明してやる義理はねぇな』
シロと視線があった。どうやら彼にもしっかりこの声は聞こえているらしい。
『いや、説明はしろよ』
それはシロの声だった。といっても、彼の喉から発せられたものではない。本を返して、脳内に響いた声だった。
『うるせぇな。お前だろ、俺を乱暴に起こしやがって。それより婆ぁはどうした! 婆ぁ!』
「お、おばあ様は亡くなったわ」
魔導書の乱暴な言葉が、誰を呼んでいるのかくらい、アテアラにもすぐわかった。
だから咄嗟に、答えた。言葉にした瞬間、今もまだ、少女の胸をちくりと刺す痛みがあった。
『は』
言葉が、消えた。脳内で響きわかっていたがなるような大声が。
それから少しして。
『……あぁ、そうかい』
と魔導書は小さく呟いた。
それからしばらく触れていたが、魔導書はそれから何も言葉を発することはなかった。
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