7

 翌日、レーン・ピエトル大聖堂の中にはセティの姿があった。

 ひざまずいて祭壇の奥に建つ海神の像に向かって熱心に祈りをささげるセティを見つけたエレナは、彼女の祈りの邪魔をしないように静かに近づく。

 エレナは今日、セティと話をするというジュリアと一緒に、彼女が訪れるであろう大聖堂を訪れたのだ。

 人魚たちは約束通り噴水の故障を直してくれて、人々は後片づけに追われているが、レーン・ピエトル大聖堂は高いところにあるので、まったく被害はなかった。

 エレナとジュリアは、近くのベンチに腰をかけて、セティの祈りが終わるのを待った。

 セティは一心に祈っていて、エレナとジュリアには気がついていない様子である。

 やがてセティが祈りを終えて顔を上げると、ジュリアが「セティ」と呼びかけた。


「十年ぶりね。すっかり大人になっちゃって、わからなかったわ」


 セティは振り返ると目を丸くした。「ジュリア」と口が動く。


「こんにちは、セティさん」


 エレナが話しかけると、セティはジュリアとエレナを交互に見ながら首をひねった。


「あたしたち一緒に旅をしているのよ。そんなことより、ちょっと話せるかしら?」


 セティが頷いたので、エレナたちは彼女とともに大聖堂を出て、人の少ない岬の方へ向かう。王都のあちこちで水の被害の片づけがされていて、落ち着いて話せる場所がないのだ。


「この前そこで、あんたのお姉さんたちと会ったわよ。あんたを説得してって言われちゃった。あんた、あれほど考え直せって言ったのに、あたしが渡した薬、飲んじゃったのね」

『ごめんなさい』


 セティが口の動きだけでそう告げる。

 岬からはエメラルドグリーンの海が一望出来て、セティは懐かしむように目を細めた。


「一応、あんたの姉たちから頼まれてるから言うだけ言うわよ? 王子を捨てて海に帰る気はないの?」


 セティは包帯の蒔かれている右手をそっと押さえて、『帰らない』と口を動かした。

 ジュリアは肩をすくめて「そうでしょうね」と言う。


「ちなみにこれはあたしの興味本位な質問だけど、その王子のどこがいいの?」

『優しいの』

「軟弱と優しいのを勘違いしてるんじゃないの? ……って、睨まないでよ。悪かったわよ。優しいのね、はいはい」

「セティさんはマギルス殿下のことが本当にお好きなんですね」

『大好き』

「このままだと一生侍女かもしれないわよ?」

『それでも、いい』

「……やっぱだめだわ、こりゃ」


 海に連れ戻すなんて無理に決まっていると、ジュリアはあっさりさじを投げる。

 ジュリアはエレナに向かって人差し指を向けた。


『あなたは、ユーリ王子のこと、好き?』


 直球な質問を受けてエレナは赤くなったが、こくんと頷くと「はい」と答える。

 ジュリアが「あーやだやだ、のろけられてばっかり」と揶揄してくるから、エレナはさらに真っ赤になったが、セティはにこにこと笑って『大好き』と繰り返す。

 本当にマギルスのことが好きなのだろう。リザベルにあれほどつらく当たられても逃げ出さないほどに。

 ジュリアは肩をすくめた。


「その王子の何がいいのかわからないけど、そんなに好きなら仕方ないわね」


 そもそも真面目に説得するつもりのなかったジュリアは、これで人魚たちとの約束は果たしたとばかりに話を終わらせようとした。

 けれども――


「認めないわ!」


 岬の崖の下から声がして、セティが慌てたように崖の近くまで駆け寄る。

 エレナとジュリアも崖下を見下ろすと、そこには何人もの人魚たちがいた。


「あの王子はほかの女と結婚して、セティに身の回りの世話をさせているのよ!」

「このままセティがあの王子の世話をするなんて許せないわ」

「いい加減、目を覚ましなさい!」

「あなたは誇り高き人魚の国の姫なのよ!」


 人魚たちが口々に言うが、セティは首を横に振って否を告げる。

 人魚たちは尾ひれで何度も海面を叩きながら、帰って来いと言うが、セティの意志は固く、きゅっと口を引き結ぶと姉の人魚たちから視線をそらした。


「もういいわ! あなたがそのつもりなら、こっちにだって考えがあるのよ!」

「あの王子、公務で桟橋にいるんですってね?」

「新しい船の進水式があるのよね!」

「ふふん、もともと海の底に沈んで消えていたはずの命ですもの、かまわないわ!」

「あの王子がいなければ、あんたも目を覚ますでしょ!」


 セティはハッと目を見開いた。『待って――』とセティの口が動くが、人魚たちは水音を立てて海の底へと消えてしまう。

 セティは身をひるがえして駆け出した。


「エレナ、セティを追うわよ! あの人魚たち、またろくでもないことを思いついたんだわ!」


 ジュリアがそう言ってセティを追って走り出したから、エレナも慌ててそれを追いかけた。

 セティが向かったのは王都にある大きな桟橋で、海の上には大きな客船が浮かんでいる。

 エレナたちがたどり着いたとき、マギルス王子は桟橋から船の上に登って、甲板で手を振っていた。今からマストを上げるらしい。隣には彼の妃であるリザベルの姿もあった。

 セティは人の間を縫うように走って、桟橋の端から船を見上げた。マギルスがセティに気がついて小さく笑う。そのとき。

 突然、巨大な船が大きく揺れて、桟橋に集まっている人達から悲鳴が上がった。船の上でもリザベルの甲高い悲鳴が響く。

 船の揺れはどんどん大きくなって、ついに甲板に立っている人たちがその揺れに耐えきれず海に投げ出されはじめた。


「ジュリアさん、なんとかできますか?」

「あの大きさだもの、すぐには無理よ!」


 船から海に投げ出された人たちが、揺れる船が起こす波にあおられる。


「殿下!」


 船の上から叫び声が聞こえて顔を上げると、マギルス王子が船の甲板から振り落とされ、空中に投げ出されたところだった。


「セティさん!」


 エレナの目の前でセティが海に飛び込む。

 海に投げ出されたマギルス王子は、海面で必死にもがいていたが、波にあおられて徐々にその体が沈んでいき、ついに頭のてっぺんまでが海に飲み込まれた。

 セティがマギルスを追いかけるように海に潜る。二人はなかなか上がってこず、エレナが祈るように胸の前で指を組んだとき、ざばんと音を立てて海面からセティの顔が出た。隣にはぐったりとした様子のマギルス王子もいる。


「ちょっとどきなさい!」


 準備を整えたジュリアが、人だかりを押しのけて、海に向かって両手を突き出した。


「波と船は止めてあげられるから、その間にさっさと海から上がりなさい! 言っておくけど、長くはもたないわよ!」


 ジュリアが叫んだ直後、あれほど揺れていた船や波が嘘のようにぴたりと止まった。

 海に落ちた人やまだ船の上にいる人たちが慌てたように陸へと戻ってくる。

 船から振り落とされずに残っていたリザベル妃は、セティがマギルス王子を連れて泳いでいるのを見て、ぎりっと奥歯をかみしめた。


「気分が悪いわ! 城に戻るわよ!」


 まだ騒ぎは収まっていないが、リザベルは従者にそう告げると、くるりと踵を返して止めてあった馬車へと向かう。


「……この前は手加減してあげたけど、もう許さないわ」


 去り際につぶやいたリザベルの声がエレナの耳に届いて――、その氷のように冷たい声に、エレナはぞくりと悪寒を覚えた。

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