エピローグ

 エレナはゆっくりと目を開けた。


 なんだか頭がぼーっとしている気がする。


(……朝?)


 室内は朝というよりは昼くらいの明るさがあるが、どうしてか眠りについた記憶がない。


(わたし……確か、離宮に帰ってきて、それで……)


 ユーリの誕生日パーティーの騒動のあと、エレナたちはすぐに帰途についた。なぜならパーティーでの一件でエレナはすっかり注目の的になってしまったからだ。人嫌いのユーリに堂々と「俺のもの」と言わしめ、さらに炎の蛇を弾き飛ばしたエレナは、令嬢たちに尊敬のまなざしを、年配のご婦人方たちからは好奇のまなざしを、そして、一部の紳士たちからはその妖精のような儚げな様子から熱いまなざしを注がれた。人に取り囲まれてエレナ自身も困ったが、何よりユーリが新妻に群がる人たち――特に男――に悋気を起こして、少しはゆっくりして行けという国王を振り切って帰ることに決めたのである。


 エレナも、ここまでは覚えている。


 だが、離宮に戻ってきたそのあとからの記憶がプツリと途絶えていた。


 エレナはぼんやりとしたまま部屋の中を見渡した。どうやら離宮のエレナの自室のようである。でも、部屋に戻った記憶がない。


「エレナ!」


 エレナが首を傾げていると、すぐそばでユーリの声がした。見ればベッドに両足をついた黒い犬が――


「わんちゃん……」


「誰がわんちゃんだ!」


 くわっと犬――もとい、狼が怒鳴って、エレナはぱちぱちと目を瞬いた。


「ユーリ殿下……?」


 エレナのキスで人間に戻れるとわかってから、しばらく見ていなかったユーリの狼の姿である。


 ユーリはぴょんとベッドの上に飛び乗ると、前足をぺたっとエレナの額に乗せて、それから低く唸った。


「……この姿では、いまいちわからんな」


 ユーリは足を下ろすと、金色の瞳でじっとエレナを見つめた。


「まだぼーっとしているようだが、どうだ、苦しいところはないか?」


「苦しい、ところ……?」


 言われてみれば、喉が痛いような気がする。だが、それ以外の不調は見当たらない。


「お前、離宮に戻った途端に高熱を出して倒れたんだ。二日眠りっぱなしだった。おそらく、パーティーでの緊張や疲れから来たんだろう」


「そう、だったんですか……。あ、だから殿下はその姿に……?」


 エレナのキスの効果はおおよそ一日だ。


 ユーリはふんと鼻を鳴らした。


「眠っている女にキスをするのは失礼だとライザックが言ったからな。我慢していたんだ」


 偉いだろうと言いたそうに胸を張るユーリに、エレナはついつい笑ってしまう。


「何か食べられそうか? ああ、飲み物を持ってきてやる。ちょっと待っていろ」


 ユーリがそう言ってベッドから降りようとしたから、エレナは慌てて呼び止めた。なんだ、と振り返ったユーリに、エレナはそっとキスをする。


 次の瞬間、エレナの目の前で人の姿に戻ったユーリは、見る見るうちに顔を真っ赤に染めた。


「な、なっ、何だ急にっ!」


 ユーリは不意打ちに弱いらしい。


 狼狽えながらベッドの上掛けを手繰り寄せて裸体を隠そうとするユーリの手を、エレナはそっと握りしめた。


「殿下、わたしをここへ連れて帰ってくれて、ありがとうございます」


 ユーリはエレナを手放さなかった。ユーリが大丈夫と言ってくれたから、怖かったけれども父に歯向かうことができた。ユーリががんばってくれたから、エレナはここに帰ってこられた。


 ユーリが――、ユーリだけが、エレナに居場所をくれたのだ。


 ユーリは赤い顔をしたまま、ふいっと顔をそむけた。


「お前は俺の妻だろう! 夫が妻を連れて家に帰っただけだ。感謝される理由がわからん!」


「はい」


「……なんで笑うんだ」


「嬉しくて」


 当り前のようにエレナを「妻」と言ってくれるのが嬉しかった。そんなことを言えばあきれられてしまうだろうか。


 ユーリは上掛けをぐるぐると自分の体に巻き付つけてベッドを下りた。


「着替えて、飲み物と食べ物を持ってくる。あとミレットたちも心配していたから知らせてくる。あと、それから」


 ユーリはベッドの上にちょこんと座ったままのエレナを見て、小さく笑った。


「春になったら、式をあげよう」


「式……?」


「結婚式だ」


 エレナは目を見開いて固まった。


 ユーリは硬直してしまったエレナの姿を見て声をあげて笑いながら部屋を出ていく。


 大声でライザックたちにエレナが目を覚ましたことを注げているユーリの声を聞きながら、エレナは両手で頬を押さえた。


 どんどん顔が熱くなっていく。


「結婚式……」


 ユーリは、結婚式を挙げてくれるらしい。


 エレナは自分の頬が緩むのを感じながら、そっと窓の外を見る。


 こんなにも春が来るのが待ち遠しいのは、はじめてだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る