10
城で開催されるユーリの二十歳の誕生日パーティーは二か月半後にあるらしい。
生まれてから一度もダンスをしたことのないエレナは二か月半後までに何とか形だけでも整えなければならなかった。
マダムのドレスはまだ仕上がらないが、ユーリが既製品を数着購入してくれたので、それを着て、エレナは毎日ダンスレッスンである。
まさか狼がパートナー役をするわけにもいかず、レッスンの相手はライザックだ。そこに指導者として執事のマルクスも加わり、ミレットのピアノに合わせてワルツのステップを練習中である。
ユーリはレッスン部屋の窓際に寝そべって、どこか不貞腐れたようにその様子を見ていた。
「おい、近いぞ。そんなにくっつく必要はないだろう、離れろよ!」
時折、苛立たし気にこうして口をはさんでくる。
そのたびにライザックに「やきもち?」と返されて機嫌を害してはぎゃんぎゃん怒鳴っていた。
ダンスレッスンが終わるとティータイムの時間が設けられて、ユーリはエレナの隣に座ると、ケーキをよこせと口を開ける。
「甘いものがお好きなんですね」
エレナが自分の分のケーキをフォークで一口大に切ってユーリの口に運べば、ライザックがあきれ顔を作った。
「自分で食べろよ、そこに用意してあるだろ」
「口の周りがクリームでべたべたになるだろう」
「なればいいじゃないか。面白いし」
「なんだと!」
ユーリがくわっと牙を剥く。
「エレナちゃんのために用意しているのに、お前が食べたらなくなるじゃないか」
「あの、わたしは、別に……」
喧嘩に発展しそうな気配がしてエレナが慌てて間に入ろうとすると、ユーリが金色の瞳でじっとこちらを見つめてきて、それから右の前足で自分の目の前にある皿をついとエレナのほうに押しやった。
「これでいいだろう」
「……そういうことを言ってるんじゃないんだけどな」
ライザックははーっと息を吐き出したが、ユーリがエレナにケーキを食べさせてもらうのは止めなかった。
ケーキを食べ終わると、ユーリはエレナの膝の上に顎の乗せて昼寝をはじめる。
恐る恐る頭を撫でてみると、ユーリは耳をぴくぴく動かすが、怒りはしなかった。
(ふふ、かわいい)
最初は恐ろしかったが、最近は鋭い牙を持ったこの狼のことが何だか大型犬みたいで可愛いと感じているエレナである。
果たして、自身の夫に「かわいい」という認識を持つのが世間一般に正しいのかは、わからないが。
夜になって寝る支度をしていると、ユーリが入ってきた。
彼ははじめて会った日の夜から毎日、エレナのベッドで休んでいる。
最近は、エレナが寝ぼけてユーリをぎゅうぎゅう抱きしめても、前ほど怒らなくなった。
ユーリがベッドに乗ると、エレナは彼の上に上掛をかけてやる。そしていつもならすぐに寝入ってしまうのだが、今日の彼は少し違った。
「お前、嫌じゃないのか?」
「なにがですか?」
「だから、狼に嫁がされて嫌じゃないのか? 俺にはお前に女としての普通の幸せなんて与えてやれない」
エレナはきょとんとした。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったからだ。
エレナは王家に対して――ユーリに対して、ノーシュタルト一族のしでかした贖罪として嫁いできた。エレナがこの結婚に対して何か不満を持つ資格はどこにもない。だが、その答えはこの場では不適切な気がして、エレナはちょっと考えて答えた。
「……わたし、幸せですよ」
「は?」
「だから、幸せです。ここにいる皆さんはとても親切ですし、ユーリ殿下も、優しいです」
ノーシュタルト一族の最果ての地で暮らしていたときとは比べ物にならないくらいに穏やかな日々。父や異母、異母兄妹たちの使用人として暮らしていた時は、きっと遠くない将来、自分は死ぬのだろうなと思っていた。そのくらい毎日がつらく、苦しく、自分がどうして生きているのかもわからなかった。だから、温かい部屋で寝起きして、普通に食事が与えられ、みんなに優しくしてもらえるここは、信じられないくらいに幸せな場所だ。
「わたし、ユーリ殿下に嫁いできて、とても幸せです。……あ、わたしが幸せになったら、殿下の目的を果たせませんね。ど、どうしましょう」
エレナはユーリがノーシュタルト一族の女を妻に迎えたのは、自身に呪いをかけた一族への復讐のためだったと思い出して眉を八の字に下げた。ユーリは嫁いできた女をいじめて泣かせて憂さ晴らしすると言っていたから、エレナが幸せだったらきっと面白くないことだろう。
おろおろするエレナからユーリはぷいっと顔をそむけると、一言「馬鹿か」と言った。
それからしばらく黙り込んでしまったが、やがてエレナの方へ顔を戻すと、目を伏せて言った。
「俺が満月の夜に人の姿に戻れることは聞いただろう?」
「はい、ミレットから聞きました」
「魔女はどんな気まぐれか、満月の夜だけ俺が人間の姿に戻る機会を与えた。だが、それは永遠じゃない。俺が満月の夜に人に戻れるのは、二十歳の誕生日を迎えるまで。二十歳の誕生日を迎えたそのとき、俺の呪いは完全になるそうだ。二十歳をすぎれば、たとえどんなにすごい魔術師が現れたとしても、解呪することはできなくなる。俺は永遠に、狼のままだ」
エレナは息を呑んだ。
ユーリは片目だけ開けてちらりとエレナを見た。
「おそらく、ノーシュタルト一族の女を妻に迎えさせたのは、親父の――国王の、最後の希望だったんだろう。万に一つの可能性にかけたかったのかもしれない。俺からすれば、ノーシュタルト一族の長でも解けなかった呪いを解ける女がいるはずもないのに、馬鹿な父親だなと思わんでもないが……、親父は昔から必死だった。俺はとっくにあきらめていたのに、親父だけはあきらめなかった。だから俺はノーシュタルト一族の女を娶ることにしたんだ」
ユーリはふうと細く息を吐くと、小さく「悪かったな」と言った。
「俺があの時断っていれば、お前は動物なんかに嫁がされずにすんだ。きちんとした人間の、もっとずっといい男の妻にもなれたかもしれないのに、俺のせいでお前は一生狼の妻だ。嫌になったら言え。離縁してやることはできないが、好きな男を連れ込んで一緒に暮らすことくらいなら許してやれる」
「そんなこと……、わたしは――」
幸せだと言ったのに。
でもきっと、今のユーリは必死になってそれを伝えようとしたところで、信じてはくれないのだろう。
やがてユーリが寝息を立てはじめると、エレナはそっと腕を伸ばして、その体を抱きしめた。
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