6

「ええっと……、ユーリ殿下は狼なんですか?」


 どうやって部屋に戻ったのかわからなかった。


 気がついたら自室にいて、目の前のソファの上でごろごろと寝そべっている狼――もとい、ユーリがいた。


 漆黒の艶々した毛に覆われた金色の目の大きな狼。まさか狼が自分の夫だとは思っていなかったエレナはどうしていいのかわからない。


 狼は鋭い牙を見せながらくわっと大きなあくびをした。


「俺は確かに狼だが、別に狼に生まれたわけではない」


「は、はあ」


「生まれた直後に呪いをかけられたのだ。お前の一族――ノーシュタルト一族の魔女にな」


 エレナは息を呑んだ。


 第二王子ユーリが呪われている。それは嫁ぎ先が決まった時に父から「ロデニウム国の呪われた第二王子」と言われていたし、バネッサも言っていたから知っていた。けれども、まさか王子が狼で、彼をその姿に変えたのがノーシュタルト一族の誰かだとは思わなかった。


 父は――、知っていたはずだ。


 ノーシュタット一族がしでかしたことを、一族の長である父が知らないはずはない。つまりは、父は知っていて、王家との縁談を受けたことになる。いや――


(ああ……、だから断れなかったんだわ)


 ノーシュタルト一族はどこの国にも属さない。そして、一族が外に出ることをひどく嫌う。外から誰かが嫁いでくることはあっても、外に出すことはほとんどない。それなのに王家との縁談を受けた――、しかも長の娘を差し出すことにしたというのは、おかしいとは思っていたのだ。つまり、一族のものが王家の王子を呪い、それに対する見返りを求められたのだろう。そして父は断れなかった。それは――


(ユーリ殿下にかけられた呪いが、解けなかったんだわ……)


 父は一族の中でも大きな力を持っている。その父が解けなかった。もちろん、解呪の術は非常に難しいものだ。呪いをかける術者の力に比例してその呪いは強くなるし、禁呪は非常に複雑で難解。けれども、一族の長が、どこのだれかは知らないがノーシュタルト一族のものが施した呪いが解けなかった。


 それは父の矜持をひどく傷つけただろう。


 同時に、父に王家の要望を断る道を絶たせたのだ。


 父はバネッサをひどくかわいがっている。今回、都合よくエレナを使うことを思いついたようだが、それでも一時はバネッサを差し出すつもりだった。代償として。


「ご、ごめんなさ……」


「謝るな」


 力のないエレナには謝ることしかできない。エレナが嫁いだところで、ユーリの呪いを解くことはできない。王家はもしかしたらノーシュタルト一族から迎えた嫁が解呪できるのではないかと思ったのかもしれないが、エレナには到底無理な話だ。無能ものであるエレナには。


 しかしユーリは謝ろうとしたエレナを遮った。


「言っておくが俺は期待をしてノーシュタルト一族から嫁を取ったわけではない」


 では何だろう? エレナが首をひねれば、ユーリはにたりとひどく意地悪そうに笑った――気がした。実際のところ、金色の目をすがめて牙を見せただけで、笑っているようには見えなかったが、エレナにはどうしてかそう見えた。


「いびり倒すためだ」


「い、いびり倒す……?」


「そうだ。俺の人生をめちゃくちゃにしやがったノーシュタルト一族の女を死ぬまで苛め抜いてやれば少しはスカッとするかもしれないだろう。だから父が話を持ってきたときに受け入れる気になったのだ。どうだ、名案だろう」


 名案なのだろうか。少なくとも苛め抜かれる対象のエレナとしては到底そうは思えない。


「い、苛め抜くって例えば……?」


「そうだな。一生こき使って、噛みついて泣かして……」


 言いながらユーリは低く唸った。それ以上は思いつかなかったらしい。しばらく唸った後で、どうでもよくなったのか、ぱたりと耳を伏せてソファに長く寝そべった。


「とにかく、いじめて泣かしてその泣き顔を見て笑ってやろうと思っていたのに、お前のせいで計画が狂った。拍子抜けだ。どうしてくれる」


「よく、わからないのですが……」


「お前を泣かせても面白くなさそうだと言っているんだ!」


「は、はあ……」


 エレナは自分が面白い女だとは思っていないが、ユーリの言い分はよくわからなかった。でも、どうやらエレナをいじめて楽しむつもりはないらしいとわかってほっとする。人から殴られたり蹴られたり鞭うたれたりすることは、ノーシュタルト一族の最果ての半島で暮らしているときは珍しくなかったが、あの痛みに慣れることはなかった、できれば痛い思いはしたくない。ユーリの牙は、鋭くて痛そうだ。


「あの、ありがとう、ございます」


 いじめないと言ってくれたのだからお礼は言ったほうがいいだろう。そう思って告げると、ユーリは金色の双眸を半眼にして「やはりバカじゃないのか」と言った。


(わたし、さっきからそんなに変なことを言っているかしら……?)


 さきほどからユーリはエレナのことを馬鹿馬鹿言っているが、エレナにはその理由がわからない。


 ユーリはため息をつくように大きく息を吐き出して、ソファから降りると、のそのそとエレナのベッドに向かって歩き出した。


「お前と話していると調子が狂う。もう遅いし、俺は寝るぞ」


「あ、はい。おやすみなさい」


 答えてから、エレナははたと気がついた。ユーリはどうやらエレナのベッドの上で眠るつもりらしい。ならばエレナはどこで寝たらいいのだろうか。邸の主人であるユーリに出て行けと言うわけにもいかず、先ほどまでユーリが寝そべっていたソファを見る。ソファは広く、暖炉が炊かれているから、上掛がなくても寒さには耐えられるはずだ。ノーシュタルト一族の暮らす地で暮らしていた時は暖炉もなく、ぼろぼろの毛布にくるまって、隙間風だらけの小さな離れ小屋で寝起きしていたのだ。それに比べれば天と地ほどの差がある。


 エレナはベッドをユーリに譲って、ソファに寝そべろうとした。しかし――


「何をしているんだ、さっさと来い」


 器用に布団の中にもぐりこんだユーリがイライラしたようにエレナを呼んだ。


 エレナがきょとんと顔を上げると、もう一度、今度は強めに「早く来い!」と怒られる。


 何か用事だろうか? エレナが不思議に思いながらベッドに近づくと、ユーリがイライラしたように、


「いつまでも突っ立ってるな! さっさと入れ!」


 と鼻先で上掛を少しだけ持ち上げた。


 一緒に眠れと言うことだろうか。でも、相手はこの邸の主で、自分は――


(あ、わたし、奥さんだった)


 エレナはここに自分が「嫁いできた」ということを思い出した。いや、覚えていたがあまりに実感がなさすぎて、きちんと事実として理解できていなかったのだ。つまり、エレナはこの狼の姿をしたユーリの妻であって、彼の隣で眠ることはおかしいことではない――はずだ。


 エレナが緊張しながらベッドに横になると、ユーリは満足したようだった。


「おやすみ」


 そう言って、エレナの横ですぐに寝気をかきだしたから、エレナもゆっくりと目を閉じる。


(なんだか、変な感じ……)


 でも、嫌な感じはまったくなくて。


 エレナはくぴくぴという少し不思議な夫の寝息を聞きながら、やがて心地よい眠りに落ちていった。

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