5

 ユーリ王子は食事の時間も姿を現さなかった。


 使用人たちが主人であるエレナと一緒に食事をとることはなく、広いダイニングでポツンと夕食をとるのはひどく淋しかった。


 ライザックは「そのうち」顔を見せると言うが、本当に姿を見せてくれる日は来るのだろうか。


 それに、呪われている、というのが少々気になる。


 王子はいったい何に呪われているのだろう。できれば会った時に驚かないためにも事前情報が欲しかったが、こちらから聞くのは憚られて、エレナはまだ切り出せずにいた。


 夕食後、入浴を終えてエレナは針を動かしながら考える。人にかしずかれることも、豪華な食事も、誰かに手伝ってもらう入浴も、すべてがはじめてのことで緊張したのか、目が冴えて全然眠れそうになかったから、昼間やりかけたクッションカバーの続きを縫うことにした。


 手触りのいい紺色のドレスをリメイクしたクッションカバーは、色味的に淋しい気がして、四隅に刺繍を入れることにした。


(ユーリ殿下ってどんな方なのかしら……?)


 せめて絵姿だけでも見たかったが、離宮にはユーリ王子の肖像画は飾られていないらしい。


 ライザックによると、黒髪に同じ瞳を持った背の高い青年だそうだ。あと三か月で二十歳になるらしい。


 王子がどうしてノーシュタルト一族の娘と婚姻を結ぶことになったのかはわからないし、突然降ってわいたような婚姻だけれども――、優しい方だといいなと思う。


 エレナはまだ見ぬ夫の姿を想像しながらチクチクと針を動かし続けて、やがて眠たくなってきたために手を止めた。


 そろそろ休もうと、ふかふかのベッドにもぐりこむ。シーツは驚くほどすべらかで、適度に体の沈み込むベッドはとても心地いい。


 父から言われたとき、最初はとても驚いたけれど、ライザックやミレットたちも優しいし、ここに来られてよかったなと思いながら目を閉じたとき、遠くで大きな物音が聞こえて目を開けた。


 物音は、どうやら外からしているようだ。


 それに交じって、低い、何者かのうめき声のようなものも聞こえる。


(外に誰かいるのかしら……?)


 外は雪が積もっている。夜は特に寒いはずだ。もしも誰かが外にいるのならば、寒さで凍えてしまわないだろうか。


 心配になったエレナはベッドから降りるとカーテンを開けた。けれども夜の闇が濃すぎて何もわからず、悩んだ末に、少しだけ様子を見に行くことにした。


 夜着の上に分厚い外套を羽織って、エレナはそっと部屋から出ると、中央階段を下りて玄関へ向かう。廊下や玄関には小さな明かりがともされているから、薄暗いが、足元がおぼつかないということはない。


 使用人たちを起こさないように静かに玄関を開けると、途端に冷気が肌を刺した。思わず首をすくめて、エレナは目を凝らす。


 玄関の横にはオイルランプが絶えず点灯しているから暗くて周囲が見えないということはないけれど、やはり夜の闇に包まれた外は不気味だった。針葉樹の黒い影がまるで幽霊たちの影のように思ええて、エレナはふるりと体を震わせると、早く周囲を確認して邸の中に戻ろうと思った。


 先ほど聞こえたうめき声が風のいたずらならそれでいい。ただ、外に誰かがいないことだけを確認して安心できればそれでよかった。


 エレナは雪の上を慎重に進みながら、庭先へ降りた。その時だった。


(ひっ!)


 突然、獣の低いうなり声のようなものが聞こえてきて、エレナはぎくりと足を止めた。


 門扉は閉まっていて、邸の周りは高い塀で覆われている。森から獣が入り込まないように夜も明かりをともしている。だから、庭に獣が入り込むはずはない。そう言い聞かせるけれども、耳を打った低いうなり声と、どくどくと大きく波打ちだした心臓にエレナは焦燥を覚える。


 何かがいる――


 エレナは逡巡した。


 もしも、だ。もしも獣が入り込んでいるのならば、すぐに邸に引き返したほうがいい。けれども、部屋で聞いたような気がした声の主が、その獣に襲われているのであれば、このままエレナが邸に帰ったらどうなるだろう。


 もちろん、女で、しかもやせ細ったエレナの腕で、獣をどうこうできるはずはない。エレナがいったところで無謀もいいところだ。でも――


 エレナはごくんとつばを飲み込むと、息を殺して、できるだけ足音を立てないように、そーっと声のするあたりに向かってみた。


(だ、大丈夫よね。玄関はすぐそこだもの。もし狼とかがいたとしても、走ったら間に合うわ。たぶん……)


 ゆっくりゆっくり、薄闇に目を凝らしながら近づいてく。


(熊は冬眠しているはずだもの。いるなら狼。あら、狼って冬眠しないんだったかしら? でも、狼じゃなかったら何……?)


 熊でも狼でもなかったとしたら、ほかにどんな怖いものがあるのだろう。


 エレナはぎゅっと両手を握り締めて、そっと庭の奥を伺った――その時だった。


「―――!」


 何か黒いものがエレナの前を横切ったかと思った瞬間、エレナは強い力で雪の中に押し倒された。悲鳴は喉の奥で凍り、声が出ない。エレナの鼻先には、鋭い金色の目をした大きな漆黒の狼がいた。前足でエレナの肩を抑えつけてのしかかっていたのである。


 ガチガチと恐怖で歯が音を立てる。


 狼はじっとエレナを見下ろしているようだった。その鋭い牙がいつエレナの首に食い込むかと考えただけでエレナは気を失いそうだった。だが、ここで気を失ったらそれでおしまいだとわかっていたから、一生懸命に意識を保って、潤みはじめた目で狼の金色の目を見返した。


 狼はしばらくエレナを睨みつけていたが、ややして彼女の上から静かに退いた。


「……え?」


 仰向けに倒れこんだまま、エレナが驚いて目をぱちぱちとしていると、狼はそんなエレナを見てチッと舌打ちをした。舌打ちである。


 エレナは聞き間違いかと思って首を巡らせて狼を見た。


 金色の瞳がエレナを見返し、そしてそれはすっと細くなった。


「阿呆なのかお前」


「……。……え?」


「だから、阿呆なのか」


 エレナは目を見開いた。


 すると狼はのそのそとエレナに近づいて、その頬に鼻先を近づけた。エレナがびくりと肩を揺らすと、少し離して、フンと鼻を鳴らした。


「いつまでも寝そべっているな。風邪をひくぞ。そんな鳥の足みたいに細いんだ、風邪なんて引いたらすぐに死ぬぞ」


「え……と……」


(しゃべってる?)


 聞き間違えでなければ、先ほどから狼がしゃべっている。


 エレナは思わず自分の頬をつねってみた。痛い。夢じゃない。夢じゃない?


 雪の上にあおむけに倒れたまま首をひねっていると、狼が苛立ったように鼻先でエレナの肩を押した。


「いいから起きろ。さっさと起きろ」


 エレナは茫然としたまま、言われるままに体を起こした。


(自分で押し倒したくせに。でもなんでしゃべってるの? わたしが襲われなかったのは、鳥の足みたいで食べるところがなさそうだからなのかしら?)


 いろいろ混乱してきた。


 混乱しすぎたせいか恐怖はどこかに消え失せて、立ち上がるとまたうんうん唸りだしたエレナに、狼ははーっと大きな息を吐いた。


「なんだお前、拍子抜けするな。ノーシュタルト一族の女が嫁いで来たら散々脅して泣かしてやろうと思ったのに、予定が狂った。どうしてくれるんだ」


「そんなこと言われても……」


「というかなんでそんなに細い。ノーシュタルト一族はみなそんなに細いのか。どうなんだ」


「……そ、そんなことはないと思いますけど」


「つまりそれが普通だと?」


「い、いえ。そうじゃなくて……。みんなは、普通で、わたしがその、貧相なだけで……」


 言っていて悲しくなってきたエレナは、そっと外套の前を掻き合わせた。貧相なのはわかっている。胸だってペタンコだし。全身骨ばっているし。全然女性らしい丸みがない。わかっているけど、狼にまでそんなことを言われなくたっていいのに。


 狼はまたじーっとエレナを見つめて、それからくるりと踵を返して玄関のほうへ歩き出した。


「まあいい。風邪をひく前に戻るぞ」


 戻るぞって、どこに戻るのだろう?


 まさかこのまま狼の巣にエレナを連れ帰るつもりなのだろうか?


 不思議に思っていると、狼は振り向いて「早くしろ!」と苛立ったように言った。


 狼を怒らせると食べられてしまうかもしれないと考えたエレナは、素直に「はい」と頷いて狼の後を追ってみた。すると狼は玄関の前で跳躍して器用に玄関の扉を開けると、くいと顎をしゃくった。


「あ、あの……」


 エレナは狼の後を追って邸の中に入りながら、もしかしたらと思った。


「もしかして、あなた、ユーリ殿下が飼っている狼さん?」


 すると狼はくわっと牙をむいて怒鳴り返してきた。


「誰が飼われているんだ! 俺がこの屋敷の主人のユーリ・ロデニウムだ。馬鹿者が」


 エレナは愕然と目を見開いて、その場に立ち尽くした。

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