7

「おい、おいったら!」


 どこかで誰かの声がする。


 なんだかその声はすぐ近くから聞こえてきたような気もするけれど、気のせいかもしれない。


 エレナはうとうとと夢と現実の狭間をさまよいながら、もふもふと心地いい感触にすり寄った。


 すごく暖かくて、もふもふしていて、すりすりとすり寄るととても気持ちがいい。


 それが何かはわからないが、エレナはひどく手放しがたくて、腕の中のもふもふしたものが何故か動いたような気がして、逃がすまいと必死に手足を絡めた。


「おい、起きろっ」


 よくわからないが、聞こえてくる声がさらに大きくなって、何やら焦ったような響きを持つ。


 でもわからないから、エレナはわからないことは無視することにして、ぎゅーっと腕の中のもふもふを抱きしめる。


「おい! いい加減にしろ! 破廉恥な女めっ。起きんか!」


 ぎゃんぎゃん耳元で騒がれて、さすがにエレナは眉を寄せた。


 うるさいなぁと思いながらうっすらと目を開けて、ピンととがった耳を見つけて、ああそうかと納得した。


「わんちゃん……」


 くう。


 隣にあるものが犬だと思ったエレナは、安心して再び夢の中へ落ちて――


「寝るな――! この、馬鹿者が―――!」


 腕の中の犬――もとい、狼の叫び声が、部屋中に響き渡った。






 昨日、この離宮の主の奥様として迎えたエレナを起こしに来たミレットは、部屋に入ってすぐに立ち尽くすなり、顔面の筋肉を総動員して表情を作る羽目になった。


 ぴくぴくと口端がひきつるのを感じながら、どうにかキリリとした表情を保っていたが、この取り澄ました表情がいつ瓦解するか気が気でなかった。


 というのも――


「起きろ―――!」


 人嫌いでひねくれもので、生まれてすぐに呪いをかけられて狼の姿にされたという、かなり風変わりなこの離宮の主ユーリが、なぜか奥様の部屋にいて、しかもベッドの上で奥様にひしと抱きしめられて、ぎゃんぎゃんと文句を言っているのである。


 一方奥様のエレナは、まだしっかりと夢の中の様子だ。


 ミレットには、昨日、あれほど頑なに姿を現そうとしなかったユーリがエレナの部屋にいることにも驚いたが、それよりも、口ではぎゃんぎゃん吠えながらもエレナに抱きしめられたまま暴れもしないその姿に驚いた。


 眠りの世界にいるエレナにすりすりと頬ずりをされてはピシッと固まったように動かなくなり、またぎゃんぎゃん文句を言いはじめるユーリの姿に、ミレットは吹き出しそうになる。


(なんなのこれ、面白すぎる……!)


 どんな経緯でユーリがエレナの部屋にいるのかは不明だが、この様子を見るにエレナはユーリにひどいことをされたわけではなさそうだ。ならば面白いから、そ知らぬふりをしてもう少し見ていたいような気もする。


 だが、起きろ起きろと大声で怒鳴られてうるさかったのだろう、エレナの瞼が持ち上がるのを見て、ミレットはこの面白い光景を楽しむのをあきらめた。


「おはようございます奥様。それから、旦那様も」


 ミレットが声をかけるとエレナはぼーっとした顔をこちらに向けた。長旅や緊張で疲れていたのだろう。まだ少し眠たそうだ。


「おはよう、ミレット。……旦那様?」


 エレナは首をかしげて、それから自分がひしっと抱きしめているものを見て徐々に目を見開くと小さな悲鳴を上げた。


「す、すみませんっ」


「すみませんじゃない! ぎゅうぎゅう抱きしめて頬ずりまでしてきやがって、俺はテディベアか! まったく! 男に抱きついてすり寄るなど破廉恥な女だ。まったく!」


「ご、ごめんなさい……」


 男、と言われても目の前の狼の姿にピンとこないが、彼は呪いで狼に変えられただけでもとは人間の男だ。無意識とはいえ、確かにはしたなかった。しゅんとうつむいているエレナの横からするりと抜け出たユーリがベッドから降り、ふるふると体を左右に震わせた。


「旦那様、それよりもどうして旦那様が奥様のお部屋に?」


「俺がどこで寝ようと勝手だろう」


 ミレットの問いに、ユーリはそっけなく返答すると、すたすたと部屋から出て行ってしまう。


 ミレットは肩をすくめて、まだベッドの上でしょんぼりしているエレナのために目覚めのハーブティーをいれはじめた。


「奥様、旦那様にひどいことをされたり、言われてはいませんよね?」


 ティーカップを差し出しながら問えば、エレナは遠慮がちにそれを受け取りながら首を横に振る。


「大丈夫です。驚いたけれど……」


 小さく微笑んだエレナは、カップに口をつけようとして、それからあることに気が付いて顔を上げた。


「あの……、そういえばライザックさんが旦那様は黒髪の背の高い男性だと言われていたような……?」


 ミレットは数秒沈黙したあとで、ため息まじりに言った。


「それは間違いではございません。月に一度だけ――満月の夜だけ、旦那様は人の姿にお戻りになりますが、人の姿の時はそのような姿をされています」


「満月の夜だけ……」


「ええ。ですがそれも――」


 ミレットは途中で言葉を切った。開けたままにしていた扉のところにライザックが立っていて、しっと唇に人差し指を立てていたからだ。


 ミレットは小さく頷いて、にっこりとエレナに微笑みかけると、からになったティーカップを受けとって、エレナを促して立ち上がらせた。


「さあ奥様、本日はどのドレスをお召しになられますか?」

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