十二月の春光

水無瀬いと

一話



 ――これは、少し先の未来の話。



 2xxx年、テクノロジーは飛躍的な進歩を見せ、世界はがらりと色を変えた。


 車の自動運転はもうとっくの昔に当たり前の光景となった。おはようございます、起床のお時間になりました。流ちょうに話すメイドロボットの声で目を覚ますと、ダイニングテーブルの上には既に彼女、もしくは彼が作ったほかほかの朝ご飯が用意されている。ハムエッグと、六枚切りのトースト一枚。コーヒーにはミルクと角砂糖をひとつ。主の好みに合わせられた朝食を胃の奥へと押し込む。本日の予定を読み上げる声を聞き流しつつ、壁に備え付けられた黒い扉を開けば、自動で洗濯・乾燥・アイロンがけまでされたスーツが顔を覗かせた――といった具合に。2020年に普及率九割超えを記録したスマートフォンだって、今では教科書の中の存在だ。現在では既に八割の人類が脳内に直接マイクロチップを埋め込み、電話からネット検索、ひまつぶしのゲームまで文字通りで行っている。最近では、繊維が生物の細胞のように再構成を繰り返すことにより、常に「新しい」状態を保つ洋服なんてものも開発されているらしい。


 合理的かつ効率的な世界。人々は「完璧に生きやすい社会」を目指し、日々進化する街で生きていた。



 頭上に浮かんでいる、ジリジリと青く光る「歩きVR禁止!」の文字を見上げ、少年は小さくため息をついた。鞄に入った封筒が、十キロにも百キロにも思えて仕方がない。今日はこのまま帰ってしまおうかと思ったが、「絶対寄ってきてね」と母親に念を押された今朝のことを思い出し、後頭部の辺りを乱暴に掻いた。カオル、なんて可憐で可愛らしい名前とは裏腹に、母親は強い女性だった。ちろりと大きな瞳で睨まれると、反抗する気すら失せてしまう。

 なるべくゆっくり、どうにかして目的地に着くことなく引き返す方法がないかと考ええながら歩いているうちに、小さな平屋が見えてきた。高層ビルが乱立する中、逆に目を引く古ぼけた家――と、いっても、扉はすべて自動で開くし、部屋の温度は季節に関わらず一定に保たれるようになっている。しかしその程度では、今はもうのだ。


 玄関扉の脇に設置された、指紋認証型ドアロックに右の掌を置く。ピピッという軽い電子音の後、扉が音もなく左右に開いた。家の中からは物音ひとつしない。暗いな、と眉を顰めた。こういうとき少年はいつも、家主が狭い部屋の中ひとりで息絶えているのではないか、と嫌な想像をしてしまう。

「入るよ」

 控えめに声をかけてから、少年は家の中へと足を進める。渡すものだけ渡したら、すぐに帰ろう。最近めっきり寒くなり、日も短くなったから。


「……父さん」

 窓際のデスクに座っていた男性が、ゆっくりと振り向いた。差し込んだ重い鈍色の光が、デスクの上の原稿用紙の白をぼんやりと浮かび上がらせる。「やぁ、久しぶりだな」と彼は無精ひげをなぞりながら微笑んだ。

「先月も来たじゃん」

 電気つけて、と音声指示を送ったが、反応がない。首を傾げていると、父さんと呼ばれた男が眉を下げて苦笑した。

「電気、止められてなぁ」

 これで二回目。またかよ、と呆れながら、鞄の中の封筒を手渡した。さっさと帰ろう。いくら血の繋がった父親だといっても、ひと月に一回会うか会わないかの関係の男性と長時間面と向かって会話をするのは、いささか気まずかった。

「今月の分な」

「やぁ、すまないね。大丈夫だとカオルさんには言ってあるんだが」

「電気止められている人に言われても、説得力ないけど」

「それはそうだ」

 ハハ、と大きな口を開けて少年のような顔で笑った父親に、少年はどんよりとした空気の中でまた大きく息をついた。今日だけで何回目だろうか? ため息をつくと幸せが逃げるなんていう迷信がもし本当ならば、俺の幸せはきっととっくの昔に底をついているな。

「それで? 何か書けてるの?」

 頬杖をつく彼の肩越しに、原稿用紙を覗き込む。そこにはただ薄黄色の罫線が引かれているのみで、文字らしいものはまだひとつも書かれていなかった。

「残念だが、僕はもう今日これ以上書けそうになくてな」

「これ以上って、まだ一文字も書いてないだろ」

「書けない日はいくら座っていても書けないのだよ」

「わざわざ個人輸入までした紙の無駄遣いだな。そんなことに金を使っている暇があるなら、電気代を払った方がいいんじゃない?」

「……君は最近、カオルさんに似てなかなか厳しいことをいうようになったね」

「しっかりしてよ。さん」



 著しい発展を遂げた世界で、まず初めに廃れたものは筆記用具だった。

 タブレットとペンさえあれば、膨大な量のデータをまとめて管理できる。薄い板一枚と比べ、紙はかさばるし、濡れたり破けたり駄目になりやすい。つまるところ、アナログというものは効率が悪いのだ。紙媒体はデジタル媒体と違い、長期保存に向いていると言われていたのだって既に過去の話である。今ではデジタルデータが半永久的に保存・利用できるのは当たり前だ。現在ではもう、国内に紙を生産している会社は存在しない。


「……やっぱさ、別の仕事探した方がいいだろ」

 ちゃんとした職に就いて、そしたらまた、三人で暮らせるだろ。と窓の外を眺めながら誰ともなしに呟いた。どんよりと厚い雲が、十二月の街を覆っている。天気予報は的中。夕方から雨が降るらしい。冬の雨は嫌いだ。寒いし、コートが嫌な臭いになる。

 ああそうだ、両親が離婚したのも、こんな鈍色の光が降る日だった気がする。確か、おれが五歳のときだったから――十二年も前か。おれが生まれても定職に就かず、ショウセツカの真似事なんかをしている父親に、母が愛想を尽かせたのだ。「その『ベストセラー作家』とやらになってから帰ってきなさい!」と一喝した母の姿が脳裏に蘇る。ま、十二年経っても未だ家族三人で食卓を囲むことがないことを考えれば、『ベストセラー作家』さんには程遠いことは容易に想像がつく。

「今はもうこれがある。わざわざ本を読む人なんて、誰もいないよ」

 少年は肩に下げた鞄の中から、分厚いゴーグルのような機械を取り出した。この中には無数の小さな世界が広がっている。



 筆記用具の次に姿を消したものは、本だった。それが衰退するのと比例して、VR――俗に言うヴァーチャル・リアリティ、仮想現実――は大きな進化を遂げた。現実と見紛うほど精巧な「世界」を出現させるだけでは飽き足らず、脳波に微弱な電流で刺激を与えることにより、視覚・聴覚のみならず嗅覚・触覚・味覚までもを仮想世界に融合することに成功した。いつどこにいても、コンマゼロ秒で地球の裏側にまで旅行ができる。一瞬で「物語」の主人公になることができる。

 百聞は一見に如かずということわざがあるように、人の想像力というものには限界がある。文字の羅列から汲み取ったものを脳内で補完しなければならない本と違い、仮想現実は物語を五感で感じることができるのだ。

 本が必要とされなくなった世界で、ショウセツカだと名乗っても、せせら笑われるのがオチである。自信満々にその肩書を口にする父親に、幼少期は大変恥ずかしい思いをさせられた。


「……父さん。父さんがやっていることは、もうとっくの昔に時代遅れなんだよ」

 だからさ、もうやめなよ。とはっきり言うことはできなくて、歯切れの悪い言葉を弄ぶ。ふわふわと空中を漂った言葉の切れ端をどうしたものか。ちらりと彼の方を見ると、気分を害した様子はなくて少しほっとした。男は穏やかな表情のまま、無精ひげを右手の人差し指と中指でなぞっていた。

「……ふむ、そうかもしれんなぁ」

 男は目の前に突き出された小型の機械をそっと手に取る。「仮想」と「現実」を繋ぐ扉は、両の手の内に簡単におさまってしまった。上製本と同じくらいかそれより少し重いだけの、世界への入り口。

「……試してみる?」

 少年は男の手からひょいっとゴーグルを取り上げると、どこに行きたい? なんて尋ねながら手際よくチャンネルを合わせていく。なぜか気まずくて、目を合わせることができなかった。いまだに「小説」に拘る父に、文明の利器を手渡すのは残酷な気がした。「お前なんてもう必要ないんだよ」という現実を突きつけているようで。不意に、父がとても哀れに感じられた。生活も家族も捨て、小説にしがみつく理由は一体何なんだろうか。世間から笑われ、馬鹿にされ、そうまでしてその原稿用紙を手放さない理由は。

 ゴーグルが目元に当てられる。一瞬の圧迫感の後、視界が闇に飲まれて、ちらちらとした鮮やかな色が目の前を走った。ほう、と彼が小さく唸るのが聞こえた。



 やわらかい蜂蜜色の光が降った。

 二十七度に固定されていたはずの部屋の温度が、心なしか上昇した気がする。ざあっと優しい風が通り抜けた。どこか懐かしく感じる、熟れた花の香りが鼻孔をくすぐった。

「どう?」

 意識の外側から少年の声がした。「現実」にいる少年が、「仮想」にいる男に声をかけたのだ。

「やぁ、これはすごい。見渡す限りの花畑だ」

 足元に咲いているのは、芝桜だろうか? ゆっくりと腰を下ろしてみた。フローリングの冷たい床が、一瞬にして暖かな花の絨毯へと様変わりしてしまったじゃないか。花弁の少し湿った、滑らかな手触りが伝わってくる。ありもしない「仮想」を、僕は体のどこを通して感じているのだろうか。

 大の字に寝転がる。これは「仮想」じゃないとできない特権かもしれない。「現実」で可憐な花を踏みつけるのは、いささか気が引ける。

 遠くから鳥のさえずりが聞こえる。眩い陽光に目を細めながら、春深く霞んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだりしてみた。体の内側から、ぽこぽこと草木が芽吹くような、生命力に溢れた春の匂い。

「どう? 転職しようって気にはなった?」

「……ふむ、そうだなぁ……」

 小説家はそっと目を閉じ、うららかな日差しを身体で受け止めた。とろりとした甘い睡魔に襲われる。深い息をついてから、彼は小さく口を開いた。


「なら君は、生来目の見えない人間に、この空の青をなんと伝える?」

「え?」


 予想外の言葉に、とくん、と心臓が音を立てた。てっきり、小説なんて非効率的なことは卒業する、と言ってくれると予想していたのに。固い床に寝そべる男を見下ろす。腹の上で手を組み、口元に薄っすらと微笑みを湛えたその姿は、まるで棺の中で眠る死者のように安らかであった。少年は汗ばんだ掌をそっと胸の上で握りしめた。熱い鼓動を感じながら、彼は父親の言葉を反芻する。興奮にも似た妙な感情に、脳が震えるような感覚を覚えた。

「磨り硝子に滲んだような空の青を、淡い空気に溶けそうな菜の花の黄をなんと伝える? 遠くで聞こえる小鳥の歌を、生来耳の聞こえない人間に、なんと伝える? 立ち昇る花の香を、生来鼻の利かない人間に、なんと表現したら伝わるのだろう」

 男の声は少し低く、穏やかであった。愚図る子供にお伽噺を語って聞かせるときのような、優しい口調であった。

 少しして、彼はのそりと体を起こし、「現実」へと帰ってきた。なかなか楽しかったよと彼は冴えない笑顔を見せた。花の絨毯が消えてしまった、なんて呟きながら、少し骨ばった大きな手が名残惜しそうに床を撫でる。背中を丸めて胡坐をかいている姿は、いつもと何ら変わりはなかった。

「君が生まれたのも、こんな暖かい日だったな」

「え?」

「だからハルって名前をつけたんだ」

 彼は遠い目をして微笑んだ。

「あの景色は、仮想《ヴァーチャル》なんかでは到底表せられない」



「……でも、やっぱり効率が悪いよ」

 百聞は一見に如かず、だろう? 人間は、人工知能のように万能ではないし。

「だからいいんじゃあないか」

 窓硝子に、ぽつぽつと水滴が落ちるのが見えた。雨が降ってきたらしい。鞄の中に折り畳み傘は入っていただろうか?

「すべてが合理的な世界なんて、つまらないだろう?」

 眉を下げて笑った小説家に、その空の色はどう映っているのだろうか?


「……おれ、やっぱりまだよく分からない」

 空の青さも、この胸の高鳴りの理由も。

 合理的かつ効率的な、完璧に生きやすい社会。

 こんな世界にまだ、言葉じゃなきゃ伝わらないことがあるのだと言うのなら――父さんの「物語」で、それを教えてほしいと思った。「仮想」と「現実」の狭間で揺れる、不確実で不安定な、それでいて確かにそこに存在している彼の「物語」で。

「だから早く読ませてよね、小説家さん」

 『ベストセラー作家』とやらになったら、母さんも認めてくれるんだろ? その前に、次は電気止められんなよ、と念を押すことも忘れずに。

 窓硝子越しに見上げた雨空は、やっぱりただの灰色にしか見えなくて。明日の空は何色なんだろう? 雨上がりの空はきっと、ぬけるような「青」なんだろうとハルは口元を綻ばせた。

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