ファイル7恋心窃盗事件—初めての挨拶後編—

「……ここは?」

 目が覚めたアイリーンの視界に飛び込んできたのは、初めて見る天井だった。

 タウンハウスの天井よりもずっと高いそれは、上品な白を基調としたもので、よく目を凝らせば同色の絵が描かれている。


「アイリーン。起きたのですね。体調はどうですか?」

 不安げな表情をしたポーター夫人が、そっとベッドの傍に立ちアイリーンの頬を撫でる。

「大丈夫です……お母様。ここはどこですか?」

 アイリーンは母の手を借りて体を起こすと、周囲を見渡した。


 そこは二人以外に人はおらず、豪奢で品の良い調度品に囲まれた部屋だった。侯爵家であるポーター家では、なかなか見られない国宝級の調度品が辺りに飾られている。

(ここ、まだお城の中なんだわ)

 彼女はそう予想を立ててから、母に向き直る。


「ここは王宮の客室よ。あなた、エドガー殿下に会って、そのまま倒れてしまったのよ。覚えていないかしら?」

「覚えています」

 彼女は倒れる寸前の記憶を呼び起こす。


 エドガー殿下に挨拶されて、笑顔を間近で見て、アイリーンの心臓が暴走する馬のごとく狂ったように早鐘を打ったことを思い出した。

(あんなにも、顔が熱くなったことはなかったわ。前回のお茶会では、とても大きな衝撃を受けたはずたったのだけど、今回の方がずっとずっと衝撃的だったわ)


 彼女の夢でなければ、アイリーン、そう名前を呼ばれたはずだ。

 彼女の名を殿下の美しい声が紡ぎだしたことに感激して、頭に血が上ってしまい、何も考えられなくなって倒れてしまった。


「そう。よかった。みんな驚きましたよ? 殿下が受け止めてくださらなかったら、頭を打っていました。無事でよかった」

 母が不安げに揺れる瞳を和らげたので、アイリーンは内心安堵する。心配をかけたことに申し訳なさを感じるとともに、いつも厳しい母が優しく撫でてくれることに少しばかり嬉しくなる。


「ご心配おかけしました。殿下や皆様に謝らなくては……ん?」

「どうしました? アイリーン?」

 アイリーンは何か重大なものを見落としているような違和感を覚えた。


 そして、母の言葉を反芻して、途端に顔が青白くなる。

「お……お母様。私、殿下に助けていただいたのですか?」

 母はその言葉で、娘の言わんとしていることを察し、楽しそうに笑顔を浮かべた。


「そうですよ。エドガー殿下がお前を抱きとめて、ここまで運んでくださったのです。お父様が代わるとおっしゃったのですが、あまり揺らさない方がいいとのことでそのまま。ふふ」

「そ、そんな! 運んでいただいた!? 殿下が私を持ち上げたですって!?」


 アイリーンはベッドの上で頭を抱えて蹲る。きっと母がいなければ、のたうち回っていただろう。

(この部屋が、ガーデンからどれ程の距離かは分からないけれど、その間全体重を殿下にお預けしたなんて! 殿下の腕に私の体重がご負担を……ああ、今日のスコーンは我慢すべきだったわ。三つも食べてしまった……)

 海より深い後悔に頭を悩ませるアイリーンに、ポーター夫人は面白いものを見る目を向ける。


「もう大丈夫そうですね。お暇しますか? お父様はまだ会場にいらっしゃいますが、私たちだけ先に帰る許可はいただいています」

「いえ。私、殿下に謝りたいので、まだ帰れません」


「そうですか。私は先にお父様のところに戻っていますね。それと……謝ることも大切ですが、お礼を言うことも大切ですよ」

「分かりました。ありがとうございます、お母様」

 母はアイリーンの頭を一撫でして、部屋を出て行った。



 暫くしてから、王宮の侍女に髪や衣服を整えてもらい、彼女は部屋を出た。

 身だしなみを整えてくれた侍女に、戻り方を教えてもらい、彼女は一人で歩いてガーデンへ歩く。

 通りかかったのは、人気のない回廊。中央に大きな木の生えた広大な中庭から、複数人の声が聞こえた。


 見える人は全部で四人。全員茶会の会場にいた、令嬢たちだ。

 それぞれが、豪奢なドレスを身にまとっている。

(あれは……茶会の参加者? こんなところで何を?)


「いいこと? さっきも言った通り、エドガー様に近づかないで」

「そうよ。汚らわしい。貴女が同年代の中で一番美しいだなんて、殿下は思っていらっしゃらないわ」

「少し可愛いからって身分をわきまえず、殿下に言い寄るのはやめて頂戴」

「わたくしは、そんなつもりではっ」


(候補者いじめの現場? 多対一ね。あら、彼女は……)

 会話を聞いて彼女はこの場の勢力図を把握した。

 いじめられている方の令嬢を見て、アイリーンは息をのんだ。

 流れ星のような銀髪に右目の横にある艶っぽいほくろ。一目でわかる、同年代に比べて発育の良い身体。


 今の世代で最も美しいといわれている男爵令嬢、ベリンダ・フォスターであった。

 爵位としては貴族の中では最も低く、特に裕福でもないフォスター家は、社交界でも【顔だけ一族】と揶揄されている。

 その噂は知っていたアイリーンだったが、実際にフォスター家の人間に会ったのは初めてだった。


(なんて綺麗な子なのかしら……それよりも、多対一のいじめは許せないわね。ここは名探偵アイリーンの出番!)

 アイリーンは颯爽と中庭に降り立ち、令嬢たちの間に割って入る。

「皆さんお揃いで。何をなさっているの? 楽しそうね」

 彼女の声に令嬢たちが、びくりと大きく跳ねる。


「アッ、アイリーン様。い、いえ……その、聞いてくださいませ! 彼女が私のハンカチを盗んだのです!! 返してもらおうとお願いしたら、エドガー様の婚約者候補をやめろとひどい言葉を掛けられて……」

 先ほどまでの様子を見られていないと思っているのか、赤ドレスの令嬢Aは悲しげな表情を浮かべて主張を始めた。


 それを聞いてベリンダが、真っ青な顔で声を上げる。

「なっ! ちが」

「そ、そうですわ! 私たち、それでっ」

「ベリンダ様が持っていらっしゃるハンカチが、その証拠です」

 青ドレスの令嬢Bが示すベリンダを見れば、手にはピンクのハンカチがあった。

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