ファイル6恋心窃盗事件―初めての挨拶前編―

 今日も王都は霧で包まれている。

 エドガーは、窓の外に写る真っ白な景色を眺めていた。

 ここは、彼専用の執務室。いつも行っているように、何処からともなく降って湧く書類を片付けている場所だ。


 長年愛用している執務机の上には、どっさりと積まれた婚約者候補である令嬢たちの資料と絵姿。

「はぁ。本当に嫌になるよ」

 思わずそんな声を漏らせば、くくっと喉を鳴らす笑い声がした。


「いやーいつもモテモテで羨ましい限りですよ」

 楽しそうに皮肉を口にするのは、ライトブラウンの長髪を一纏めにした美青年。

 彼はこの国の優秀な文官一族、ポーター侯爵家の長男であるアーサー・ポーター。ゆくゆくは王太子の右腕となる、エドガーにとっては気の置けない友人でもあった。


「羨ましいと思ってないくせに」

「まあな。だって、お前の周りの女、怖いし」

「アーサー、エドに口が過ぎますよ」

 顔を顰めアーサーを指摘するのは、クラウス・シュタイン。彼のもう一人の友人である。


「でも、お前も思うだろ? エドの周りのご令嬢たちのこと」

「……まあ、過激派だとは思いますが」

「だろ」

 アーサーのニヤリとした笑みに、クラウスも正直に同意する。

 エドガーは失礼な友人たちに苦笑した。


「随分言ってくれるじゃないか。そう言えば、君の妹も先月の茶会に来ていたね」

「あー。そのはずだけどな。会えたのか?」

 アーサーの問いにエドガーは、少しの間を開けて首をひねる。


「……何故そう思う?」

「俺の知る限り、あいつはお前に興味なかったからな。極力逃げるだろうし、まぁ精々父に言われて挨拶だけでもってところだろうな」

「そうなんですか? 意外です」

 クラウスが驚いて目を丸くする。


「なるほどね。それが、挨拶以前に逃げられてね。事前に絵姿から顔は知っていたから、見てすぐにわかったのだけど、彼女は目が合っただけで帰ってしまったんだ。まるで、山奥で熊に会ったときみたいに、じりじり後退していくんだもん。面白い子だね」

「はぁ? 何やってんだあいつ。でも、熊って、ふはっ」


 妹の奇行に吹き出すアーサー。

「面白そうだし、挨拶が出来ていないからね。来月の茶会にも呼ぶつもりだよ」

 当たり前のように、アイリーンを特別待遇で呼ぼうとするエドガーに、アーサーは驚愕で口をぽかんと開く。


「マジか」

「エド、それは……」

「別に変なことじゃないだろう? 母上や父上、他の貴族たちから推薦されて継続参加できる令嬢もいるんだ。私が推薦したって問題ない」

「そりゃ、そうかもしれんが……お前の意見が優先されるだろ。お前の妃候補の話だ。お前うちの妹がいいのか?」

 アーサーの問いにエドガーは、綺麗な笑みを浮かべるだけ。


 彼は霧がかった外を眺めた。今は見えない王宮のガーデンで、一瞬だけ合ったエメラルドの瞳を思い浮かべる。

 すぐにカーテシーのために下げてしまった顔が、赤らんだように見えたのは彼の気のせいではないはずだ。あの態度だったが、何となく嫌われてはいないだろうと彼は思った。

(楽しませてくれると嬉しいな)


 ***************


 カップケーキ事件からしばらく。

 アイリーンは探偵として、初の事件であるカップケーキ事件を見事に解決した。

 しかしそれは、新たな事件の火種となってしまったが。アイリーンは馬に蹴られたくないので、そちらの事件には関与しなかった。


 それ以来、小さな事件すらない平和な毎日を送っている。

 そんな平穏が崩されたのは突然のことだった。


 アイリーン宛に手紙が届いた。

 白い封書には王家の紋章であるワシと剣が金のインクで印字されており、深緑の蝋で封がされている。

 封の紋章は王妃殿下のもの。まぎれもなく、王宮からの手紙である。

 ポーター侯爵家に衝撃が走った。


 慌てて家族でリビングに集まる。

「どうして、またアイリーン宛に手紙が……」

 先月は、デビュタントとして王宮の茶会へ招待するという旨のものだった。その招待を受けて向かった茶会で、アイリーンは見事に恋心を盗まれたのだ。


 王妃主催の茶会、もとい、エドガー殿下の婚約者候補選定会は、毎月一回行われているが、参加できるのは三か月ごとのはずだ。

(王太子の御前から、奇声を上げて後退した件でお叱りだったりして)

 アイリーンは恐怖に震える指で開封し、恐る恐る手紙に目を通す。


「え~と、何々? 今月の王妃殿下主催茶会に、アイリーン嬢をご参加いただきたく……招待状!?」

「まぁ!!」

「な、なんだと? アイリーンが!?」

 アイリーンは驚愕のあまりポカンと口を開けて固まる。その横で、母は少し嬉しそうに、父は固まったまま動かなくなった。




 こうして王宮へ向かうことになったアイリーン。


 当日までの日もわずかだったため、ポーター侯爵夫妻は大急ぎで茶会へ参加するための準備に取り掛かった。

 彼女はあの日、王太子と挨拶すら出来ていない。親交を深める要素は一切なかった。

 だが彼女にとってこれはチャンスでもある。


「殿下の捜査が出来るかもしれないわ。どんなお声でどんな風にお話してくださるのかしら」

 不安と同時に感じるのは高揚感。

 ときめきと漠然とした緊張が入り混じったまま、気付けば当日となり、アイリーンは王宮までの道のりを馬車に揺られていた。


 会場に着いたアイリーンは、ぐるりと辺りを見回す。

 前回のパーティーと同様に、沢山の美しい令嬢とその両親がいる。

 令嬢たちは赤、青、黄色などの華やかなドレスを身にまとって、歓談している。


「ねぇ聞きました? フォスター家のご令嬢が三度連続で、茶会に呼ばれているそうですわよ」

「まぁ! あの【顔だけ貴族】が? 信じられないわ」

「身の程を弁えて辞退すべきですわよね」


 可憐な令嬢たちが小声で話す噂に、アイリーンは貴族社会の縮図を見たような気がしてげんなりした。

(大人も子供も人を蹴落とすことばかり……いやね)

 彼女は悪口を離す令嬢たちに一瞬だけ視線を向けると、興味を失ったように、食事のあるスペースで過ごすことにした。


 ミートパイを食べながら、屋敷を出る前にマギーに言われたことを思い出す。

「お嬢様! お願いですから、殿下に捕まえるとか、怪盗プリンスとか言わないでくださいね」

(分かっているわよ、マギー。王太子殿下の前で、奇声を発する以上の失態をするわけないじゃない)


 そう、利発的なアイリーンは十二分に分かっていた。

 前回のような失態はしないと心に決めていた。

 しかし、現実はそう簡単ではなかった。人の心は何とも複雑で、ままならないものだったのだ。




「初めまして。私が第一王子のエドガー・フォグラードです」

 耳がとろけそうになる程の素敵な声に、アイリーンは思わず聞き惚れてしまう。

 気品あふれる華やかな顔立ちの殿下が、夜空色の瞳に優しさを灯したように笑うのが、とても美しくて、彼女は自分が息をしているかも分からなくなった。


「よろしくお願いしますね。アイリーン嬢」

 アイリーンは、その甘やかな声で自分の名が紡がれた感動に、心臓が止まったと思った。

 微笑む殿下のお姿に、ときめく鼓動を抑えることもできず、ただぼうっと彼を見つめる。赤面しているであろう頬に手を当てれば、自分でも驚くほど熱い。


(名前を呼んでくださったのに……声ってどうやってだすのだったかしら?)

 ぼんやりする頭は、次第に視界すらも奪い、彼女は目の前が真っ白に染まっていくのを感じる。

 そして——そのまま、彼女は倒れた。

 エドガー様の焦っても美しい声と、両親の叫びを遠くに聞きながら、彼女は幸せな気持ちで意識を手放したのだった。

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