ファイル3消えたカップケーキ事件—勃発編—
アイリーンが探偵になることを決意して数日。
その間、特に何があったわけでもない。
彼女は、ごくごく普通の日常を過ごしていた。
それも当然である。彼女が追っている恋心窃盗犯はこの国の王太子なのだから。そんなに簡単に会えるわけがない。
流石に王宮に突撃するほどアイリーンは馬鹿ではない。推理小説を好むだけあり、頭の回転は速い方である。
そして彼女はここ数日、いかにエドガー様が美しかったかを語り、貴族年鑑とフォグラードの歴史書を読み漁っていた。
今まで王族に興味のなかったアイリーンは、あっさりと初恋を奪った犯人のことを知りたいと考える。
結果、父の書棚から王家に関する本を抜き取り、片っ端から読み漁った。
【探偵の基本は情報収集よ。無意味に見えても、自分の足で探す。それが、最も素敵な宝になることを私は知っているの】
彼女の大好きな名探偵シャーリー第1巻の名言である。
「……ふぅ」
一息つこうと本から目を離す。
ベッドサイドに置かれた時計を見れば、本を読み始めてから、すでに三時間が経過していた。随分集中していたようだ。
道理で体が痛いはずだと、椅子から降りて背伸びをしながら、ぐぐっと両手を上に伸ばす。
「ん~! いたた」
背筋の伸びる痛気持ち良い感覚に、どこかすっきりしたような気がしたところで、彼女は、テーブルに置いたベルを手に取った。
一振りすると、チリンッと綺麗な音が響く。
暫くするとドアをノックする音が聞こえ、マギーがやってきた。
「お呼びでしょうか? お嬢様」
「お茶菓子を準備してくれる? ちょっと集中しすぎてしまったわ。甘いものが食べたいの」
「丁度カップケーキを焼きましたが、いかがですか?」
「やった! カップケーキ! ジャムとクリームは小皿にお願いね。チョコチップもあるかしら?」
マギーのお菓子はどれも絶品であるが、中でもカップケーキはアイリーンの好物だ。
ワクワクとはしゃいだ様子を見せる主に、マギーは微笑む。
「チョコチップ入りも、ちゃんと準備しておりますよ。お部屋にお持ちしますか?」
「う~ん、テラスにして頂戴。うちのお庭も見頃でしょうから」
「かしこまりました。すぐに準備してまいりますね」
そう言ってマギーは部屋を後にした。
マギーが部屋を出てから十分後、アイリーンは一階へ降りてダイニングルームへ入り、バックガーデンへ向かう。すでにテラスには優雅な茶会の準備が出来上がっていた。
白霧に包まれた空は太陽を隠しているが、彼女の予想通り、タウンハウスならではのやや小ぶりな庭は美しく彩られていた。
もちろん先日訪れた王宮のガーデンや領地の広大なカントリーハウスのガーデンには及ばないが、それでも彼女は満足気に顔をほころばせる。
(やっぱり、うちの庭も素晴らしいわ!)
席に着くとマギーがお茶を入れてくれる。
焼きたてのカップケーキは五つ。そのうち二つは、アイリーンお気に入りのチョコチップ入りだ。
それぞれ綺麗に皿に盛られて、甘く魅惑的な香りを放っている。
別添えの小さな皿には、クリームと酸味の強いアプリコットジャムが盛られている。
お茶はカップケーキとよく合うダージリンティーだ。
霧に紛れるような、白磁の繊細なティーセット。
紅茶に口を付けた彼女は、この霧に包まれたお茶会を気に入った。
まるで白いレースのカーテン越しに見るような心地がしてロマンティックに感じられるのだ。
アイリーンはお茶とお菓子を楽しみながら、マギーに情報収集の成果を話す。
「この国の王家は長いわね。もう何日もいろんな歴史書を呼んでいるけれど、エドガー様のことはほんの少ししか載ってないわ」
はぁ、乙女は憂いの吐息すら、桃色である。
「仕方ありません。殿下はまだ15歳。書物に載るような王政に関わる権限もありませんし」
「う~ん。もっといろいろ知りたいのよ。何がお好きで、どんなお声で話されるのか。怪盗プリンスであることを見破るためにも証拠を集めないと」
アイリーンは思案顔でカップの縁をなぞる。
「か、怪盗プリンスについては、置いておくにして……エドガー殿下のプライベートであればアーサー様にお聞きになればよろしいのではないですか?」
「お兄様! そうね! その手があったわ」
世紀の大発見と言わんばかりに、アイリーンが驚いた様子で口元を隠した。あまり大きな口を開けていると、母にはしたないと言われるからである。
彼女の兄はエドガー殿下と同い年ということもあり、将来の側近としてお傍にいることが許されている。いわば殿下の友人という立場にある。
「そうね。今度帰ってこられたら、ちょっとお話してみるわ」
そう言って彼女は、四つ目のカップケーキに手を伸ばす。
「アイリーン! ちょっといらっしゃい」
母の声だった。何やら怒気を含んでいるような声色である。
「あ?」
大口を開けて固まるアイリーン。
まさに口を付けようとしていたチョコチップ入りのカップケーキを見て、それから後ろに控えるマギーを見る。
視線の合った彼女が首を横に振ったのを見て、声のした方に目をやってから、アイリーンは泣く泣くカップケーキを皿に戻し、席を立った。
突如主の消えたお茶会に、マギーは考えた。主がすぐに戻ってくるなら、きっとお菓子を食べたいはずだ。
場所を移すことも考えたが、彼女はお菓子に埃避けを掛けた。
そして、アイリーンが戻ってきたらすぐにお茶を淹れられるようにしようと、一旦ティーセットのみを片付けることにして、その場を離れた。
マギーがテラスを離れたのは僅か十分程のことだった。
そのニ十分後、先日の王宮での茶会の無作法について母にこってり絞られたアイリーンが、よろめきながらガーデンに戻ってくる。
生気の抜けた顔でぐったりしたお嬢様の姿に、マギーはいそいそとハーブティーを入れた。
ハーブティーで癒されたアイリーンが、念願のカップケーキにありつけるよう、マギーが埃避けを外し――――二人は、驚愕の声を上げた。
「きゃー! 私のカップケーキが!!」
「消えた!? えっ??」
二つあったはずのカップケーキが一つ消えたのだ。
しかも、アイリーンの好きなチョコチップ入りが。
探偵アイリーン誕生後初の事件、消えたカップケーキ事件の幕開けであった。
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