ファイル2恋心窃盗事件―迷探偵令嬢爆誕―

  王妃様主催のお茶会から一夜明けた朝。

 アイリーンは自室をノックする音で目覚めた。


「お嬢さま。朝ですよ」

「ん~、マギィ? ふぁ~」


 幼少のころから仕えている侍女のマギーが入室してきた。

 彼女はアイリーンにとって姉のような存在である。

 彼女が朝の仕度をしてくれている横で大きなあくびをする。


「おはようございます。今日は随分大きなあくびですね。あまりお休みになれませんでしたか?」

「ん~ちょっとね。昨日の衝撃が」


「? そう言えば昨日はお疲れのようでしたね。お茶会から戻ってすぐにお部屋にこもられましたし。本日はラズベリーのフレーバーティーです」


 白磁にベリーの描かれたティーカップ。

 アイリーンの髪と似た色味である赤みがかった紅茶は、ほんのりと甘酸っぱいさわやかな香りを漂わせている。


 アイリーンにとっては、お気に入りの組み合わせだ。

 しかし、彼女は少し浮かない顔で湯気立つカップを見つめている。

 これはおかしいと、マギーは思った。


「アイリーン様? いかがしました?」

 いつもの反応と違いすぎる主の様子に、マギーは不安を感じる。

 アイリーンは、ティーカップに口を付け、ほっと一息つくと神妙な顔でマギーを呼んだ。

 ごくりと、つばをのむマギー。彼女は緊張した面持ちで、アイリーンを見やる。


「昨日、気付いてしまったの……あの方の正体に。あの方は、怪盗プリンスなのよ」

 侯爵令嬢アイリーンは、信頼する自分の侍女であるマギーに打ち明けた。


「怪盗プリンス? ……まさかとは思いますが、あの方とは殿下のことですか?」

 こくりと頷く主を見て、マギーは嫌な予感しかしなかった。

 そして、その予感は大当たりだ。


 アイリーンは本棚から一冊の本を取り出した。

 タイトルは【名探偵シャーリーの大冒険―怪盗貴族と犬―】

 最近、巷を騒がせる大人気推理小説のシリーズ第一作目である。


 ********************


 夜はあらゆるモノを隠す。

 獰猛な野犬も、平民街の汚れも、貴族様の悪事も。

 そして、盗人さえ。


 シャーリーは平民街の路地裏で、お腹を空かせてうずくまっていた。

 もう3日も食事にありついていない。最後に食べたものだって、野犬を出し抜いて得たパンの欠片だった。


 いつもなら安全なところに作った隠れ家まで帰るが、それも出来ずうずくまってしまった。限界だったのだ。

 孤児であるシャーリーを気に掛けるものはいない。

 だからシャーリーは、目の前に何かの気配を感じたときに神様がお迎えに来たと思った。


 しかし、聞こえてくるのはうなり声。

 恐る恐る顔を上げたシャーリーが見たのは、額に傷跡のある大きな野犬。

 シャーリーがパンをいただくために出し抜いたヤツだ。


 野犬は涎をたらし、酷く凶暴な顔でシャーリーを見ていた。

「……ぁ」

 シャーリーは声も上げられないまま、にじりよる野犬に己の死を悟り、目を閉じた。




 トサッ――


 おかしい。

 いつまで経っても痛みはこない。

 それに、犬のうなり声もしない。しかし、何か、地面に当たる音がした。


 シャーリーはゆっくり目を開けてみる。

 そして、眼前の光景に驚愕した。

 今まで彼女の脅威であった野犬は、地に伏していた。


 傍らには黒いマントを羽織った何者かが立っている。

 その者はゆっくりとシャーリーに近付いてきた。

 恐怖に震えるシャーリー。


 黒いマントの者がシャーリーの前に立った時、丁度雲の切れ間から月の光が届く。かの者の姿がシャーリーの目にはっきりと見えた。


 黒だと思ったマントは濃紺で、夜空ようだ。

 フードを被っていてよく見えないが、顔には目元を覆う銀の仮面を付けている。

 とても背が高い。


 かの者は、そっとシャーリーの前に屈み、彼女に視線を合わせて口を開いた。

「もう大丈夫だよ、お嬢さん」

 低く響く男性の声は、シャーリーを落ち着かせるものだった。


「ほら、手を出して。これを君にあげよう」

 おずおずと手を差し出したシャーリーが受け取ったのは、パンとジャラリと重たい麻袋。


「……ぁ、なた、だれ?」

「ふ、名乗る程の者ではない。ただの盗人だ」

 マントの男性はそう言った。

「これは君と私、二人だけの秘密だよ。いいね?」


 仮面のない口元が弧を描く。

 シャーリーがこくりと頷くと、彼は笑みを深め、そのまま忽然と姿を消した。

 一陣の風が吹く中、あっという間のことだった。


(おなまえ、きけなかった)


 呆然と立ち尽くすシャーリーには、夢を見ていたようにさえ感じられる。

 しかし手元に残る確かな重みが、紛れもなく現実であることを彼女に思い知らせた。


 ********************


 朗読を終えたアイリーンは、蕩けた表情のまま本を閉じて抱きしめた。

「は~なんて素敵なの! そう思わない!? シャーリーはこの瞬間から、怪盗貴族に恋をしていたのよ!」

「相変わらずお好きですね」


「怪盗貴族は、悪徳貴族から金を奪い、平民に配っていたわ! そして、シャーリーの心まで鮮やかに奪っていったの! 昨日の殿下とそっくりだわ!」


 一瞬の間が二人を包む。


「え。つかぬことをお聞きしますが、誰と誰がそっくりと?」

「もちろん怪盗貴族とエドガー殿下に決まっているじゃない!」

 マギーの表情は無である。


「……何が奪われたと?」

「もちろん私の恋心よ!」


 どやっ、と言わんばかりの自信満々な表情に、マギーは自分の勘が正しかったことを悟る。はあ~と大きなため息を吐いた。

「だから私が探偵になって、怪盗プリンスを捕まえるのよ!」

「……お嬢様、それ、外では言わないでくださいね?」


 不敬罪でお嬢様が捕まってしまうので、と言い、頭に手を当てる。

「もちろん秘密にするわ! その方がかっこいいし! あっもちろんマギーは助手よ?」

 楽しそうに今後の作戦を語るお嬢様の声は、マギーの耳をすり抜けていく。

(このお嬢様、どうするべきか……)


「どうしたの? 頭が痛いの? 休んで良いわよ?」

 侍女の身を案じる心優しいお嬢様。


(ええい! なるようになれ!)

 もしもの時はストッパーとして、お嬢様の暴走を止めるのだ。そう腹をくくったマギー。

 こうして、迷探偵令嬢アイリーンと助手マギーが爆誕したのである。

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