第20話 露天風呂

「見て、みなちゃん! 露天風呂だよ!」


 杏璃が引き戸を開くと、その向こうにはまるで温泉旅館のような露天風呂が広がっていた。


 ここ、本当に異世界なの……?


 涼一郎のお父さん……総一郎さんから聞いた話だと、この世界〈エンテゲニア〉はかつて勇者である総一郎さんが魔王を倒して救った世界らしい。


 総一郎さんはこの世界でソフィアさんと結ばれ、二人から涼一郎が生まれた。だからこのエンテゲニアは涼一郎にとって生まれ故郷でもある。


 総一郎さんはだいたい5年ほどこの世界に居たそうだ。この露天風呂も総一郎さんが持ち込んだ日本文化なのかしら。


「みなちゃん、はやくはやく!」


「ちょっと杏璃。転ぶと危ないわよ」


 露天風呂にテンションが上がったのか、杏璃は小走りで湯船のほうへ向かっていく。


 ったく、昔からぜんぜん変わんないんだから。


 ……いや、胸は昔からかなり成長してるわね。あんなに大きいのに色も形もいいなんてチートじゃないかしら。チートおっぱい。略してチっぱい。……そりゃあたしか。


 動きやすいから別に良いんだけど…………はぁ。


「どうしたの、みなちゃん? はやくこっち来てよぉ!」


「はいはい。ちゃんとかけ湯しなさいよね」


「はーい!」


 杏璃は桶で湯船のお湯をすくうとバシャーっと頭からお湯をかぶった。バカ。


 薄茶色の髪から水滴がしたたり落ちて、彼女のきめ細やかで綺麗な肌を流れ落ちる。


 休みの日はほとんどお互いの家に泊まって一緒にお風呂に入ることも当たり前。そんな日々を六年以上も続けてきた。杏璃の裸なんてもう見慣れているはずなのに、今日は心がざわつく。


 あたしはこの手で、あの肌を斬ったんだ。


 思い出すだけで手が震える。胸をギュッと握りしめられたかのような痛みに苛まれて、呼吸が苦しくなる。手からあの感触が、脳裏からあの光景が離れない。


 あたしもかけ湯をして、湯船に入って杏璃の隣に腰を下ろした。


「お湯あったかくて気持ちいいねぇー」


「うん……」


 冷たい。暖かいお湯のはずなのに、心がどんどん冷え込んでいく。


「見て、みなちゃん。お月様二つもあるよ。やっぱり異世界なんだねぇ」


「うん……」


 涼一郎はあのフクロウ頭を滅ぼしたと言っていたけど、いつかまた体の自由が利かなくなるんじゃないか。杏璃やほかの誰かを傷つけてしまうんじゃないか。そんな恐怖が常にあって、体が強張っていく。


「それにしてもビックリしたよね。りょー君のお母さんがあんなに美人さんで、かわいい妹ちゃんまで居たなんて!」


「うん……」


「みなちゃん胸縮んだ?」


「うん………………あぁ⁉」


「いひゃい、いひゃいよぉ! ごめ、ごめんなひゃぃ」


 力任せにほっぺたを引っ張ってやると杏璃は目じりに涙を浮かべて謝ってきた。


 ……ったく、いきなり喧嘩売ってきてなんなのよ。


「うぅ~、そんな怒らなくてもいいのにぃ」


「持つ者に持たざる者の気持ちはわからないものよ」


 逆もまたしかりかもしれないけど。


 杏璃は真っ赤になったほっぺをスキルで癒しながら、こっちにずずっと近づいてくる。そしてぴたっと、あたしの肩に頭を乗せてきた。


「杏璃……?」


「みなちゃん、元気でた?」


「……バカ。励まし方にももっと色々あるでしょーが」


「えへへー」


 杏璃はにへらぁと笑ってあたしの手を握ってくる。


 暖かい。冷え切った心が、杏璃とつないだ手から溢れてくる暖かさに包まれていく。


「ごめんね、みなちゃん。怖い思い、させちゃったね」


「……杏璃が謝ることじゃない。あたしがもっと強かったら……」


 涼一郎みたいに強かったら、アドラスに操られることもなかった。


 涼一郎の強さは別格だって、涼一郎本人も総一郎さんも言っていた。


 だけど、それでも思ってしまう。


 あたしがもっと……杏璃を守れるくらい強かったら、杏璃を傷つけずに済んだんじゃないかって。アドラスにも勝てたんじゃないかって。


「……ねえ、杏璃。あんたはどうするの?」


「どうするって?」


「元の世界に帰るか、ってこと」


 元の世界に戻るためのスキル〈ゲート〉はいつでも使えるそうだ。明日の朝、〈ゲート〉を繋いでくれると総一郎さんは言っていた。


 明日には元の世界で元通りの生活に戻れる。


 それを聞いたとき、杏璃は特別どうという反応もしていなかった。


 あれだけ恐ろしい目にあったら普通は一刻も早く帰りたがってもおかしくないのに。


 ……たぶん、杏璃の中で答えは決まってるのよね。


「私は残りたいって思ってる」


 ほら、やっぱり。


「どうして?」


「りょー君はたぶん残るから。離れ離れは寂しいもん」


「そう……」


 杏璃ならそういうと思っていた。


 だって、杏璃は涼一郎が好きだから。


 杏璃にとって涼一郎は、小さな頃からずっと一緒に育ってきた幼馴染で、初恋の相手。


 涼一郎は知らない、そしてきっと杏璃すら自覚していない、あたしだけが知っている杏璃の秘密。


 きっと、涼一郎はしばらくこの世界に居続けるだろう。ここにはご両親が居て、妹のユリアちゃんが居て。涼一郎が昔から求めていた、家族の形がある。


 総一郎さんもしばらく元の世界に戻る予定はないと言っていたし、元の世界に戻ればあたしたちは涼一郎と離れ離れになってしまう。


 いつまた会えるかもわからない。そんな日々は、杏璃の言うように寂しい。


「怖くないの? また、あんな目にあうかもしれないのよ? 今回は涼一郎が助けてくれたけど、次はどうなるかもわからない。……死んじゃうかも、しれないのよ?」


「うん。だけど、元の世界に帰っちゃったらきっと後悔すると思うから。りょー君に二度と会えないかもしれないって……そんな予感がしちゃうから」


「…………予感、ねぇ」


 杏璃の嫌な予感はよく当たる。今回はその予感に従ってアドラスに襲われたわけだけど、結果的には死なずに済んで涼一郎にも会うことができた。


 もし、あのまま涼一郎を探しにあいつの家に行っていなかったら。


 あのままずっと、一生死ぬまで涼一郎に会えず仕舞い……なんてこともあり得たのかしら。


「みなちゃんは……? 元の世界に帰る……?」


 杏璃はどこか寂し気な表情であたしの顔を見上げる。


 うぅっ……。ずるいわよ、その顔。行かないでって思ってるのがまるわかりじゃない。


 正直、あんな思いは二度としたくない。杏璃が手を握ってくれているから平気なだけで、今も恐怖はあたしの中に残り続けている。


 だけど、悔しいって気持ちもあたしの中に確かにあって。このまま逃げ帰ってたまるか。今度は杏璃をあたしが守れるようになるんだ。なんて気持ちが、確かにあって。


 ……バカみたいよね。正気じゃないわ、こんなの。


 でもそれがあたしだ。小学校の頃にあたしをバカにしてきた連中にも、何かと意地悪をしてきた学校の先生にも、あたしはこうやって立ち向かってきた。


 杏璃と涼一郎が帰るっていうならともかく、二人が残るのにあたし一人がおめおめと逃げ帰るなんてありえない。あたしのプライドが許さない。


「さぁ、どうしようかしらね。杏璃がキスしてくれたら残ってもいいけど」


 なぁーんて冗談。涼一郎とのアレでふとわいた悪戯心だ。


 だったのだけど、


 ――ちゅっ。


 気づけば杏璃に唇を奪われていた。


「みなちゃんと離れ離れになるのも寂しいよぉ」


「…………ばか」


 このまま襲ってやろうかという気持ちを抑え込んで、あたしは杏璃をぎゅっと抱きしめる。この愛すべきバカのことが、あたしは昔から大好きだった。


 あんたが残るって言った時点で、帰る選択肢なんてないわよ……ったくもぅ。

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