第11話 血錆

「おっさんおかえりー…ってなんて顔してんの。また飲みすぎ?」

 元晴が廃病院に帰る頃には、すっかり時計は深夜を回っていた。待合でただ一人、紅花が声をかける。

「ああ…いや…悪酔いだ」

「へーめずらし」

「…お前も珍しいことしてるじゃねぇか」

 元晴はソファに腰を下ろすと、顎で紅花の手元を指し示した。紅花の手には、彼女が近接戦で使用する隠し刀が握られている。

「久々にねー。使ったから。血が残るでしょ。磨かなきゃ」

「…俺はめんどくさがりなお前がそんなことしてるの今まで見たことねぇけどな」

「…そ。たまたまじゃない?」

 シュッシュと砥石で刃を研ぐ音だけが反響する。静かな夜だ。虫の声ひとつしない。月は見えなかった。他の連中は既に寝ているのだろう。

「弾は手に入ったのか」

「たんまり。しかもアバカンのおまけつき。やったね」

 小銃を構えるジェスチャーをしながら、紅花が答える。動きとは裏腹に、その声に喜びはない。

「…難しい仕事だったか」

「なにー?おっさん。今日やたら質問するじゃん」

「悪酔いのせいだ」

 数瞬、静寂があたりを支配した。音のしない空間はどこか人の不安を煽る。紅花は、刃を研ぎ続けながら、顔も上げずに答える。

「………簡単、だったよ」

…………

「でもさ。血錆って、厄介だよねー。残って、消えないからさ。銃なら、もっと簡単なのに」

「…そうだな」

 雲の幕間から漏れ出た僅かな月明かりが、紅花の横顔を照らす。元晴がそこに娘の面影を見ることはない。全く似てなど、いないのだから。何より、似ていては、いけないのだから。

「俺は寝る。お前も早く寝ろ。…黒羽のとこでも行って、いい夢見ろよ」

「それセクハラだよ、おっさん。おやすみー」

 元晴が待合を出て行く、足音と扉の音が木霊する。夜の病院を歩く音は、どこか不気味だ。紅花は一人になった安堵と、途端に現れた疲労を感じながら、自身の手元に視線を落とす。

「簡単だよ、ほんと。すぐだもん。サクッって。…簡単、だよ」

 独り言は誰にも聞こえないからこそ、言葉になる。刃はただ無機質に研ぎ澄まされて行く。血の跡など、欠片も残っていない。それでも紅花は、研ぎ続ける。眠れない夜に羊を数えるかのように、静かに、そして無意味に。

「……………もう、寝よっか」

 おやすみの声はない。雲にすっかり覆われた月の光は、この穴蔵に届くこともない。紅花はゆっくりと立ち上がると、自室へ向かって…運が良ければ幸せかもしれない夢の中へ向かって、歩き始めた。

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