第8話 憤怒
朝。ベッドで目が覚める。このご時世、ベッドで眠れるのは幸福だ、と覚醒しかけた脳が呟けば、もう一人の自分が嘲笑う。
「殺して殺してもう一度だけ」
囁く歌は懐かしい。しゃがれた声に気付き、手元のペットボトルを探る。窓ガラスからは爽やかな朝の日差しが、目を刺す。
悪夢を見ない日はない。内容は全てあの日のことだ、などと嘯けたらどれほど僕は優しいだろう。あらゆる悪夢は、脈絡もなく、ただ連日僕の睡眠を阻害してやまない。口内を洗い流す水が、内臓を冷やしていく感覚に、快楽を覚えて目が覚める。…
覚醒と共に、無意識が熱を帯びる。冷めやらぬ熱との共存は、慣れた。幸い僕の表層は、それを覆い隠す術を心得ている。確かな熱情を氷のシェルターで囲んで、その上にそっと毛布を被せる。感覚が麻痺することはない。忘れることもない。ただ、覆い隠すことだけなら、できる。人は小賢しいものだ。
部屋を出て待合へと歩く。特に意味はない。強いて言えば、待合に置いてあるコーヒーが飲みたいのかもしれない。
「早いねー。おはよ」
待合では紅花が一人、ホットコーヒーの湯気に息を吹きかけていた。
「おはようございます。コーヒー、まだあります?」
「ちょうど淹れたところだからねー。美味しいよ」
「貰いますね」
ハンドドリップされたコーヒーをカップに注ぐ。角砂糖を一つ落として、溶ける様を眺める。サラサラと、白い粒たちが黒色に染まっていく。なんとなしに美しいと思った。ミルクは入れなかった。単に気分ではなかったから。…
紅花の腰掛けるソファの横に腰を下ろす。彼女は相変わらず湯気を吹いている。猫舌というのは、案外大きな悲劇なのかもしれない。
「隈、すごいよ」
目線はこちらへ向けないまま、紅花が呟くように言う。その目は、まだどこかトロンとしていて、眠気と不自然な色香を感じさせた。
「あーバレましたか。嫌な夢見ちゃいまして」
「そっかー。寝れないのは嫌だね。ま、現実も悪夢みたいなもんだし、寝てても起きてても大して変わんないけど」
やっとのことで少し冷めたコーヒーを啜る紅花は、普段より幾分幼く見える。寝ぼけているからかもしれない。彼女が、あるいは僕が。
「もうちょっと早く寝かせてもらえると嬉しいんですけどね」
「それは無理な相談かなー。…ね。ふふ」
一瞬にして、先ほどまでの幼さが掻き消え、狂気を帯びた誘惑の色彩に変わる。この人は、謎だ。二面性どころの話ではない。彼女の本当の姿を知る者など、この世にいるのだろうか。あるいは、『いた』のだろうか。…
柔らかな、絡みつくような視線を向けた紅花の、美しすぎる瞳を受け止める。吸い込まれそうだ、などというのは陳腐だ。違う、この瞳は、人を殺す瞳だ。人間は、これに耐えられない。ゆっくりと確実に、そして少しずつ、生命を蝕む美しい悪魔の瞳が、笑っている。
「ね、まだ誰も起きてないよ?…もう一眠り、しない?」
「……コーヒー飲み終わったら、考えます」
「ふーん、つれないなー」
唇を尖らせる紅花から、異様な空気が失せる。再び瞳は手元のコーヒーへ向けられた。ふーふーと、息を吹く音が聞こえる。静かに。…
僕は。この人を殺したいと、思った。
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