第3話 月一回の行幸

 冷成十三年八月三日。天皇陛下は皇后陛下を伴い、二度目の北陸巡幸を行われた。わずか一ヶ月でのご訪問であり、同月十五日には敗戦の日の全国戦没者追悼慰霊祭へのご出席があるため、宮内庁幹部は「スケジュールがタイトすぎないか?」として、多少は涼しくなる九月後半の巡幸を奏上したが、天皇陛下は「この夏の炎天下の中、冷房もままならぬ被災者の皆や、未だ、行方不明者の捜索に当たっている、自衛隊員、警察関係者、地元消防団のご苦労を思えば、わたくしの訪問など、なんの苦にもなりません。ねえ皇后よ」と皇后陛下にお尋ねになり、「はい。わたくしも是非にもお供させていただきます」と相変わらずの仲睦まじさで、宮内庁幹部の意向を退けた。


 今回の巡幸にはお召し列車(御料車)が使われることになった。かつては原宿駅から出発するのが慣例になっていたお召し列車は、天皇陛下が国民の負担になることをお嫌いになり、この年の初めに廃止となった。それ以降はJRの臨時電車や旅客機を利用することが多くなったが、此の度は前回、ご訪問できなかった福井県に行くことが主目的であり、福井空港(春江空港)がまだ大震災の被害が大きかったために利用できず、東京駅より、臨時電車としてお召し列車が使われることとなった。今回もヘリコプターでという声も上がったが、皇后陛下のご体調を鑑み、電車にての行幸が決まった。所要時間は三時間の予定である。


 真夏の福井は例年になくとても暑かった。神は人々の傷口に塩を平然と塗り込む。その中で、瓦礫を重機で除去し、更地に戻す作業が行われていた。その後は盛り土をして、土地を高くして、津波の被害を減らす作業が施されると、お付きの福井県知事がご案内した。完成時期はまだわからないそうだ。

 続いて、両陛下は仮設住宅をご訪問され、暑い中、お二人の姿を見て、多くのものが、また例の紙でできた日の丸をふって歓迎して出迎えている。若いものたちは働きに出ているのか、高齢者が多い。両陛下は被災者一人一人に膝を折って「お疲れではないですか?」「足りないものはありませんか?」などとお尋ねになる。そのお姿を見るだけで、多くの被災者は感激の涙を流す。正直に言うと、両陛下は被災者の話を聞いて不足しているものや不満を知ることはできるが、憲法上、それらの諸問題を解決する権利はない。内閣総理大臣以下の閣僚に提言することもできない。実はこの行幸はこの国の象徴である天皇陛下ご夫妻による単なるセレモニーなのだが、天皇という存在は日本人の心の奥深くに畏敬の念を持たれており、話を聞いていただけただけで、人々の心が安らぐようになっているのだ。さらに皇后陛下は初の民間出身者であり、なおかつ若い時から貴賓に溢れているので、こちらの被災者だけでなく、国民の人気と関心が非常に高い。この皇后陛下あっての冷成の天皇陛下と言ってしまったら不敬なことであろうか?


 この日の宿泊地は天皇陛下の強いご希望で、福井ではなく、前回お泊まりになった金沢の『犬千代館』となった。宮内庁職員や福井県警、石川県警の各本部長は天皇ご夫妻が県を跨いで移動すると、さまざまな問題が生じるとして、福井でのご滞在をお勧めしたが、天皇陛下が「どうしても」と周囲の声に全く聞く耳を持たれなかったため、福井と石川県の県警本部長は緊急で顔をつきあわし、当日の警備体制の見直しをする羽目になった。


『犬千代館』では女将以下全職員が最敬礼で両陛下をお迎えした。女将はまさか、天皇陛下が再び訪れになるとは思っていなかったので、感激と緊張で初回より硬くなっていた。

「お世話になります」

 笑顔の天皇陛下が職員たちに会釈をしつつ中に入る。皇后陛下もそれに続かれる。その頃、厨房ではまた宮内庁大膳課の職員と料理長が今日仕入れた食材を見つつ、夕餉の支度に取り組む。真夏の盛りなので、涼やかかつ、万が一にも食中毒などの不祥事が起こらぬように細心の注意が払われ、地方出身者である料理長の手が震えた。


 やがて、女中たちがお二人の膳を運んできた。ここで女中らの顔を見ていた天皇陛下が、少し不審ぎみに、

「女将よ、今晩は小篠さんはいらっしゃらないのですか?」

 と突然尋ねた。そのお言葉を聞き、女将は懐からハンカチを取り出し、顔に当てると、

「実は、お食事前に申し上げにくいのですが、淳子はここ数日、吐き気がひどいと訴えまして、お休みをさせております。両陛下がお越しになるのを楽しみにしていたようなのでございますが……夏は食材の足が早うございますから、腐ったものでも食べてしまったのですかねえ。いつもは風邪ひとつひかない娘なのですが、サービス業を営むものとしてはお恥ずかしい限りでございます」

 とお伝えした。

「そうですか。それは心配ですね。病院には行かれて診察は受けられたのですか?」

「いえ、それが淳子ときたら大の病院嫌いでございまして。あの大津波の時は病院で生命を救っていただいたのに……まだまだ子供でして。誠に申し訳ございません」

「それはいけませんね。わたくしが病院に行くようにと言っていたとお伝えください。早く、元気になってもらいたいものです」

「お言葉、もったいなく。まことにありがとうございます。そこまで、あの娘に気を遣っていただいて」

「いえいえ、気になさらずに。もう、下がってよろしいですよ」

 そうおっしゃる天皇陛下は少し残念そうに見えた。その横顔を皇后陛下がチラリとご覧になった。


 冷成十三年九月十五日。天皇皇后両陛下は、またしても北陸の被災地を訪れになった。今回は羽田空港から政府専用機で、修復がなった、小松空港までの空の旅であった。三回通ってわかったことは、被災地は場所によって差異はあれど、早くも確実に復興への道を歩み始めているということである。人々の復興へのモチベーションは徐々にではあるが上がっていた。それに拍車をかけるのが天皇皇后両陛下の毎月に亘る御訪問である。お二人の優しい笑顔を見ると、なぜかこの国の人々は心底からやる気が出るのである。たくましく生きる望みが出てくるのである。


 三回目のお宿も『犬千代館』である。天皇陛下が非常にお気に入られたと、金沢のタウン誌にも紹介され、千客万来大繁盛らしい。女将の顔もホクホクである。

 先月、病気でいなかった小篠淳子も女中として配膳係として働いている。

 その両陛下のお食事中のことである。

「陛下、お食事中にご無礼をいたしますが、少々差し込みがいたしますので、手水を使いに行ってよろしいでしょうか?」

 急に皇后陛下が許しを乞うた。

「わたくしに遠慮なぞ不要ですよ。何事もなければよいですが」

「はい、おそらくは大事ないかとは思いますが、取り急ぎ失礼します」

 皇后陛下は少し青白い顔をして退室した。それからすぐのことである。

「陛下、御無礼ながらお話がございます。小篠淳子でございます」

 襖の向こうで声がする。

「ああ、お入りなさい」

 天皇陛下がお呼びになる。

「失礼いたします」

 淳子が入ってきた。

「先日の吐き気はもう治りましたか? 先月はお会いできず、とても残念でした」

「申し訳ございませんでした。実はお話とはそのことなのでございますが……」

「どうしましたか?」

「陛下のお言いつけを守って、あれから病院に行って参りました。そうしましたら……」

 淳子は逡巡する。

「なんでも言いなさい。遠慮なく」

「……わたくし、身籠りましたようでございます」

「…………」

 突然の告白に天皇陛下も咄嗟には声がお出にならなかった。

「……そうですか。いま何ヶ月?」

 天皇陛下は、聞かずともわかることをお尋ねになった。

「三ヶ月でございます」

「そう……うん、あなたはなにひとつ心配することはないです。わたくしが丈夫な赤ちゃんを産めるように方々に手配をいたしましょう。ただ……」

「ありがとう存じます。堕胎せよと命じられると思っておりました。ところで、ただ、なんでございましょう?」

「皇后の真紀子には、いや誰にもこのことは言わないでください。誰にも知られぬように。この料亭も明日にはおやめなさい。連絡は電話、そう携帯電話をお持ちなら、そちらでいたしましょう」

「わかりました。ありがとう存じます」

 淳子は携帯電話の番号を紙ナプキンに書いて天皇陛下にお渡しすると皇后陛下と入れ違うように出て行った。


 その頃、衆議院予算委員会では、天皇陛下の毎月の行幸について、野党各党が阿呆内閣総理大臣を攻撃していた。

 質問者は、民民党(当時)の辻斬清美(つじぎり・きよみ)議員。

「総理、あのねえ。確かに未曾有の震災被災者の元に天皇が訪れるのは大事なことですよ。でもねえ、毎月毎月行かれていたら、税金いくらかかりますの? 被災してない地域の人が怒りませんか? 二億、二億円ですよ。しかもこれ、皇室のお金やなくて、一般会計から出てるでしょ! 総理!」

「阿呆内閣総理大臣」

 予算委員長が眠たげに名を呼ぶ。

「辻斬さんねえ、あなたは被災地の方のつらさを全然わかっていないのですよ。そこに天皇皇后両陛下が足を運んでくださったら、たいへんに心が救われるのですよ。それにねえ、今回の大震災の復興にいくらかかると思ってるんですか? 五兆円ですよ。すぐに赤字国債を発行しなきゃいけないのです! 二億なんて利子みたいなものですよ。国民の誰もが納得されます」

「辻斬清美くん」

「委員長、総理が暴言を吐かれました。国民の血税をサラ金の利子みたいにおっしゃいました! 総理! 訂正を願います。それに私は阪神淡路大震災の被災者です!」

「阿呆内閣総理大臣」

「わたくしは『サラ金』なんて申し上げていません。虚言を吐かないでください。あなたこそ訂正なさい!」

……バカとマヌケの絡み合いは聞くに耐えないものがある。しかもこの醜態は国営放送で中継されているのだ。誰も視聴しないだろうが。全く国会議員など、このように崇高な精神など持ち合わせていないものの集団なのである。


 

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