第6話
金の切れ目が縁の切れ目、と百合子は踏んでいたようだが、
「でも一緒にいることがさくらの幸せなら、自分は純粋にさくらを幸せにしたいと思ってます」
と返ってきた大輔の返事を聞いた百合子は、
「彼なら見込みがある」
と値踏んだようで、
「それなら、さくらのことお願いしようかしら」
と言い、ゆくゆくは弘明寺の家を二人に譲る路線も、百合子には浮かんでいたらしかった。
そうした折。
失踪中の彬の消息が知れた、というので、百合子からつばさに連絡が回ってきた。
が。
つばさは彬の一件で、出ていたレギュラーの番組は全て降板となり、出ていたコマーシャルも自粛といったかたちに追いやられていたのもあって、
「仮に彬が戻ってきても、つばさちゃんにこれだけの迷惑をかけた訳だから、結婚はなかったことにするより仕方がないわよね」
と、百合子の方から関係の解消を言い出す始末であった。
いっぽうで。
当の彬は、小樽まで逃げていた。
最初どういったつてを頼ったのか札幌へ来たものの、思ったような職が見つからなかったらしい。
しかし。
たまたま住み込みで働いていたススキノの居酒屋の客に小樽の保険の代理店の支店長というのがあって、
「あそこの会社でパティシエを探してるみたいなんだけど」
と、小樽のケーキ工場の、宿舎つきの仕事の口を紹介してもらった。
斯くして。
小樽の中心街から少し離れた銭函の工場で、生クリームのデコレーションを担当するようになったのである。
しかも。
ススキノの頃に知り合ったガーネットという外国人と、同棲までしているのだというのである。
そこまで聞いたつばさは、何か吹っ切れたものがあったようで、
「やっぱり、私なんかじゃ不満だったんだね」
と笑いながら冗談めかして言ったが、
「却って痛々しい」
とまりあに言い返される有り様であった。
果然。
当たり前ながら、即座の離婚となった。
これを聞いておさまらないのが、
「うちの娘を傷もんにしくさってからに」
と、怒り心頭でワナワナと震えた、つばさの母親の美樹である。
当然。
民事の訴訟が京都の裁判所に訴え出された。
わずか四ヶ月ほどの間に、兼康家では二つも裁判を抱える事態となったのである。
「まったくうちの男連中は、ポンコツばっかりで話にならない」
と、大輔にさくらがぼやいたほどである。
さくらと大輔の関係は、兼康家の騒動とは無縁なぐらいに順調そのもので、
「いよいよとなったら弘明寺の家も売って、浮いたお金でどっか郊外に家でも買いましょ」
などと、百合子が皮算用を始めたりした。
それからほどなくして。
例の記者を殴った事件で逮捕されていた穣の裁判が、ついに始まった。
その間に精神鑑定や公判前の整理がおこなわれ、
「まぁほぼ有罪よね」
と百合子ですら読んでいたようであった。
初公判の朝。
東京には珍しく雪が降り、轍にタイヤをとられたタクシーが尻を振って、中には坂の真ん中で往生する車すらあった。
バレンタインが直前の雪に、普段なら売り上げが下がるとわめく百合子も、
「たまには雪の日も悪くないわね」
と、仕事に振り回されないで済む日をひさびさに謳歌していた。
そのいっぽうで。
さくらは裁判の傍聴には行かなかった。
「私はパパの人形じゃないし、大ちゃんと一緒になりたいから」
と、大輔と同棲することを決意していたようである。
その頃のつばさはというと、
「そういえば耀一郎さんの知り合いって、アートとかやってる人いたなぁ」
という切っ掛けで、蒲田を引き払って鶴見に移り、耀一郎の紹介で女流の陶芸家のもとへ通うようになっていた。
「あの人モデルさんをやってたことがあるそうだから、もしかしたらそのあたり吉凶が相半ばするかも知れないけど」
とは言っていたが、いざ通いはじめてみると、
「森島つばさちゃんが来た」
と、親近感をおぼえていたようで、何回か通ううちにすっかり打ち解けていた。
先生の専門は彫刻した角皿や食器であったが、
「私はこういうの作りたくて」
と、型抜きした桜の形に小さな穴を開け、バッグの飾り釦にしたりしていた。
その時期。
例の穣の裁判は尋問を迎えていた。
弁護人、検察、裁判官と入れ替わり立ち替わりするかのごとく、殴ったときの状況やら心境やらを繰り返し問われる。
だんだん穣は顔が険しくなって、
「さっきも言ったろうが」
「それはさっき答えたから知らない」
と、繰り返し訊かれるのにうんざりした様子を露骨なまでに出して、隠そうともしなかった。
すると裁判官は、
「イライラするのは分かりますが、これは裁判です。記録が残りますから、面倒でも答えてください」
と忠告気味に言ったのだが、それが余計に癇に障ったようで、
「どうせ有罪なんだろ」
と開き直った。
傍聴席の百合子は渋い顔を作って、
「あれでは話にならない」
と脇に座る大輔にささやいた。
当の穣は、
「だいたい向こうが取材と言って、しつこくつけ回るからこうなった。それでもこっちが有罪なら、こんな勿体ぶらないで、さっさとやっつけ仕事で判決でも何でも適当に出せばいいじゃないか」
とまで言った瞬間、表情が強張った。
しばらく眼を見開いたまま微動もせず、やがて穣の体は証言席の床へ崩れ落ちた。
はじめは何事かわからなかった。
が。
穣の体調に異変を来しているのが分かったのは、倒れて穣の口から、それまで聞いたこともないような、いびきのような声がしたからである。
「…もし、大丈夫ですか?」
弁護人の事務方が揺すったが、反応がない。
次第に法廷はざわつく。
「ひとまず救急車を。いったん休廷とします」
裁判官は座を立つと、そのまま我関せずとばかりに退席した。
休廷とは言ったものの法廷は騒然としていた。
明らかに何か発作が起きたのである。
記者は廷内の一部始終を知らせに蜘蛛の子のように走り散る、事務員が飛んでくる、救急隊は来る…と、裁判所の廊下は灰神楽の立つ騒ぎで、
「百合子おばさん、これって一大事ですよ」
と大輔はすでに顔がひきつっている。
が。
百合子は案外冷静で、
「…もしかして、中ったかな」
と言った。
「…あたった?」
「うちの人、高血圧だったからね…だから脳とか心臓とか危ないからって、あれほど言ってたのに」
百合子は席を立った。
「大輔くん、もうさくらを幸せにできるのは、あなたしかいないみたいね」
とだけ言うと、百合子は焦る風も見せず歩き始めた。
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