第7話
やがて判明してきた病状は、
「かなり重篤である」
ということであった。
「いわゆる脳出血ですが、どうやら脳幹に近い位置を直撃したようでして…」
病院で百合子が医師からの説明を受けている間、大輔は百合子の指示でさくらに連絡を取った。
さくらが駆け付けたときには、
「正直、どこまで持つか分かりません」
万が一の準備だけはお願いします、と医師は言った。
さくらは一人では不安もあったのか、姉のように慕うつばさを連れて来ている。
つばさはどうしたら良いか分からなかったらしく、
「まりあ、どないしたらえぇ?」
と骨肉に染み付いたであろう関西弁で、パニックになっているのが、付き添いに来ていたまりあでも、すぐ気づくほどになっていた。
まりあは男手が要ると踏んだものか、耀一郎に声をかけたらしく、
「取り敢えず、車を出せばいいんだね」
と淡々とした様子で、耀一郎は愛車のケータハムセブンの幌を広げてから、まりあとつばさを乗せ、病院まで飛ばしてきたらしかった。
耀一郎は帰ろうとした。
が。
「もし、辻さん」
百合子が引き留めた。
「うちは見ての通り男手が少なくて、差し支えなければ手伝ってもらえないか」
もちろん礼ははずむ、と言った。
「自分は…あくまでも部外者なので」
自分は送りに来ただけですから、とお辞儀をした。
そこへ大輔が戻ってきた。
「…おい、逃げるのか」
大輔は底響きのする声を出した。
今までさくらも、つばさも百合子も聞いたこともないような声である。
しかし。
耀一郎はむしろ逆手に取って、
「これだけ迫力のある方が一人いれば、私なんか出る幕もないから大丈夫でしょう」
と再びお辞儀をして、その場を離れた。
翌朝。
穣は息を引き取った。
別に耀一郎は何の関知もなかったが、
「なんで帰ったの?」
とあとから、まりあがなじるように問い詰めると、
「…あの男のこと、知ってるんだよ」
と耀一郎は、大輔を指した。
「ダァって大ちゃんのこと知ってたの?」
「まぁね」
しかし。
耀一郎は大輔のような一流大学の出ではない。
「じゃあ何で」
「彼は間違えてなければ、コマーシャル関係のサークルの所属だったはずだけど、いわゆるいろんな噂がこっちの耳まで入っててね」
というのも。
かつて御用邸の近くにある合宿所で、女子大生に酒を無理に飲ませた上で濫妨に及んだり、乱痴気騒ぎを起こしては警察沙汰になったり…と良からぬ噂がはびこっていたのを、耀一郎は聞いていたようであった。
にわかにはまりあも信じられなかったが、その女子大生に無理やり酒を飲ませた件は、今からずいぶん前の話ながら、テレビや新聞でもかつて連日出ていたセンセーショナルな事件であったから、
「まさか…」
「まぁクロだとは言わないけど、同じ穴のムジナということわざもある」
「でも何で」
「…ドスの利いた声で、逃げるのかって言ったろ?」
あれは慣れてないと出ない台詞だよ、と耀一郎は何かの核心を見抜いたような顔をしていた。
この耀一郎という男、普段はつかみどころのない性分ではあるが、一言で相手にとどめを刺すような側面がある。
前にまりあがファッション雑誌に所属していた頃、
「私もまりあみたいに痩せなきゃなぁ」
と、明らかにまりあより細身であるにも関わらず言い続けていたモデルがあって、同席していた耀一郎に対し、
「耀一郎さんも、まりあはスリムだからうらやましがられるんじゃない?」
と一の矢が来たので、
「昔あなたより細身の彼女いましたけど、けっこう薄情でね」
とやり返したこともある。
それからほどなく。
穣の裁判が打ち切りとなり、いわばマスコミからの波状攻撃からは何とか逃れたかたちとはなったのだが、
「いまさら馬車道の店を買い戻すったってねぇ」
と、百合子はもう関わりたくないといったような顔を作った。
その頃。
小樽の工場にいた彬に、変化があった。
「アッキー、あのね…」
出来たみたいなの、とガーネットが妊娠した…というのである。
しばらく彬は考え込んでいたが、
「アメリカに行こうか」
と、ガーネットの母国への渡航を口にした。
「なんで?」
「日本にいても、メリットは少ないんだよね」
そこからの彬の行動は、
「背に羽が生えた」
と言われるほど迅速であったらしく、あれほど気に入っていた愛車を、高値で買う見積もりを出した札幌の業者に売って、身辺の物もすっきりさせた上で、
「さ、行こうか」
と、安定期に入ったばかりのガーネットと、千歳の飛行場からまずハワイに向けて、出発したのである。
彬が日本を脱出したという話が弘明寺の兼康家に伝わってきたのは、出発してから半月以上も過ぎた、桜の時期になってからである。
この頃になると百合子も彬についてはすっかり諦めたようで、
「こうなったら仕方ないわね」
と、彬を戸籍から抜く手続きをとっている。
一連の騒動で半年あまりの間にすっかり老け込んでしまった百合子は、
「あんたたち早く入籍しちゃいなさいよ」
と、さくらと大輔に結婚をすすめた。
大輔は躊躇したが、
「ママもあぁ言ってるしさ」
と、さくらは早くも乗り気になっていた。
が。
しばらくして年度が変わってすぐ、
「もしもし、兼康百合子さんでいらっしゃいますか?」
と、銀行から電話がかかってきた。
「おかしいわね」
百合子は首をかしげた。
口座の金銭は百合子が一括で管理しており、帳簿上は何の問題もないと、税理士からお墨付きをもらったばかりである。
取り敢えず窓口に百合子が行くと、別室へと案内された。
「実は当銀行で、こちらの口座の確認作業をしておりまして」
と印刷された履歴を担当が指しながら、
「こちらのお金は、どういう流れなんでしょうか?」
と、見たこともない不明金の流れがあることが、指摘されたのである。
見ると、
「こちらの兼康穣さまから、こちらの橋元静加さまへお金が払い込まれておりまして」
それは馬車道の店を手放す直前あたりまでの日付が、最後になっていた。
「手前どもで確認させていただきましたが、判断できませんでしたので、従業員さまかご親族でいらっしゃるかどうか、ご確認をいただきたいということで、ご連絡を差し上げました」
百合子はキョトンとした。
少なくとも橋元静加という従業員は馬車道にはいない。
「では、部外者ということになりますね?」
「何か関連があるんですか?」
「実は相続の手続きで、仮にこの橋元さまが兼康穣さまと何らかのご関係があった場合、相続の権利が派生するかしないかという重大な問題がございまして」
行員は言った。
つまり。
相続人が増えるかもしれない、ということなのである。
「兼康さまは遺言状を残さないで他界してらっしゃいますので、定期預金口座に関しましては、裁判所で相続の権利がある方々全員の同意がございませんと、勝手に解約を出来ないことになっております」
百合子は顔から血の気が引いていった。
というのも。
兼康家の定期預金口座の金を、さくらと大輔の結婚の費用にあてがおうとしていたからである。
帰ってから話を聞いたつばさは、銀行でもらったコピーをもとに、橋元静加がいるとされる磯子に向かった。
が。
アパートのはずの住所にたどり着くとそこはパスタ屋で、
「うちは競売でこの土地を買いましたからねぇ、昔のことは分からないんですよ」
とオーナーに断言されてしまった。
ところが。
奇跡的にも、居合わせた常連客に、
「あー、橋元さんね。ちょっと前だけど、交通事故で亡くなられてねぇ」
とかろうじて消息を知る人があったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます