第4話
その日の夜。
耀一郎が新川崎の部屋に戻り、取り寄せの余りの干物を肴にチビチビやってると、
「今日はごめんなさい」
とつばさからメッセージが着いた。
耀一郎は返信が早い。
気に入っていた萩焼の酒器を片手に、
「気にしなくていいです。むしろ溜め込むのは良くない」
と返事を出した。
少し、間があって。
「ありがと、耀さん」
絵文字がついていたので、耀一郎はそれ以上のことは深く追わずに、
「取り敢えずこれからお風呂だから」
と、やんわりとした会話の切り方をした。
つばさから見ると。
それは耀一郎なりの気遣いであり、実は物凄く頭脳を使って周囲に波風を出来る限り立てないように生きている風にも見えた。
しかし。
仮にも先輩の彼氏である。
なのでつばさは、
「…優しくなんかしないで、気持ちが変になっちゃうから」
と、なるだけ深入りしないことを、意識的に習慣付けて行く選択をした。
それは。
決して間違いではなく、むしろ彬を選んで間違いはないという意思を表示する、ある種のあらわれでもある。
それは、
「パティシエで経営者と結婚したほうが、金銭面で不安な要素がない」
という、実に生々しくも実際には大事なリスクの回避という側面があったことは否めないであろう。
事実。
そうした結婚はよくある。
だからつばさもそこは後ろ暗さは感じなかったし、
「いいなぁ、会社経営者って玉の輿じゃん」
などと言われることもある。
ただ。
当然ながら嫉妬ややっかみも、ないではない。
後輩のモデルからは、
「ベッドでどんなテクニック使ってたぶらかしたんだろうね」
などと、聞こえよがしに背後から浴びせられることもあった。
そういう話をすると彬は、
「うーん」
と言うだけで要領を得ず、ひどいときなんぞは、まともな答えも返ってこない。
が。
耀一郎は違って、
「まぁ世の中はそういうものさ、誰もが善人な訳ではないし、他人の不幸は蜜の味だからね」
むしろ目一杯幸せになって蜜も味わえないようにするのがいい、とシンプルで明快なのである。
まりあもその手法で、
「私は英語と日本語がごちゃごちゃになっちゃうんだよね」
などとバイリンガルのモデルが英語をひけらかし気味に言ってきたときに、
「あ、それで話が噛み合わないんだね」
と、一撃で仕留めたこともあった。
それでまりあは口が悪いだの、毒舌だのと言われたりしたが、
「ダァのおかげで、いじめられずに済んでるよ」
と、まりあが持ってなかった着眼点を耀一郎が教えてくれたことを、ありがたく感じている様子でもあった。
つばさは彬にそれを求めるのは無理だろうなと感じながらも、
「でも彬だと、少なくとも言い返すってチョイスはないんだろうなぁ」
少なくとも彬は怒らない。
まず声を荒らげた場面は見たことがない。
例えば厨房で、入ったばかりの新人がクリームの練り方に苦労してても、
「ヘラをこうやって使って練ると、均等に空気を含ませられる」
と丁寧に指導したりする。
なので、
「彬さんは穣さんと違って優しいから、新人が辞めなくなりました」
と事務方に言われることもあった。
しかしそれは、彬が強く出ないという意味であり、時折、
「もう少し彬さんが強く言ってくれると、助かるんですけどね」
とこぼす従業員も、いないではなかった。
そうしたなか。
つばさがロケで金沢に来ていた日の夜中、ホテルで食事の撮影のスタンバイをしていたとき、
「つばさちゃん、兼康さんから電話です」
とマネージャーが慌ただしく、携帯電話を持ってきた。
「はい変わりました」
「もしもし、つばささんですか?」
声は彬ではない。
ちょっと舌っ足らずな言い回しは、さくらの特徴でもある。
「あら、さくらちゃんどうしたの?」
「実は…お兄ちゃんが」
さくらは電話口の向こう側で言葉を選んでから、
「お兄ちゃん、一週間ぐらい前から連絡つかないんです」
予期すらしない言葉に、つばさは全てが一瞬、固まった。
「それでママが、もしかしたらつばさちゃんなら何か知ってるかなって」
番号は、たまたまさくらが知っていたからといった理由で、かけたものらしかった。
つばさは内心はかなり動悸がしていたが、
「うん分かった、ひとまず仕事終わったら連絡するね」
そう切ってから、いわゆる食レポと呼ばれる撮影が始まった。
共演者に感づかれないかどうかが気掛かりではあったが、
「この刺身おいしいですね」
などとコメントを増やすことで、目をそらすことには取り敢えず成功した。
チェックも済ませるとマネージャーのもとへ駆け寄って、
「マネージャーさん、確か明日は移動日だよね?」
頼み込んで、早い新幹線を押さえてもらい、その日は宿で仮眠を軽くとってから、ほとんど時間らしい時間も取れないまま、金沢駅を出発したのである。
東京駅に着くとさくらが、大輔と二人で迎えに来ていた。
「つばささんでもどこ行ったか分からないなんて、お兄ちゃんったら考えられない」
不機嫌さを隠さないさくらを、大輔が何とかなだめながら過ごしていたようであった。
「何か、お兄さんはここは行くかもみたいな、思い当たる場所って知らないですか?」
大輔が訊いた。
「あんまりアッキーは出掛けたがらないからなぁ」
つばさは答えた。
二人で過ごすときはたいがい、蒲田のつばさの部屋でゆっくり過ごす場合がほとんどで、食事も蒲田の餃子屋であったり、川崎の焼肉屋ぐらいであったりする。
「川崎の行きそうな焼肉屋は、あらかた探したんですけどね…」
「そもそも何でいなくなったの?」
まずつばさはそこが分からなかった。
「もしかしたら、こないだパパと喧嘩したのは知ってるんだけど、あれかな?」
「喧嘩?」
あの怒らない彬が喧嘩、ということだけでもつばさは驚いた。
さくらが聞いた限りの話で行くと、
「お兄ちゃんとパパって、仕事のやり方とかことあるごとにもめてて」
それはつばさが初めて聞く話でもあった。
「こないだだってクリスマスのケーキの方針で喧嘩になって」
「うん」
「ママが仲裁しても何かお兄ちゃん、不満そうだったんだよね」
それもつばさは初耳である。
が。
例のパーティーのときに、大輔に対して「あんなやつとは付き合いを許さない」というようなことを穣が放言していたのは、つばさも知っていた。
なので、
「噂に聞いたとき、まさかとは思ってたんだけど、こんなことになるとはね…」
と、大輔ですらただ驚くばかりであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます