番外編 夏と雷

私が起きるとき、もう彼は台所でコーヒーを淹れるためのお湯を沸かしている。

彼は、一見、几帳面で神経質そうに見えてしまうけれど、実際は全くそんなことはなく、むしろ穏やかで冗談も通じ、とても優しさに溢れた人だ。

彼とはもう長い付き合いになるが、ここ一年、夏帆ちゃんと暮らすようになってからは私の知らない顔ばかりを見せるようになっていた。

「…おはよう」

「ん?あぁ、おはよう、瑠璃子。何、どうかした?」

「別にー」

別に、不満があるわけではない。

彼と夏帆ちゃんが頑張って暮らしていることも知っているし、なにより夏帆ちゃんはとてもいい子で、彼や私のことを好いてくれている。

でも。

「コーヒー飲む?」

「うん…」

席に着く私の目の前に、彼がコーヒーを置く。

「…で、どうしたの?」

「…だから、なんでもないのよ」

そうだ、本当になんでもないことだ。強いて言うなら、私がわがままで子供みたいなところが問題…。

「ところで、最近は小夜って呼んでくれないんだね?」

「えっ?」

「ほら、ここ一年くらいは小夜くんって呼ぶだろ。なんで?」

「なんでって…」

そういえば、彼は私の呼び方を変えなかった。どこにいても私を、瑠璃子と呼ぶ。

本当に嫌になる。そんな些細なことを気にしている自分が。

なにより、そんな変化に気づいてくれる優しさに甘えていることが。

「…夏帆ちゃんは?」

「友達と公園に遊びに行っているけれど?…あぁ、もしかして…寂しかったの?」

私はこくりと頷く。本当に小さい子みたいだ。思わず顔が赤らむ。

「だって、夏帆ちゃんは貴方を小夜って呼ぶじゃない。前は、私だけだったのに…」

彼がさも愉快そうに笑いだす。

「…何?私、本当に寂しかったのよ?!」

「…いや、そことは思わなくて。なんとなく呼び方と関係してるのかな、とは思っていたけれど」

前言撤回。彼は、少し意地の悪いところがある。

彼が軽く息をついて言う。

「…勘違いしないでほしいんだけど、僕だって寂しくないとは言ってないからね。…僕は、夏帆の髪を結ったり、服を一緒に選んでやることはできない」

夏帆ちゃんと話すときとは違う、甘さを纏った声だった。

なんだ、いつもの小夜じゃないか。

「小夜は、不器用すぎよ」

「瑠璃子こそ、そろそろ料理の腕を上げてもいいと思うけど?」

小夜が私の耳元に触れる。

二人の椅子が同時に軋む。

軽く触れる唇と、コーヒーの中に小夜の匂い。

私は、やっぱりこれからも小夜を小夜くんと呼ぶのだと思う。

その分、『くん』を外したときはこうやって思いっきり甘えさせてくれるから。

「今日は、二人で買い物にでも行こうか。夏帆が帰ってくるまで、時間もあるし」

「…うん」


少しくすぐったい朝だった。

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