第3話 五里霧中

2010年、私はフリースクールを辞めた年で私は自由になった。

帰って早々、実家ではバンクバー冬季オリンピックでの話題で賑わっていた。母のお目当てはフィギュアスケートで、花のようにしなやかで妖精のように妖艶に舞う選手に私も見とれた。

でも、そんなわたしの心を傷つけるように、母は、

 「これが私の娘の様だ。」

 とフィギュアスケート選手を指さして語った。

母に愛されなかったこといわゆる普遍的な期待に沿えなかったことを悲しいと思わなかったわけではない。

また、そんな華やかなフィギュアの世界で、国の違う選手が、練習中ジャマしたとかしてないとかいう話題もまたわたしの心をえぐって

 「わたしが生きているのが悪いの?」

 という究極の絶望さえ味あわされた。

ただ、オリンピックのドキドキそわそわ感は、フリースクールを辞めた理由や今後の未来への悩みを紛らわせてくれていた。


冬季オリンピックが終われば、カーラジオからサッカーワールドカップの話題を聞き、リビングに置かれたテレビはその様子を映し出した。

正直、サッカーのルールはよく知らない。

だけど私と同い年の選手や年齢の近い選手が何人もいて、ときめいた。私もチーム一丸となるように夢中で応援した。


年の近い選手の横顔は、どこか忘れかけた亡き人を彷彿した。もし、あの人が生きていたら、こんな表情するのかな?サッカーの才能なんてないけれど…応援する気持ちに唐突に切なさも重ねられた。


頭がくらくらした、まだわかりきれない、死とは何なのか。


そんな微睡んだ頭の時に、浜崎あゆみさんの『Moon』はリリースされていた。

ちょうど、(死者)に対して優しい言葉をかけたいのに心の中でも表現しきれない私の代わりに、愛とは何なのかを教えてくれ私の伝えたい言葉を伝えてくれる歌であった、と思う。

伝えたい心があっても言葉を紡ぐのは難しい。

一体、この死をなんていって繕えばいいんだろうか。

勝手に浜崎あゆみさんの『Moon』で自分の置き所のない気持ちを救ってもらった。


でもいくら心に言葉をあてがっても、それが本当にぴったりくる正解だったとしても…

死の虚しさをこえるには難しい。


歌を聴きつつぼやけた頭の中に、先のサッカー選手のようにキリリとした表情の故人を置いた。彼は柔らかく笑って表情を戻して

「ご飯、半分残り残しておくから。」

と、ワンプレートの料理のお皿を私の前に差し出した。

死んだ兄の残したご飯を食べる空想に乗った。

彼は半分残った食事のお皿を置くと、飛んでいくように消えた。その微かにみえた表情には他に大事な仲間が待っているような、それで急いでいなくなってかのような…。


テレビを見て

音楽をきいて

亡き兄の幻想を巻き戻して見る。

その度にこの人生ではなく新しい人生に生まれ変われるようなことを期待した。

サッカー選手になってるかもしれない。

外国人になって外国にいるかもしれない。

なんてあらゆる妄想が溢れかえして(兄が)居ないという隙間を埋め尽くした。


そんな私の病名は統合失調症。

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